碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

クンユアンへ行った

2016-09-22 22:30:38 | タイ紀行
タイの雨季は曇り時々晴れのち雨のような天候が続きます。気温が雲のせいであまり上がらず過ごしやすいのですが、旅行者にとっては、やはり晴天の続く乾季の方がいいようで、大型のバスで来る中国人観光団体がいない分、観光スポットは静かなようすです。こんな時期に、チェンマイの北西にある、クンユアンやメーホンソーン、パイなどを回ってきました。この旅行はクンユアンの日本祭りの参加要請を受けて無料招待です。経費は日本の領事館かクンユアンの方かどちらが負担しているのかは知りませんが、和服での参加という条件で日本祭りのイベントに参加してきました。出発当日は雨が降る中を日本の林道のような山道(舗装道)を走っておりましたところ、土砂が道路に崩れていて通行止めのためしばらく停車を余儀なくされましたが、無事にクンユアンの町に着きました。ホテルで和服(浴衣)に着替え、会場になっている街の広場へ行くと、屋台やステージなどが設営され、日本文化を紹介するコーナーには茶道や折り紙、習字、空手などの実演スペースが設けられていました。毎年この地で日本祭りが開催されるのですが、どんな経緯ではじめられたのかは知りません。しかしこのクンユアンの街は日本とのご縁が深い街でした。それはかつての戦争の時代に、日本軍のインド侵攻作戦のあの悪名高い、陸軍の歴史の中でも最悪と言われる無謀な補給なきインパール作戦で壊滅した兵隊達が、地獄の敗走の末にたどり着いたのがこのクンユアンであります。50000人の軍隊を送り込んで、半分は戦死あるいは病死、そして傷痍の身となって、飯盒だけで敗走した兵隊達は多くは途中で自死したりマラリアで倒れ白骨街道と言われる悲惨な山道を歩まざるを得なかったのです。日本の地理に例えると作戦本部は仙台にあり攻撃目標のインパールは岐阜市あたりで、その間は山また山の悪路です。そこを大砲を引きずって5万の兵隊が補給もなしに行軍するわけで、弾薬も食料も薬もなにも補給はなく、インパールへ着くころは、ほとんどが壊滅状態であったという。敵に打ち込む弾薬がないので石を投げたというあまりの無謀さに、現場の指揮官は軍法会議で死を覚悟の抗議をしたそうです。その敗走の最終地の一つがこのミャンマーとの国境近くにあるクンユアンでした。ここまでたどり着いた兵隊はやっと生きながらえたという実感を持ったと言います。しかしこの地で、傷病の手当もむなしく死んでいった兵隊も多くいたということです。そんなご縁がある街であるとは知らず、旅行前に若干インターネットで調べたときに初めて知ったのですが、戦争の歴史をこの目で見る機会となりました。




梅雨空のような雲行きで雨にふられる



途中の土砂崩れで倒木が道をふさいだ




 
途中で寄り道した機織りの家




左の方がミャンマーとの国境で、途中にチェックポイントがある



クンユアンの一番大きなホテル




日本祭の会場の入り口 中央のベージュ色の服を着た人が県知事さんです





































































恒例の美人コンテストがありました。



  
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