明日につなぎたい

老いのときめき

黒い花

2020-11-28 09:53:35 | 日記

 60年以上も前か「黒い花びら」という歌謡曲が流行ったことを思い出している。歌手は水原 弘。1959年度のレコード大賞受賞曲だそうだ。何でこんなことを思い出したのか。最近、発覚した安倍晋三前首相らがかかわった「桜を見る会」(2019年)の黒い疑惑が念頭にあったから、つい「黒い花びら」が浮かんできただけである。この歌曲が「桜を見る会」なとど全く無縁であることはいうまでもない。「黒い」のは「桜を見る会」、とくにその前夜祭(主催、安倍晋三後援会)に関する資金をめぐってであった。会場は東京都内のホテルニュ―オ―タニ、地元支援者800人の規模、会費1人5000円だった。だが、実際の飲食費は1万1000円、この差額はどうしたのか。これが黒いのだ。安倍氏側が補償した場合は政治資金規正法違反(不記載)の罪に問われることになるのだ。

 

 安倍氏の国会答弁は「(前夜祭)について、すべての費用は参加者の自己負担で支払われており、安倍事務所や安倍晋三後援会としての収入や支出は一切ない」「収支報告書に記載する必要はない」との説明であった。規正法違反などの疑いで安倍氏を刑事告発した法律家は「前夜祭の疑惑が大問題になっていたにもかかわらず、安倍氏側が虚偽の収支報告を提出したとすれば極めて悪質だ」と述べ、さらに「官房長官として安倍氏の主張を追認してきた菅首相の問題でもある。補填した資金をどこから拠出したのか解明すべきだ」と述べている。つまり、補填の原資の出所はどこだ、それを聴いているのに安倍氏側は口を閉じている。そこが黒いのだ。

 

 桜の花が黒いはずはない。シーズンになれば、あるときは爛漫と、あるときは楚々と、世の人の目を楽しませてくれる。私どもの近くには淀川(旧)を挟んだ桜ノ宮という地域がある。読んで字のごとく、桜が咲き競う。大阪城公園もだ。わがマンションの傍にある城北運河に沿う遊歩道にも桜並木が続いている。「見る会」など、近所の人たちが勝手にやっている。にぎやか酒宴の場に出くわすことしばしば。総理大臣や政治家が何もしなくても、季節がくれば花は咲き、人は見て楽しむのだ。黒い野心を持った政治家の出る幕ではない。

 


潔く敗北を認めたら

2020-11-20 12:48:49 | 日記

 目下、大詰めを迎えている大相撲のことではない。大阪市廃止(都構想)を唱えたが、住民投票で負けた維新の会の吉村府知事、松井大阪市長らのことである。行司軍配は大阪市を守りたいとする市民の側に挙げられた。土俵の外に押し出され、砂だらけになった者が、軍配を無視して土俵に上がる資格などあろうはずはない。松井、吉村氏らが来春2月議会に提出する意向だという「広域一元化条例化案」「8区総合化案」などは、その類のものだろう。「大阪市の持つ権限のうち『成長戦略』にかかわるものを大阪府に『委託』し、財源も移す」という。権限も財源も府に委ねる、事実上の大阪市の解体論ではないか。なぜ、行司(市民)の軍配を無視するのか。潔く敗北を認めないのか。未練たらしい醜態ではないか、と言いたくなる。

 

 いうまでもなく「住民投票」での審判は法的に拘束力をもっている。地方自治法の第2章は「住民」の権利・義務を規定している。10条の②には「住民は、法律の定めるところにより、その属する普通地方公共団体の提供をひとしく受ける権利を有し、その負担を分担する義務を負う」との記述があるが、大阪市民である私たちが、とくに注目したいのは、第12章「大都市等に関する特例」である。「人口50万以上の指定都市は、次に掲げる事務のうち都道府県が法律上又はこれに基づく政令の定めるところにより処理することとされているものの全部又は一部で政令で定めるところにより、処理することができる」としている。まわりくどい難しい表現だが、大阪市は大きな力を持っているということだろう。

 

 大阪市が持つ力と財源とは、いったい、誰のものなのか。それは、市長のものでも、議員のものでも、役人のものでも、政党のものでもない。先述したように「地方公共団体の提供をひとしく受ける権利」を持つ住民・大阪市民のものである。この原理、原則をわきまえぬ者たちが、大阪市をなくして大阪都にするとか勝手なことを言っているのだ。統治機構の改革とか構想とか組織いじりに熱をあげる人たちには、地方自治・住民自治の原点が分かっていないのか、あるいは、その原点を否定したいからなのか、どちらかであろう。市役所の職員は市民全体への奉仕者である。そんな使命感と誇りが大阪市を支えている。市民は、そんな市役所であり続けることを切に望んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


神戸牛

2020-11-17 08:46:31 | 日記

 

「神戸牛食ってみたいなぁ」。孫が来ているときに、何気なくつぶやいた。何日かして孫から電話が入った。「16日、休みがとれるから神戸に行こか」。夫妻とも二つ返事。午前11時頃、車で迎えにきてくれた。昼過ぎにはもう神戸市に入った。先ず六甲山だ。小学生のときの遠足以来だから80年ぶりになるか。ケ―ブルカ―を使わず、車でほぼ頂上に登れる。天気は上々、月曜日なのに、かなりの人出だ。大阪湾へカメラを向けたが、春のような気候のためか、空は霞んでいる。水平線なるものもぼんやりしていた。

 

 そそくさと昼食を済ませ、港・神戸に向かう。車から出て埠頭を散策する。一人の釣り人と若い男女一組のほか人影なし。客船か貨物船か、よくわからなかったが、目に入ったのはこの船だけ。賑わしい船の往来を想像していただけに、何か気を削がれた思いがした。コロナ禍の関係だろうか、勝手に想像した。孫が「神戸牛」のレストランと電話で予約していた。時間に余裕があるので、逆行になるが、西宮の戎神社に行って見る。無宗教の私だが、その広大さにびっくり。ここに1月10日の「えべっさん」に何十万かの「善男善女」が集まってくるのだ。

 

 神戸の市街地は、大阪同様に雑踏している。車の入れる余地は皆無。歩いて目標のレストラン(10階)に到着。目の前の鉄板で焼いてくれる。脂っこいしつこさはない。牛の握り寿司は生まれて始めてだった。いくらか、財布の中身を気にしながら、ワインを味わい、神戸牛を口にする94歳の男だった。食後、我が家をめざして一路、高速道路を走る。自宅付近のスーパーに寄り、一人住まいの孫の買い物に付き合う。「金主」の存在に力を得てか、食い物、日用品をどっさり。優しくしてくれる孫のことだ。納得して買い込む。こうして晩秋の1日を終えた。


まだパソコンは動く、脳が働く

2020-11-07 14:14:56 | 日記

 わがパソコン、中々思うようにうごいてくれない。何故だろうか。あれこれ触って見てもびくともしない。欲求不満で床につく。翌朝、やけくそ気味でキ―ボ―ドの裏をあけて見た。これかと思って、電池を新しいのに入れ替えた。パソコンが動いた。この”作業”は、これまでも何度も繰り返している。何だ、こんなことだったのか、ほっとした。同時に、わが迂闊さに呆れた。いま94歳だが、何でも齢の所為にはしたくない。恥ずかしくても、己のこの機器への初歩的、原理的な知識不足を正直に認めたいと思う。

 

 もう少し、踏み込んで、原理的に言えば、私の運動不足に問題があるようだ。生物は常に栄養補給とともに、運動を続けなければ生きていけない。体の一部である脳も同様だろう。78歳から始めたブログづくりも、私の生命を維持する貴重な運動だと思えるようになっている。何年か前に「齢をとってから、そんなしんどいこと、辞めたら」と優しく言ってくれる人もいたが「これが退職後の仕事や、辞められへんわ」と続けることにした。それからでも、もう10年以上は経っている。頑固なのも、ときにはえぇで、である。

 

 私のブログは、一本800ー900字である。それでもペンや鉛筆ではやれなくなってしまっている。パソコンが必須の道具である。滅多に字を書かなくなり、たまに封筒やハガキに宛名を書くとき、いかに自分の字が乱暴で、かつ下手クソであるかを思い知る。滅多に書かないから、余計にそうなっているように思える。それを自覚しながらパソコンから離れられない。字を書かない口実にしているのかもしれない。パソコンが一瞬、不具合になったことから、こんな雑感が湧いてきたのである。東洋古来の文字・文化を尊重しなければ、この思いはもち続けるつもりだが。


大阪市は守れた!

2020-11-02 11:03:55 | 日記

 11月1日夜の気分は爽快だった。維新の会が策した大阪市廃止・分割狙う「大阪都構想」が、住民投票で見事に否決されたのだ。2015年5月に続く2度目の”快挙”である。私は10・23のブログで「負けたらあかんで都構想に」という記事を書いていたので、満足感ひとしお、深夜、布団にもぐってからも悦に入っていた。同時に、地方自治体のあるべき姿を改めて思い描いていた。福祉、医療、教育、環境・・・これらをどうして改善、充実させるか、地方自治体の責務はここにあるのだが「大阪都構想」なるものは、それらの中身より外側ばかりを問題にする逆立ちであった。実を捨てても名をとるという発想ではなかったか。「ポロは着てても心は錦」という歌を耳にしたことがあるが、維新の会はその正反対。「市をボロにして”都”とかの”錦”で飾ろう」という代物ではなかったか。

 

 「何としても大阪市を守ろう」。懸命に頑張る人たちの姿をあちこちで見かけた。いきつけの病院への行き帰りのときも、都構想反対を訴える宣伝カ―に出くわした。手を振って激励する。それだけでは気が済まない。車に向かって拍手を送る。わざわざ車を降りて拍手で応える人も。見知らぬ者同士だが心が通じ合っている。家の近くでは知り合いの数人がメガホンをもって練り歩いていた。「ご苦労労さん」と声をかける。11・1、投票所の門前でも数名の知り合いたちが、大阪市を守りましょうとよびかけていた。こんな草の根の活動に、市民の良識がこたえてくれる。大阪市を無くしてしまおうとする、無情の都構想は厳しい反撃に出会い、敗退したのだ。

 

 維新の会は、制度いじりばかりにご執心のようだ。前述の記事「負けたらあかん・・・」でも、橋下 徹、堺屋太一氏らの著書「体制維新―大阪都」をちょっぴり批判させてもらったが、どうやら維新の会の人たちは「制度いじり」の病気にかかっているらしい。一般にいわれることだが、何か事業がうまくいかないときとか、政策、方針が出せないときに、体制や人事の問題にすりかえる場合があるようだ。維新の会代表の松井一郎大阪市長は引退を表明した、5年前のときの橋下徹氏も住民投票で敗れて辞任した。それは結構なのだが、維新の会の政治の中身、業績の自己検討はどうなのか、それは知りたいものである。