碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

メディアは革命する!

2011-02-17 10:09:46 | 日記風雑感
昔、マーシャル・マクルーハンという人が「メディア イズ マッサージ」ということを言っていたのを思い出します。彼の言い方によりますと、メディアとはメッセージを伝達するだけではない。メディアの性質そのものがすでにある種のメッセージになっている。それをメディアの肌触り感というのですが、それが「メディア イズ マッサージ」というダジャレた言葉に表されているのです。当時アメリカでは、フォードのムスタングが売れまくっていた。それを例にとりあげて、何故ムスタングが売れるのかを彼の理論で説明すると、それは「ホット」だからという。その反対として「クール」があるのですが、クールというのは賢い、論理的、知的、説明的、怜悧というような意味があって、その反対のホットは感情的、感覚的アブナイ、詩的などのイメージです。そういう「ホット」と「クール」という概念で見ていくとメディアのなかでホットなのはラジオ、クールなのはテレビなんです。高校野球を見るときは、映像はテレビで実況はラジオできくのが面白いように、それぞれのメディアとしての肌触り感が違います。どちらがいいとか悪いとか言っているのではないのです。それぞれの肌触り感が違うということが重要です。この理論で昔、九谷焼の商品開発の講師として、「何が売れるのか」という研修会を持ったこと思い出します。そこで、有田焼きはクールだが志野焼きはホットだとか、赤絵はクールだが釉彩はホットだとか言って比較した覚えがあります。話を戻して、今度の革命に発展した中東のメディアの話ですが、これはすでにご存知のようにインターネットメディアなんです。つまりブログやツイッターによる情報が多くの人々の心に火をつけたのです。これらのメディアは個人から発信されたきわめて、「ホット」なメディアです。人類が持った最も熱いホットメディアがインターネットメディアと言っても過言では無い。個人の感情がもろにでるメディアなんです。2ちゃんねるを見るまでもなく、例えば、新聞に一人の若者が警官につかまって死んだという記事が載ったとしても、革命にまでいくことは無い。ツイッターで、「おれの友人が警察にやられた」と書けば人の心に火がつくのです。そういうメディアを持ってしまったのが現代の私たちの情況です。このメディアは感情を増幅させる。短いツイッターの文章は長い説明や解説を書くには適しません。ほとんど一瞬の叫び、吐息、つぶやきによって詩的な表現になる。そして受け取る者は、そのメッセージから、想像的に情報を膨らませます。そして感情的な反応を余儀なくされる。新聞や、ラジオやテレビが信用できない国では、インターネットメディアが唯一の信用できるメディアでありしかもそれはいちばんホットなメディアであるわけです。その意味で「何が真実なのか」というメディアの使命はこれからどういうふになっていくのか興味があるのですが、国家の嘘を暴露し、組織の悪をあぶり出している内はいいのです。いつのまにか個人の連帯を壊し、何も信用できないさみしい個人を生み出し、挙句の果てには個人の解体すら推し進めるような力が作用するかもしれないことを頭の片隅に想像したりするのです。ネットによるいじめ、誹謗中傷、秋葉原事件などを見ると、我々はこのメディアを手にする意味を問われることになる。このメディアに公正、中立、正義を求めるのは、ないものねだりではあるのですが、社会の木鐸(すでに死語?)としての機能はありえないのでしょうか、それとも何か別の機能ができてくるのでしょか。そこで話は変わりますが、SNSのフェースブックが大きなシェアを獲得したそうです。このSNSの特徴は、実名で登録しなければならないことです。つまり個人が特定できるわけです。ということは、このSNSの品質を保つ上での戦略でしょうが、これって、どう思いますかみなさん。多少責任あるメディアとして存在するでしょうか、ワシの感想は、これはネット上のロータリークラブかライオンズクラブに見えるのです。もともと大学の同窓生のネット構築から発展したらしいですが、仲間内の、つまり同質の人々であるから、名前を名乗っても問題ないので、これを外部の人々にももとめるのは、一種の踏み絵に思えるのは、ワシのものの見方が素直でないからでしょか。これは思うにアメリカ社会の文化背景と日本社会の文化の差異を考えなくてはいけないのでしょう。アメリカ人の個人主義における責任感ということなんですが、なんでこんなことを考えたかというと、先日「淋しいアメリカ人」桐島洋子著を読んでいまして、思ったんです。古い本です。今となっては、当時1975年ころに読んだときは、アメリカ人の退廃ぶりというか、性における開放性ばかり記憶に残っておりまして、その裏に隠された心情というものに気が付かなかったのですけれど、この歳になって、やっとそこが見えてきたと思ったのです。その話を少ししますと、当時アメリカの西海岸では、新聞広告に、愛人やセックスフレンドや夫婦交換や乱交パーティーなどを募集する記事がありまして、その露骨さというか、開けっぴろげさというか開放性に著者の桐島洋子は驚くわけです。そして彼女自身が新聞広告を出して、それらの人々の性態を書いている本です。彼らは、まじめなんです、まじめに愛人をもとめ、まじめに自分の紹介をし、まじめに自分の性の好みを打ち明け、まじめに付きあいたいと思っているのです。それが、変態といわれようが、白い目で見られようが、かまわないと思っています。日本人から見ればまじめにやってるストリップショウに思われるのですが、そこが文化の違いなんです。はずかしいと思うのは、人の目を気にするからで、彼らにとっては、人の目はないのです。(あるとすれば神の目)彼らにあるのは、自分と家族と職場です。その職場は日本と違い縦の人間関係が薄い、家族は核家族で子供はすぐ自立する。地縁血縁の薄いその間を往復しているのがアメリカの平均的な人々です。人が何をしようが、迷惑さえかけなければ、何をしても原則自由であるのがアメリカ社会です。人間を縛る規範がゆるいのです。キリスト教や道徳や倫理は相対的なものとしてしかない。つまり自分しか頼る者がないという観念のなかで育っていますから、ひとの目なんか気にしていられないほど個人主義なんです。それはお金があろうが、無かろうが、学歴があろうが無かろうが、関係なく、個として放り出された人々の生き方なんですね。日本でも最近無縁社会とか言っておりますが、アメリカ社会はそれが前提となっておりました。高校生が私生児を生んでも、けろっとして名前も付けず養子に出してそれで縁が切れる社会です。ですから、ある意味厳しい社会だと思います。そいう社会で生きていくということは、個人としての信用が大切なことでそれがないと付き合ってもらえないのでしょう。契約や約束は必ず守らないと相手にされないし、うそをつくことがいちばん嫌われる社会です。間違った考えを言ってもぜんぜん恥ずかしくないが、嘘を言ったらおしまいという社会です。キリスト教の影響もあると思いますが、嘘をつくことはアメリカでは罪悪です。日本では、間違ったことを言うと恥ずかしいと思う一方で、嘘も方便とか言って嘘に寛容です。元日本国総理であったクルクルハトポッポの例もあるように。ですから、新聞広告に変態をさらけ出しても恥ずかしがることもなく、まじめに本当のことを書くのだと思うのです。そういう観点で見れば、フェースブックは間違いは許されるが嘘は許されないアメリカ文化を象徴しているのかも知れません。これはピューリタン的なのかも知れませんが西欧の文化です。だからこのSNSに入るということは大げさな言い方かもしれませんが、西欧的な文化の踏み絵を踏むということがあるのではないかと思っております。ワシは反欧米主義ではないのですが、文化的グローバリゼーションに組したくない気持ちもあるわけで、たぶんフェースブックには入らないと思います。話は戻りますメディアによる革命が現実として起こったことは、歴史に残ると思います。それもラジオやテレビではなくインターネットメディアであったことは、歴史を加速するのは間違いないとにらんでおります。それがホットなものであるかクールなものであるか神のみぞ知るわけですが。そういえば、日本の菅官政治も3月で崩壊するらしいというのですが、その後どう転ぶのか予想しにくい情況になってきました。国民はホットなものを求めておるのかクールなものをもとめているのかどちらでしょうね。
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