日本語教育が、変わってきているらしいので、
1年ぶりに研修会に参加してきました。今までの教え方は
文法の枠にはまりがちで、どちらかと言うと、教える側の理屈を
優先した面があったのですが、それは、読む、書く、という面からの
ニーズが強かった時代の名残があったのですが、コミュニケーション
を重視する最近のニーズに対応した教え方が出てきました。
考えてみれば「はじめに言葉ありき」ですから、文法を知らなくても
コミュニケーションはできます。文法が先にあって言葉ができたのではない
のですから当然といえば当然です。それに気が付かなかったのは
教える側の気負いとか完全主義とか、あるいは、国語教科書文法の呪縛
に気が付かなかったのではないかと、思った次第です。
平たく言えば、学習者に既製服を与えてそれを着こなすことを求めるのか
学習者にオーダーメイドの服を作って着こなすことを求めないのかの違い
ではないかと感覚的に思ったのです。後者のやり方ですと、
教える側の者にとっては、かなり力量がないとできないのではないか
と考えておりますが、学習者にとっては、メリットは大きいかもしれません
日本の英語教育でも「読む書く」より「聞く話す」ほうに重点が
移ってきております。世界は狭くなっているのだ。
けれど、ワシの英語力がつかないのはなぜか、それが大問題です。
1年ぶりに研修会に参加してきました。今までの教え方は
文法の枠にはまりがちで、どちらかと言うと、教える側の理屈を
優先した面があったのですが、それは、読む、書く、という面からの
ニーズが強かった時代の名残があったのですが、コミュニケーション
を重視する最近のニーズに対応した教え方が出てきました。
考えてみれば「はじめに言葉ありき」ですから、文法を知らなくても
コミュニケーションはできます。文法が先にあって言葉ができたのではない
のですから当然といえば当然です。それに気が付かなかったのは
教える側の気負いとか完全主義とか、あるいは、国語教科書文法の呪縛
に気が付かなかったのではないかと、思った次第です。
平たく言えば、学習者に既製服を与えてそれを着こなすことを求めるのか
学習者にオーダーメイドの服を作って着こなすことを求めないのかの違い
ではないかと感覚的に思ったのです。後者のやり方ですと、
教える側の者にとっては、かなり力量がないとできないのではないか
と考えておりますが、学習者にとっては、メリットは大きいかもしれません
日本の英語教育でも「読む書く」より「聞く話す」ほうに重点が
移ってきております。世界は狭くなっているのだ。
けれど、ワシの英語力がつかないのはなぜか、それが大問題です。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます