鉄道写真の振り返り 1998年

2020-08-29 | 鉄道写真の振り返り
大学生活3年目となるこの年、前半はアルバイトに明け暮れ、後半は改心して勉強をがんばった(当社比)ため、鉄系の写真は「ムダ走り」の5枚のみ。

なぜにムダ走りかというと、目的地での用事も無いのに新幹線に乗ったから。当時発売されていた「ウィークエンドフリーきっぷ」を使い、本来の用事が済んだ後に「まだ半日使えるのに、乗らないのはもったいない」と仙台→福島→盛岡→仙台を往復したのだ。

「ウィークエンドフリーきっぷ」は、JR東日本全線で新幹線を含む特急、急行、普通列車の自由席に土日・祝祭日のうち連続する2日間乗り放題で16,000円也。感覚的には、2010年春をもって発売終了となった土・日きっぷや三連休パスのような大変ありがたいきっぷであった(指定席や他会社線は利用できないが)。最近は、特急乗り放題系のきっぷがめっきり減ってしまったなあ・・・。

時は1998年5月。写真と当時の時刻表を眺めながら、この日の動きを振り返ってみる。

福島駅12番線に停車するE4系

E4系は1997年末の運用開始で、1998年春のダイヤ改正時点では東北新幹線の上下2往復(那須塩原→東京、東京~盛岡、東京→仙台)に2編成併結の16両で運用されていた。私が乗車したのは「Maxやまびこ48号」の仙台(15:32)→福島(15:56)となる。後方には、オリジナル塗装で現役バリバリの200系も見える。

福島駅14番線に停車する200系+400系

Maxやまびこ48号の到着・発車前後のダイヤより、「やまびこ・つばさ137号(15:57着、15:59/16:01発)」と思われる。もっと近くで撮っておけば良かったが、時間的にちょっと厳しかったのかな。


福島駅西口にて

盛岡駅14番線に停車するE3系

福島からは「こまち」に乗って盛岡へ移動。この頃の「こまち」の運行形態は今とだいぶ異なっていた。
・「こまち」はE3系5両編成であった(1998年秋よりE3系6両に増車)
・「こまち」に自由席が存在した(2002年12月より全車指定席に)
・「こまち」に併結する「やまびこ」はE2系8両編成又は200系10両編成であった(1999年12月より全列車E2系と併結)
・200系併結列車の一部で、仙台で分割・併合するものがあった
  →「こまち」編成:仙台~盛岡は無停車で、秋田方面に直通
  →「やまびこ」編成:仙台~盛岡は各駅停車で、盛岡発着
 (1998年12月以降「やまびこ・こまち」は全列車盛岡で分割・併合)
・仙台で分割・併合する列車は郡山、福島にも停車した
 (2002年12月以降、「こまち」の郡山、福島停車は無し)

私が乗車したのは、「こまち49号」の福島(16:30)→盛岡(17:40)であろう。覚えているのは、福島駅で「こまち」の自由席車両に乗り込むも混み合っていて席に着けず、仙台到着時に空いた席に座って盛岡に向かったこと。秋田方面へ向かう方々には少々申し訳ない利用方法ではあったが、仙台→盛岡が45分足らずという速さに素直に感動した。


ツツジが咲く盛岡駅にて

盛岡→仙台の帰りに乗った列車は、残念ながら記録、記憶ともに無い。時間的に、盛岡18:19発の「やまびこ6号」か18:23発の「やまびこ56号」か。おそらく、E2系初乗りとして前者を利用したのではと思うが、この辺が私の詰めの甘さか・・・、残念。

以上、わずか数枚の写真ではあるが、様々な情報が出てきて興味深い。何かと過渡期だったからかな。特に、1日に数本とはいえ福島~秋田を直通できるのは今となってはうらやましい。最近は福島~盛岡ですら乗り換え必須になる時間帯が多く(いわゆる「盛岡やまびこ」の減便)、盛岡・秋田出張が不便になった気がするなあ。

いずれにせよ、当時を振り返るうえで、ちょっとした記録と時刻表の重要性に改めて気づかされたのだった。そういう意味では、貴重なムダ走りであった。

鉄道写真の振り返り 1997年

2020-08-22 | 鉄道写真の振り返り
1997年の春休み、コンビニでのアルバイトの合間に東京へ出かけた。

きっぷは「東京ミニ周遊券」を利用。2013年に廃止された「周遊きっぷ」の前身にあたる「周遊券」は、目的地(自由周遊区間)でのフリー乗車※ができるほか、発着地からの往復に急行列車の普通車自由席を追加料金なしで乗車することができた。

※「ワイド」周遊券では自由周遊区間で特急・急行の普通車自由席を追加料金なしで利用できるが、「ミニ」周遊券は急行のみは可(特急を別途料金が必要)。

当時でも絶滅危惧種と化していた急行列車であるが、春休み期間の臨時列車として急行「津軽」が青森~秋田~山形~仙台~上野で運転されており、仙台(0:57)→東京(5:52)の往路で利用した。この時の時刻表によれば、583系電車で運転された急行津軽はB寝台、グリーン車、普通車指定席、普通車自由席と多彩な編成であった。思えば私にとって初めての夜行列車であったが、残念ながら寝台車に乗るお金は無く(せっかくの周遊券で追加料金を払う考えも無く)、普通車自由席を利用したのであった。

一夜明けた急行津軽普通車の車内
減光されなかったこともあり、私はほとんど眠ることができず。けだるい雰囲気が漂っているように見えるのは私の思い出のせいかな。

上野駅到着
前年のミッドナイトや海峡も、これぐらいの写真を撮っておけば良かったのだが。

そもそも、この時の東京行きはウキウキのお出かけではなかったが、関東まで出てきたからには何か持って帰らねば・・・という私の意地で訪れたのが信越本線横川駅。

信越本線の横川~軽井沢(碓氷峠)は言わずと知れたJR線最急勾配区間で、通過する全列車の高崎側にEF63形電気機関車を補機として連結する特殊な運転を行っていた。同年秋の北陸新幹線開業に伴い廃止されることが決まっていたため、一度見ておきたいと訪れたのだ。この頃はまだ廃止前の大騒ぎのようなものはなく落ち着いた雰囲気であった。

横川駅に進入する金沢行きの特急白山
ボンネット型先頭車の489系。もう少し引きつけて撮れば良かったな。

特急白山のラウンジ&コンビニエンスカー
横川~軽井沢の1区間だけ記念乗車。窓の外では峠の釜めしの販売員の方々が忙しそうにしている。

「ぶどう色2号」に塗られたEF63
横川駅に戻り連結作業を眺める。EF63登場時の塗装を再現した19号機がやってきた。EF63重連を列車後部に連結し、軽井沢まで押し上げる。

EF63を先頭に山を下りてきた特急あさま(多分)


横川駅前の風景
横川~軽井沢間が廃止された今でも、駅前の風景はあまり変わらない?

この後、コンビニバイトがフル稼働となり、鉄系の写真どころでは無くなったのであった。

鉄道写真の振り返り 1996年 番外編

2020-08-14 | 鉄道写真の振り返り
1996年の最後は、鉄道関連ではあるけど、ちょっと離れた番外編。

前回の北海道旅行の後、長い長い夏休みが残っていたので、埼玉に住む同級生を訪ねつつ東京方面に出かけることにした。その途中、以前から興味のあった「白棚線」を訪ねた。

白棚線は、東北本線白河駅と水郡線磐城棚倉駅間を結ぶ鉄道路線であったが、戦時中に不要不急線として線路が撤去され、戦後鉄道としては復活せず線路跡をバス専用道路(国鉄バス→JRバス関東)として活用したもの。東日本大震災後に鉄道としての復活を断念した気仙沼線、大船渡線一部区間のBRTと基本的に同じ形態。こんな路線が東北にあることを知ったのは高校の頃だっただろうか。いつか乗ってみたいと思っていて、念願叶っての訪問だったのだ。

白河駅前
バスが左端に待機している。私が乗ったバスは、新白河駅に立ち寄った後、バス専用道に向かったと記憶している。

立派な駅舎を持つ磐城金山「駅」
このときは知らなかったが、駅舎は私が訪ねた1996年に解体されたとのこと。運が良かった(間に合った)のだ。

磐城金山駅の「プラットホーム」
相対式ホームによる交換駅の雰囲気。実際、専用道路は下の写真のように「単線」なので、交換可能なスペース(待避所)が必要なのだ(待避所は本線上にも存在する)。後方に写る来々軒で、遅めの昼食を取ったっけな。

白河方面への帰り道、バス車内にて

林の中は、トンネルのような雰囲気


一般道路との交差部 ※この写真のみ、同年3月に通りかかった際に撮影
ちょっとわかりにくいが、いわゆる「踏切」であり、バス専用道路優先(一般道路側は一時停止)となっている。

こんな独特な雰囲気の白棚線であったが、現在は災害や一般道路の改良等により専用道路はだいぶ短くなっているようだ。2007年再び訪れた際、磐城金山駅(バス停)付近は国道となっていたが、専用道路はまだ残っていた。時間があれば、現状を見に行ってみたいものだ。

鉄道写真の振り返り 1996年 その2

2020-08-08 | 鉄道写真の振り返り
1996年の二つ目のネタは夏の北海道旅行。なんとなく集まった同期15人で4泊5日(実質4泊4日)、会費25,000円也のケチケチ旅。
 1日目:仙台→(船中泊:太平洋フェリー)
 2日目:→苫小牧→札幌 (札幌市内泊)
 3日目:札幌→(車中泊:快速ミッドナイト)
 4日目:→函館 (函館市内泊)
 5日目:函館→青森→仙台

旅の思い出は別の機会にまとめるとして、写真についてはかなり残念と言わざるを得ない。とりあえず、鉄系の写真を集めてみよう。

郵便荷物合造車キハユニ25、小樽交通記念館(現:小樽市総合博物館)にて
現在も展示されている。

特急型気動車キハ82
同じく現在も展示されている。

函館市電2系統、谷地頭電停にて
この写真の715は車体更新(台車を活用?)により7001に変わったらしいが、同系列車両(710形)は今なお現役。

ということで、わかりやすい鉄道写真は以上の3枚のみ。うち2枚は展示物で、今もって同じように残っている。一方、この旅で乗車した快速ミッドナイト、快速海峡は、ともに過去のものとなって久しいが、残念なことに写真に残していない。その価値はともかく、軽く記録だけでもしておけば良かったのにと心底思う。そもそも、この行程を組んだのは私なのだから、それぞれの列車に多少のこだわりを持っていたはずなのだが。

悔しいので、一応函館駅も写っている夜景写真を載せてみよう。

典型的な函館夜景写真
この写真を撮るために、10枚分ぐらいのフィルムを消費している。高いロープウェイ代を払ったからには元を取らねば、とでも思ったのだろうか。せめてその1~2枚だけでも海峡号に使えば良かったのに。

東北新幹線開業前の八戸駅
何故に撮影したのか全く覚えてないが、現在は完全に景色が変わっているので記録として価値はある?

ということで、だいぶ残念な北海道旅行の写真でした。
(旅としては、なかなか面白かったですよ。)

鉄道写真の振り返り 1996年 その1

2020-08-02 | 鉄道写真の振り返り
高校を卒業し、仙台で一人暮らしを始めた1996年の春。希望に満ちあふれたスタートだったかどうかは微妙なところだが、自由な時間が増えたのはありがたかった。お金は無かったけど。

さて、アルバムに残る仙台での最初の写真は仙石線仙台駅。このころ、仙石線はあおば通・仙台~陸前原ノ町の地下化工事の最中で、無くなる前に行っておかねばと出かけたのかな。実際に地下化開業したのは4年後の2000年春なので、ちょっとフライング。

仙石線東口改札
実際には東北本線・仙山線ホームにも行けるし、東側にある唯一の改札なので堂々と「東口改札」と名乗っても良さそうだが、雰囲気としてはやはり仙石線専用の感が強い。

この頃は仙石1番線、仙石2番線と東北本線・仙山線から独立した番号が振られていた。手元の時刻表によると、1998年頃に8番線、9番線へ変更されたようだ。


発車を待つ高城町行き普通列車
JR東日本から姿を消して久しい103系電車。存在感が際立つ後付けのドアボタンや、ドアの開閉に関係なく(?)独特の響きを奏でるドアブザーが懐かしい。

頭端式ホーム
写真ではちょっと小さくわかりにくいが、奥の方(時計の先)に西側の仙石線口に向かう地下通路への階段があった。

地下通路を西方を見る。手前の6、7番線は主に仙山線乗り場(現:7、8番線)で、細い通路の先の階段を上るとホームに出ることができた(今は跡形も無い)。

西側の仙石線口から東方を見る。通路の先に仙石線乗り場へ向かう階段が見える。独特な雰囲気が感じられた仙石線口改札付近の写真も撮っておけば良かったと今さら後悔する。

駅の東側からホームを見る。背後の駅本屋とのスケール差だけでなく、駅周囲の古めかしい感じ(木製の杭&金属線の柵など)も興味深い。


確か東七番丁踏切
この時は駅内外の写真を撮っただけだったが、せっかくだから1駅ぐらい列車に乗って、例えば榴ヶ岡駅などを記録しておいても良かったなあ。

こんな感じでわざわざ(?)写真を撮った仙石線であるが、実のところ乗車機会はあまりなかった。初めて乗ったのは高校生の時(1994年)で、その後1999年に弟が多賀城に引っ越してくるまで乗ってないかもしれない。学生当時の感覚として、「乗る」だけを目的としてお金を出すのには抵抗感があったのだろう(松島とか、行く用事無かったし)。久々に乗って感じたのが仙台~多賀城の近さ。快速で所要時間12分というのは、私が八木山から街中に降りていくよりよっぽど早く、弟が大変うらやましかった。

仙台駅の外れから住宅街をくねくねと窮屈そうに疾走する103系は、割と最近のようで既に20年も昔のことなのだなあ・・・。

ちなみに、この時の写真はコニカC35最後の出番でありました。
※今さらながら、1992~1995年の写真は一眼レフで撮影しています。