空気が乾燥して、気温が上がると自然発火するのか、あるいは人為的に火をつけるのか、山や野の枯草や落ち葉を燃やす野焼きが発生します。チェンマイ近郊では人為的な野焼きは法律で禁止されており、直接煙の上がる現場を見たわけではないのですが、隣のミャンマーでは、焼畑農法が公然と行われているらしく、その煤煙が広がって、タイまで流れてくるのだそうだ。日本ではちょっと考えられない規模で行われるらしく、空気がかすんで白く見え、近くのドイステープ山さえ見えなくなる。
金沢で言えば、卯辰山が見えなくなるくらい、煤煙が濃くなるのです。まさかタイまで来て、こんな目に合うとは思いませんでした。チェンマイでは2か所で煤煙濃度を測定しておりまして、ドイステープ山がかすんで見えなくなると要注意の黄色ゾーンです。外出はマスクをした方がいい。ちなみに今日の空模様は、晴れですが、PM10の濃度が165UG/m₃と189UG/m₃となっており問題になっているPM2,5の方は出ておりません。AQI(警戒指数)が120と130となっております。この指数が100を超えると要注意ですので、今日はマスクが必要です。昨日歩いておりましたら空から黒い燃えカスが降ってきました。最初どこかでたき火をしているのかと思ってゐましたが、離れた場所でも見かけてはっと気づいたわけです。左義長の時の燃えあがったカスみたいに、わりと大きなものでこんなものがミャンマーからとんでくるのか不思議な気がしましたが、自然の力は侮れないのだ。この時期には乾燥した空気をたよりに、綿毛をつけた種も飛び交う、タンポポのようなものから、もっと大きいやつまで、風に吹かれてフワフワと我が世の春?に浮かれています。
ここで一句
風来坊 きのう見た夢 枯野舞う
芭蕉に叱られそうな気もしますが、俳句と言えば先日チェンマイ大学の図書館で、ある本を見つけまして、それは日本の俳句をベースにした、つまり季節、軽み、滑稽、日常性、などの枠の中で俳句的美意識を表現するアート作品をアジアの作家が持ち寄る展覧会の作品図録です。アジアのアーチストが俳句をどう理解しているかを知る意味で興味深い本でした。日本の作家の作品は当然俳句のイメージが浮き上がってくるのが多いのですが、海外の作品は、そうはいかない作品も多い。ストレートに俳句の限定されたイメージとつながらない。やはり文化の違いというのは、特に美意識は深いところで、共通の認識がないと、理解できるとは言い難いのではないかという気もした。基本的に俳句のコンセプトを表現するという作業と自分の快楽原則に従ってつまり自分が美しい、たのしい、と思うものを表現することの間にある差異を認識せざるを得ないのですが、その二つの要素がうまく結婚できた時にいい作品ができるのではないかなと思ったりします。ちょっと参考にそれぞれの作品の写真を載せますが、いかが感じますか
大塚道夫 <春播> 陶
平安山なほみ <春天来了> 木
城間大輔 <降雨> 錆鉄
豊永恭子<雪之果>和紙
パキット・プンスット<屋頂> 陶
ペーラポン・ドンケーオ<日本2011/03/11> 木
洪峰hong feng <春蚕> 銅
Jun,Beom Soo <花開>プラスチック
王志文Wang chih-Wen <春芯> 樹脂
kim Yong Jun<尋我> プラスティック
Jia,Cia Ru <advice whiapered> mixed media
jian Jiun- jie<外修復弐> 樟木 漆 黄銅
丹治莉恵<孔> 鉄
蔡耀之<傍線> アルミ合金
Kim,Yun SOO <問題的開始> 鋏 紙板
Liao,Hsui-Ling<ハンバーグ> 石 発泡PU
このような、本を眺めているうちに、半日過ぎてしますのです。歳をとると時間のたつのが早い、チェンマイなんぞにいると、なおさらで、一日一善という意味は一膳のご飯を食べてしまうと一日が終わるという意味だと思うようになりました。
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