碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

春が来た

2012-04-28 10:46:04 | 日記風雑感
待ちに待った感のある桜があっという間に咲いて、おお、という間に散ってしまいました。自然はいいですね。いい日和になると、ランニングに誘われているようで、落ち着かないのです。先日もオロオロと陽気に誘われて走ってきました。コースは定めず、気の向くまま、足の向くままですが、この季節では、桜が満開でしたので、桜の花を目標に走ってみました。市内は、川沿いの桜並木があるのですが、郊外に出て眺めると、意外と平地の桜は少ないのです。それで気がついたのですが、桜の植えてある場所は、公けの場所がほとんどです。公園、学校幼稚園、神社、墓地、役所、公民館、道路沿いなど人が集まるような場所ばかりですね。公共施設のシンボルツリーになっています。公共施設に桜を植えるというのは明治以降のことだと思うのですが、なぜか個人の家にある桜の木は見当たらないのです。なぜそういうことになっているか理由を考えてみたのですが、桜の花は多くの量、マスで見るのが一番よく花の魅力を味わうことができるので、何本も桜の木を植えるスペースが個人の庭では狭いとか、育てにくいとかあったと思う、武家では桜はすぐに散るから歓迎されなかったこともあったのでしょう。そして近代にはいっては政府の陰謀だとか、つまり、マス(全体)こそ美しいという国家意志の刷り込み?(北朝鮮のマスゲーム)、あるいはパッと咲いてパッと散る潔さ?散ってしまう無常感(あはれ)を本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠みました。そこから(あっぱれ)の武士的精神への解釈的転換こそこの国の近代の特徴的な全体性かなというふうに考えても見ました。むつかしいことは置いといて、西行法師は桜が大好きで「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」の歌は有名で、そのとおり旧暦の2月16日に亡くなったそうです。西行法師もウロウロと旅をするのが好きで、恐らく桜の季節には桜前線を追いかけて桜参りをしていたかもしれません。そういう気持ちは実感としてわかります。ワシも西行法師になりたいと思うくらいです。古来日本人の心に桜が及ぼした影響を考えるに、我々は「桜の意志」によって、コントロールされているかもしれないと考えるのです。神の意志があるのであれば、植物の意志があっても当然です。実は動物は植物に支配されていると考えるのが尋常な考え方で、植物の意志を認識できない人類は生物学的には突然変異奇形種であり、細胞で言えば癌細胞みたいなもんかもしれません。パスカル流にいえば、「人間は考える癌である」というといいすぎでしょうか。決して癌に侵されている人を揶揄するつもりはないので悪しからず。見上げた空が桜の花で埋め尽くされていたとき、人は桜に支配される。人の意志は桜に吸い取られ無力になる。幻想を現実に見ていることに気がつくとき、生命のシンパシーの中にいる快感があふれ出てくる。それが桜の意志だと心に伝わってくる。この瞬間に大地から宇宙へつらなるエーテルが身体のなかを春風と共に突き抜けていくのです。











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