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鉄道写真の振り返り 1996年 番外編

2020-08-14 | 鉄道写真の振り返り
1996年の最後は、鉄道関連ではあるけど、ちょっと離れた番外編。

前回の北海道旅行の後、長い長い夏休みが残っていたので、埼玉に住む同級生を訪ねつつ東京方面に出かけることにした。その途中、以前から興味のあった「白棚線」を訪ねた。

白棚線は、東北本線白河駅と水郡線磐城棚倉駅間を結ぶ鉄道路線であったが、戦時中に不要不急線として線路が撤去され、戦後鉄道としては復活せず線路跡をバス専用道路(国鉄バス→JRバス関東)として活用したもの。東日本大震災後に鉄道としての復活を断念した気仙沼線、大船渡線一部区間のBRTと基本的に同じ形態。こんな路線が東北にあることを知ったのは高校の頃だっただろうか。いつか乗ってみたいと思っていて、念願叶っての訪問だったのだ。

白河駅前
バスが左端に待機している。私が乗ったバスは、新白河駅に立ち寄った後、バス専用道に向かったと記憶している。

立派な駅舎を持つ磐城金山「駅」
このときは知らなかったが、駅舎は私が訪ねた1996年に解体されたとのこと。運が良かった(間に合った)のだ。

磐城金山駅の「プラットホーム」
相対式ホームによる交換駅の雰囲気。実際、専用道路は下の写真のように「単線」なので、交換可能なスペース(待避所)が必要なのだ(待避所は本線上にも存在する)。後方に写る来々軒で、遅めの昼食を取ったっけな。

白河方面への帰り道、バス車内にて

林の中は、トンネルのような雰囲気


一般道路との交差部 ※この写真のみ、同年3月に通りかかった際に撮影
ちょっとわかりにくいが、いわゆる「踏切」であり、バス専用道路優先(一般道路側は一時停止)となっている。

こんな独特な雰囲気の白棚線であったが、現在は災害や一般道路の改良等により専用道路はだいぶ短くなっているようだ。2007年再び訪れた際、磐城金山駅(バス停)付近は国道となっていたが、専用道路はまだ残っていた。時間があれば、現状を見に行ってみたいものだ。

鉄道写真の振り返り 1996年 その2

2020-08-08 | 鉄道写真の振り返り
1996年の二つ目のネタは夏の北海道旅行。なんとなく集まった同期15人で4泊5日(実質4泊4日)、会費25,000円也のケチケチ旅。
 1日目:仙台→(船中泊:太平洋フェリー)
 2日目:→苫小牧→札幌 (札幌市内泊)
 3日目:札幌→(車中泊:快速ミッドナイト)
 4日目:→函館 (函館市内泊)
 5日目:函館→青森→仙台

旅の思い出は別の機会にまとめるとして、写真についてはかなり残念と言わざるを得ない。とりあえず、鉄系の写真を集めてみよう。

郵便荷物合造車キハユニ25、小樽交通記念館(現:小樽市総合博物館)にて
現在も展示されている。

特急型気動車キハ82
同じく現在も展示されている。

函館市電2系統、谷地頭電停にて
この写真の715は車体更新(台車を活用?)により7001に変わったらしいが、同系列車両(710形)は今なお現役。

ということで、わかりやすい鉄道写真は以上の3枚のみ。うち2枚は展示物で、今もって同じように残っている。一方、この旅で乗車した快速ミッドナイト、快速海峡は、ともに過去のものとなって久しいが、残念なことに写真に残していない。その価値はともかく、軽く記録だけでもしておけば良かったのにと心底思う。そもそも、この行程を組んだのは私なのだから、それぞれの列車に多少のこだわりを持っていたはずなのだが。

悔しいので、一応函館駅も写っている夜景写真を載せてみよう。

典型的な函館夜景写真
この写真を撮るために、10枚分ぐらいのフィルムを消費している。高いロープウェイ代を払ったからには元を取らねば、とでも思ったのだろうか。せめてその1~2枚だけでも海峡号に使えば良かったのに。

東北新幹線開業前の八戸駅
何故に撮影したのか全く覚えてないが、現在は完全に景色が変わっているので記録として価値はある?

ということで、だいぶ残念な北海道旅行の写真でした。
(旅としては、なかなか面白かったですよ。)

鉄道写真の振り返り 1996年 その1

2020-08-02 | 鉄道写真の振り返り
高校を卒業し、仙台で一人暮らしを始めた1996年の春。希望に満ちあふれたスタートだったかどうかは微妙なところだが、自由な時間が増えたのはありがたかった。お金は無かったけど。

さて、アルバムに残る仙台での最初の写真は仙石線仙台駅。このころ、仙石線はあおば通・仙台~陸前原ノ町の地下化工事の最中で、無くなる前に行っておかねばと出かけたのかな。実際に地下化開業したのは4年後の2000年春なので、ちょっとフライング。

仙石線東口改札
実際には東北本線・仙山線ホームにも行けるし、東側にある唯一の改札なので堂々と「東口改札」と名乗っても良さそうだが、雰囲気としてはやはり仙石線専用の感が強い。

この頃は仙石1番線、仙石2番線と東北本線・仙山線から独立した番号が振られていた。手元の時刻表によると、1998年頃に8番線、9番線へ変更されたようだ。


発車を待つ高城町行き普通列車
JR東日本から姿を消して久しい103系電車。存在感が際立つ後付けのドアボタンや、ドアの開閉に関係なく(?)独特の響きを奏でるドアブザーが懐かしい。

頭端式ホーム
写真ではちょっと小さくわかりにくいが、奥の方(時計の先)に西側の仙石線口に向かう地下通路への階段があった。

地下通路を西方を見る。手前の6、7番線は主に仙山線乗り場(現:7、8番線)で、細い通路の先の階段を上るとホームに出ることができた(今は跡形も無い)。

西側の仙石線口から東方を見る。通路の先に仙石線乗り場へ向かう階段が見える。独特な雰囲気が感じられた仙石線口改札付近の写真も撮っておけば良かったと今さら後悔する。

駅の東側からホームを見る。背後の駅本屋とのスケール差だけでなく、駅周囲の古めかしい感じ(木製の杭&金属線の柵など)も興味深い。


確か東七番丁踏切
この時は駅内外の写真を撮っただけだったが、せっかくだから1駅ぐらい列車に乗って、例えば榴ヶ岡駅などを記録しておいても良かったなあ。

こんな感じでわざわざ(?)写真を撮った仙石線であるが、実のところ乗車機会はあまりなかった。初めて乗ったのは高校生の時(1994年)で、その後1999年に弟が多賀城に引っ越してくるまで乗ってないかもしれない。学生当時の感覚として、「乗る」だけを目的としてお金を出すのには抵抗感があったのだろう(松島とか、行く用事無かったし)。久々に乗って感じたのが仙台~多賀城の近さ。快速で所要時間12分というのは、私が八木山から街中に降りていくよりよっぽど早く、弟が大変うらやましかった。

仙台駅の外れから住宅街をくねくねと窮屈そうに疾走する103系は、割と最近のようで既に20年も昔のことなのだなあ・・・。

ちなみに、この時の写真はコニカC35最後の出番でありました。
※今さらながら、1992~1995年の写真は一眼レフで撮影しています。

鉄道写真の振り返り 1995年

2020-07-25 | 鉄道写真の振り返り
高校生活も終盤となりあまり遊んでいられなくなったので、写真は2月のSLのみ。
このころ、冬の恒例行事として磐越西線郡山~会津若松間でSL磐梯会津路号(D51 498)が走っていた。SLばんえつ物語(C57 180)の運転は1999年からなので、会津のSLといえばD51のイメージであったのだ。

SL磐梯会津路号 磐梯町駅にて(トリミング)
ビバあいづ号と交換を兼ねた長時間停車か、SLの前には人だかりができている。待ち構えるカメラ集団も、だいぶ線路寄りまで攻め込んでいる感じだが、当時としてはOKの範囲内だったのかもしれない。
ちなみに、この後SLはこちら側に向かってくるわけだが、その写真はきっちりとピントを外し、見られるものではない状態に・・・。

気を取り直して、磐梯山を背景に何枚か。

SL磐梯会津路号
ほとんど転がっているような状態で、煙は全く見えず。

ED75+14系(座席車)?
だいぶ不鮮明なのだが、窓割りからすると14系と思われる。何の臨時列車だったのだろうか。

オリエントサルーン おそらく翁島駅にて
牽引は専用塗装のED75。この3年前(1992年)に郡山で出会ったED77は、すでに磐越西線を去っていた。

こうしてみると、この日の磐越西線は多彩な顔ぶれだったのだなあ。

鉄道写真の振り返り 1994年

2020-07-23 | 鉄道写真の振り返り
予告どおり前回から1年飛ばして1994年。この年はあまり写真がありません。

SL平成奥の細道号 奥羽本線北山形~羽前千歳
馬見ヶ崎川を渡るD51 498+12系客車。1994年9月に山形~新庄で運転されたが、1992年に同区間で運転された「SLべにばな号」ほどの情報が無く、やっとこさネットで見つけた。当時、長井から山形までわざわざ撮影しに行ったのだから、事前にそれなりの情報は得ていたはずなのだが。
この写真、かなりピントを外しており、シャープネスをガンガンかけて低解像度で何とか見られるか、ぐらいのできばえ。山形新幹線新庄延伸後には見ることのできない光景なのだから、もう少し慎重に撮っておけば・・・と悔やまれる。

フラワー長井線 長井~羽前成田 ※当時あやめ公園駅は未開業
野川の鉄橋を渡る下り列車。光線の具合(車両正面の処理)とか、全く考えてなかったんだろうな…。かといって、今ならうまくとれる自信はないけど。

この年は修学旅行で広島・京都・奈良を訪れたのだが、鉄系の写真は皆無。今思えば、16両フル編成の新幹線100系電車(結果的に唯一の乗車機会だった…)や京阪京津線(宿舎が京津三条駅のすぐ前だったのに…)の写真を撮っておくべきだった。京都での自由行動が嵯峨野観光鉄道の運休日である水曜日(日付は忘れたが曜日はしつこく覚えている)だったので、全般的にやる気が起きなかったのかなあ。