1960年5月19日深夜、自民党は、警官隊、暴力団を国会に導入し、翌20日午前0時すぎ、新安保条約承認の単独採決を強行した。安全保障と名はつくものの、実態は日米共同作戦の義務付け、米軍駐留と基地の使用を受け入れる屈辱的な軍事同盟である。国民の反対運動は史上空前の規模に盛り上がったが、そのエネルギ―源は、日本民族の運命にかかわるとの危機感であった。だが、悔しくも新安保条約は国会で批准されてしまった。冷酷な現実を目の当たりにした学生デモ隊が涙して歌ったのは、故郷の歌「赤とんぼ」だった。安保闘争は故郷を守る戦いだったのだ。
国会議員除名、公職追放の迫害を受けていた川上貫一さんは、安保闘争後の総選挙で見事に返り咲く。64年の委員会や本会議で、アメリカのベトナム侵略戦争と、これに協力する日本政府を鋭く追及した。「政府は、沖縄におけるアメリカの戦争基地をいつまで野放しにするのか、沖縄人民をいつまで見殺しにしておく了見なのか」「一体、池田内閣は、なにからなにまでアメリカに追従しておる。自主独立の心もない」。胸のすく論陣だった。私は、日本の故郷・沖縄を想う川上さんの魂の叫びだと、感動したことを覚えている。
川上さんは正義感旺盛、俊敏な政治家だったが、自然をこよなく愛する文化人だった。達者な書と墨絵で山、川、海の美を表現した。故郷・岡山の山間部を駆け巡った少年期、子どもと遊んだ教師体験、縣、府庁の職員として社会福祉への献身、そして社会矛盾につきあたり、社会主義に目覚めていく。この人生体験が『あしおと』『とおいむかし』という自伝・随筆に収められている。「幾山河越えゆく毎に 山の辺の 夏深む花を 美(め)でてゆくか那(な)」。この和歌は碑に刻まれ、親交のあった西淀病院の庭に建っている。