私は物書きが生業ではないし、誰かに約束してブログなるものに手を出しているわけではないから、それが滞っても気にする必要はないはずだ。しかし社会の傍観者ではいられない。明日のために言いたいことはと思って、自分にかぶせたブログなのである。計画性はない。何かにぶつかって胸がときめいたときに、拙さを恐れず記事を重ねてきた。10年目になる。この間、何度かスランプに落ち込むことがある。そのときは一週間前後の空白になる。今もそうなっている。何故かときめきがないのである。どう脱出するか。
一つの方法は本を読むこと。小説、エッセイ、評論を問わない。瀬戸内寂聴さんが『老いを照らす』(朝日新書)で「いくつになっても胸のときめきを忘れないで生きましょう」と言っていたのを思い出した。85歳のときの法話・講演をまとめたもの。読み直して痛快感を覚えた。解説のスペースはない。「新しいことに挑戦すること・・・このような気構えで生きれば、老いることは決して怖れることではありません・・・老いることに誇りをもちましょう。そうすればきっと美しく老いて死ぬことができますよ」と。すごいチャレンジャーだと思った。
寂聴さんは「私が講演などで”いま85歳です”と言うのは、そう言うとみなさんが必ず”お若いですね”とか”元気ですね”と言ってくださるからです。それが聞きたくてわざと言っているんです」と。正直な人だ。(私も齢を聞かれて87歳だと答えると、同じような言葉が返ってくるのを思い起こした)。サミュエル・ウルマンという人の「青春とは人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ」という詩をあげて「自分らしく生きることが何より大事で、老人らしく生きる必要はないのです」と説くのは、老いも死も恐れぬ人の至言ではなかろうか。
私もいくつかの寂聴さんの小説を読んでいるが、文学への姿勢を語っている部分に惹かれた。「文学というのは、人間を追求する崇高な事業。文学者はその事業を極限まで極める聖職」「小説家は、嘘をほんとらしく書くのが仕事・・・その嘘の中から、いかに真実を示すかが小説家の腕の見せ所」。ポルノ小説だ、子宮作家だと評され、反撃したが故に文壇から追放されるという苦難に合うが、その悪評も精進の糧にして書き続ける。「殺してはならぬ」「殺させてはならぬ」の慈悲の心をもってする世情批判も説得力がある。常にときめいているこの人、スランプはないのだろう。
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