碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

「たまたま」が問題だ

2012-04-17 10:11:59 | 日記風雑感
前回のブログの続きみたいな話です。ワインでも飲みながら読んでください。人生で「たまたま」起った出来事をどう捉えるかということなんですが、昔の哲学者は「たまたま」はありえない、すべては必然であり、それを人は認識できないだけだという意見でした。つまり「偶然」とか「運命」というのは、人にはわからない必然なんだというのです。{たとえばスピノザは『エチカ』のなかで、「あるものが偶然と呼ばれるのは、われわれの認識に欠陥があるからにすぎないのであって、それ以外のいかなる理由でもない」と書いていたし、カントも『純粋理性批判』で、「幸運とか運命とかいった概念は、不当に獲得された概念だ」と述べていた。「たまたま」なんてものは、しょせん認知や思索の対象外だったのだ。不届者(ふとどきもの)だったのだ。 ヘーゲルはもっと過激で、『世界史の哲学についての講義』では「哲学的考察は偶然的なものを排除するという以外の意図はもたない」と言いきった。現象の大半を許容するはずの現象学者フッサールでさえ、その理性主義の立場上、「現象学の領域にはいかなる偶然も存しない」と『イデーン』のなかに書いている。}<松岡正剛 千夜千冊> しかし19世紀になると、18世紀の理性主義の哲学に批判をはさむ哲学者が現れる。シェリング、ショーペンハウアー、ニーチェなどです。この名前を並べると、なぜか、眉につばを塗ってかかる気になるのですが、ヘーゲルが処女著作『精神現象学』を書くと、シェリングはヘーゲル哲学に対する批判者に転じ、独自の思索をするようになる。とくにヘーゲルが「理性的なるものは現実的であり、現実的であるものは理性的である」と説いたことには断乎として譲らず、この世には理性では処理も解決もできない“非合理な事実”があるはずだという観点から、一途に『人間的自由の本質』を書いた。存在の根源に「最古の原始偶然」を認めようとした。「最古の原始偶然」って何かといえば、ワシなんか妄想するのは、1個の卵子に向かって何億個の精子が受胎目指して進んで行く様子で、人が生まれる最初の偶然性とか、もっとさかのぼって、生命が地球上に現れた最初の偶然の一撃なのかと思ってしまうのですが、シェリングの表現では、人がアダムとイブが禁断の実を食べたことによって神との分離を意識しはじめ、「それまで安らいでいた意志が、自身に示された存在を現実に意志して、意志である純粋な存在可能から、偶然的で、引き入れられた存在へと現実に高まる」「根源的出来事」が「最古の原始偶然」だそうです。それならアダムとイブが禁断の実を食べたのは「神の意志」なのか「アダムとイブの意志」なのかはっきりしてと突っ込みをいれたくなるのですが、神学論争は不毛なので、話をもどして、ショーペンハウエルはデカルトやカントが物質界とか物自体とかというふうに見たものをきわめて大胆にも「意志」とみなした。(デカルトは世界を「物質界と精神界」(物心二分論)に分けた)つまり精神界の外にこそ「世界意志」というべきものがあり、人の意志はその一部に過ぎないという、偶然や運命とはこの世界意志のなせるわざであり「生」の根源がこの世界意志とかかわっていると。それを引き継いでニーチェが『力の意志』を書き、超人の運命愛へと進むのです。一方、「偶然」や「たまたま」をなんとか手なずけようとする方法として、統計や確率が発展する。始まりはナポレオンだった。ヨーロッパを征したナポレオンは記録魔であったらしい。彼が官僚に命じてさまざまなことを記録させるとしだいにその中からあることに気がつくのである。病気や犯罪や自殺などのデータが毎年同じような規則で現れてくることに。公的統計からそういうことが見えてくる。自分の統治からみれば、逸脱やばらつきが見えてくる。そこから、「平均」や「正常」という考えが生まれる。統計によって、「正常」と「異常」が分けられる。国家にとっての利益になるものとそうでないものを分けることができる。その情報を一手に独占して国家を運営する方法を手に入れる。それが「統計的官僚制」の始まりであった。現代でも続いているとおり、この方法でそれまでの、世の中はすでに何かによって決められているという「決定論」はだんだん弱められていく。統計の数字が合理と推論の基準として取って代わられるようになるわけです。近代国家や近代社会が「基準」「標準」「平均的価値観」「正常」というものをつくりだしたことによって、しだいに「優位」「優勢」「優生」という概念に片寄るようになった。(正規曲線や正規分布) ところが、ここに大きな歪みが生じていた。優生学(eugenics)というのは、人種や人間を遺伝的な優性人種と劣等人種に分けようということですからね。で、これがのちのナチスによるユダヤ人排斥の科学的根拠になっていった。統計学や確率論が間違っていたというのではないのです。その評価を間違えた。これは現代でも金融資本主義の金融工学なんかに表れていて、リーマンショックの遠い原因と言ってもいいようなもんです。更にいうなら、日本の原発建設の基礎的なデータにおける地震確率や津波の確率の評価にも見られると思う。目的のため手段として統計や確率を用いることや、統治のための手段として、都合のいい評価をすることは統計的官僚制の得意技です。また話はそれそうですが、ちょっとだけ息抜きにそれます。たとえば、原発のある統計で「いやよして」というのがあったとする。すると官僚は「いやよ、して」という風に評価するのです。これを官僚的編集といいます。(冗談です)統計あるいは確率による管理というのは一見、公平で合理的であるように思えるが、実はそれを扱う人間の見かたにバイアスがかかっていて、見たいほうに引きずられていくというのは、心理学のほうの分野です。まったくランダムであってもそれになにか法則があるのではないかと思ってしまうのは、人の性です。特にお金がかかっている場合は、必死なんですね。中立的で公平で善意にみせる強力な管理が凶悪な殺人者の役割を担っているのが現代の社会かも知れません。それで「たまたま」の話にもどるのですが、時間が来てしまいました。続きはいずれ(このブログの内容は松岡正剛 千夜千冊より参照しております)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« めくら千人めあき千人 | トップ | 「たまたま」の哲学 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記風雑感」カテゴリの最新記事