明日につなぎたい

老いのときめき

「右向け右」は誰の号令か

2012-11-29 12:37:48 | 日記・エッセイ・コラム

 

 「右向け右」の風が吹いている。自民党は4月末に「憲法改正案」を発表した。それによると、戦力不保持を定めた現憲法の9条2項を全文削除、これに代わる新2項で「自衛権の発動」を入れ、新しく9条の「二」を設けて「国防軍」の保持を規定している。草案のQAでは、現行の9条2項の削除によって「自衛権行使の憲法上の制約」はなくなり、集団的自衛権行使が可能になると説明。さらに9条の「二」の3項に「国防軍」の「国際平和活動」への参加を規定し、その際の武力行使も可能だとしているという。

 

 この改憲、どの国に指図されているのか、多くの国民はうすうす感じている。自民党でも他の政党でもそれは分からぬはずはなかろう。集団といっても日本が手を組んでいる同盟者はアメリカだけである。集団的自衛権の行使とは、日本が攻撃されていないのに、アメリカが海外で起こす戦争に、日米同盟の名において戦争に参戦することになるのだ。国防軍なるものは、米軍の指揮下にある自衛隊を、さらに攻撃性・侵略性の濃い軍隊にすることだろう。安倍自民党総裁は「軍事同盟は血の同盟」と言ったそうだが、これで日本が一人前の国、普通の国になるというのか。どこか狂っている。

 

 民主党も公明党も日本維新の会も、集団的自衛権行使を評価し容認している。出来立ての日本未来の党は何も言わない。どの党にも「右向け右」の逆風に逆らう勇気や見識が見えない。日米同盟を絶対化し奉っているからだろうか。自衛とか国防だとかを言うのなら、国民の命と暮らしを考えろと言いたい。震災の復興、放射能被害のこと、雇用不安にさらされる労働者、就職できない学生のこと、危機に面した農業のこと、基地被害、米軍犯罪に苦しむ沖縄のこと。守るべきことが一杯あるではないか。これらの保障は現憲法を守ることだろう。海外で戦争する国など誰も望んではいない。


過ちを重ねるな・・・続・故(ふる)きを温(たず)ねて・・

2012-11-25 17:32:35 | 日記・エッセイ・コラム

 「過ちて改めざる、これを過ちと謂う」(論語)。いろんな場合に使われる孔子の格言だが、かつて政権の座にあった自民党・公明党や、いま政権を担う民主党の人たちが、これを見てよく考えろと言いたくなっている。3・11福島第一原発事故は、両者が「安全神話」を掲げて原発を推進したからである。この過ちは認めたのだろうか。現在、使用済み核燃料の処理は不可能、安全な原発などありえないことが判明している。だが、自民党はいろんな屁理屈で原発存続を主張し、民主党は2030年原発稼働ゼロと言いながら、大飯原発再稼働、大間原発建設を許している。改めていないではないか。過ちを重ねているではないか。

 

 論語に出ている孔子と門弟の子貢との問答が面白い。「最近の政治をしている人たちは、いかがでしょうか」。孔子が言う。「ああ、自分の利益ばかりに敏感な器の小さい者たちだね。士として計るには足りない、つまらない器量だ」。こんどの衆院選に臨むのは14党(11月25日現在)。うち7党が09年以降に出来た新党。党員は日本維新の会をはじめ自民党、民主党を抜けた人が大半である。理念、政策で筋を通すというより、打算が先行し、リ―ダ―の人気や風向きにすがって自己保存をはかっているのではと見る向きが多いようだ。政界の渡り鳥だと比喩される人も少なくない。わが器を自己検討する人はいないのだろうか。

 

 「我は生まれながらにしてこれを知る者に非ず。古を好み、敏にして以てこれを求めたる者なり」。孔子が歴史を学ぶことの大切さを述べた言葉だと思う。論語を絶対視する気はないが、これが日本の思想文化として根づいたことは確かである。日中両国の長い交わりの過程には、戦争のような忌むべき汚点もあったが、双方が文化の恩恵に浴した事柄も少なくなかったはずである。歴史をともに学ぶ。尖閣諸島問題解決の原点もここにあるようだ。かつての日本の侵略戦争や植民地政策に無反省で、反中国の言辞を弄する”暴走老人”や、これに迎合、同調する右翼政治家・歴史の冒涜者をのさばらせるわけにはいかない。


自民コリゴリ、民主ガッカリ、維新もサッパリ

2012-11-21 13:36:32 | 日記・エッセイ・コラム

 

 11月20日、日本維新の会代表代行の橋下徹氏は”太陽の党”との合流にあたり「維新八策」や「党規約」で明記していた『企業団体献金の禁止』を撤回し、一転して企業献金を受け取ることを表明した。言うことがくるくる変わるのはこの人の特性だが、それにしても見事な豹変ぶりである。もちろん、松井一郎維新の会幹事長も同じ態度を表明している。

 

橋下氏はかつて「企業団体献金禁止は維新の会の特徴の1つ。絶対に自民党や民主党ではできない。今までの政治と訣別するという意味で譲れない線だ」と豪語していた。この大看板をいとも簡単に投げ捨てた。その理由なるものは”太陽の党 ”の立場を尊重したからだという。国民は、節操も何もない野合の醜態を見せつけられたわけである。

 

 野合はこれだけではない。「脱原発依存」を唱えたこともある維新の会と、原発推進を公言する石原慎太郎氏との合流は野合そのものである。自民党は原発推進であり、民主党政権のいう2030年原発稼働ゼロ論は、実際の行為を見れば看板に過ぎないものである。維新の会に原発ゼロの悲願を託せるだろうか。太陽の党との合体は、その幻想すらもてない始末になったのではなかろうか。

 

 3年前、多くの人たちは自民党政治はコリゴリだと民主党に望みをかけた。しかし民主党政権のやったことは自民と変わらず、ガッカリだった。既成政党を乗り越えると啖呵を切った維新の会は、自民党より右の石原派と組み、自民の共犯・公明党や”みんなの党”との選挙協力をすすめる。古い自民党型政治を補完する一翼でしかない。サッパリだ。ではまともな対抗者はどこにあるのだろう。マスコミが意図的に無視している勢力のなかにいるのは確かだ。


放浪記を読む

2012-11-18 20:23:09 | 日記・エッセイ・コラム

 先日、名女優と称される森光子さんが亡くなった。92歳。この報に接して、いつかは読もうと思って買っていた林芙美子全集を開いた。目当てはもちろん放浪記。冒頭に「旅愁」の歌詞を引用し、「私は宿命的に放浪者である」から始めて、日記風に、詩を交えながら、流浪の日々を綴った小説である。半日近い時間をかけて読み終えた。飢えた生活、体を売ってしまいたいとか、死んでしまいたいとか、もだえ、のたうつ内面の葛藤、男性遍歴も赤裸々。ベストセラ―になったのも頷ける。言論、表現への抑圧が厳しさを増す昭和初期、よくもここまでという感じもした。

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 この放浪記が演劇になり、作家・林芙美子役を演じたのが森光子さんであることは広く知られている。昭和36年(1961年)の初出演から2009年5月まで、数えて2017回の主演。驚異の記録である。そこには映画、演劇人、そして観客を惹きつける原作の引力があったのだろう。それにしても森光子さんはすごい。「舞台・放浪記」をライフワ―クとした彼女の執念、精進に誰もが感服し敬意を表していることだろう。私はこの舞台を見る機会を逸した。悔やんでも遅い。今日、放送されたテレビで舞台劇を垣間見た。遅まきながら原作も読み終えた。いささかの慰めにすることにした。


アフリカへ”貧者の一灯”

2012-11-15 15:44:07 | 日記・エッセイ・コラム

 ユニセフ(国際連合児童基金)から「アフリカ干ばつ 緊急募金にご協力ください」との手紙が届いた。「昨年アフリカ東部を襲った干ばつの被害が、中西部のサヘル地域に拡大して深刻な食糧危機を引き起こし、被災者は1870万人にのぼり、100万人を超える乳幼児が重度の栄養不良に陥り、命を落としかねない状態」にあり、ある地域では「武力紛争の避難先も干ばつ被害で水、食料が不足。コレラなど感染症の脅威が増大している」と実情を報告。「サヘル地域の子どもたちを、このままにしておくことはできません」と訴え、遠隔地への支援、救命治療、感染防止などのための資金協力を求めている。私も”貧者の一灯”だが応じることにした。

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 私は地図でしかアフリカを知らない。ウィキペディアを見る。サヘルとはサハラ砂漠南縁部に広がる地域、1万年以上前までは砂漠だった、半乾燥、降水不安定の地域である。ここにある国々は、セネガル、モ―リタニア、マリ、ブルキナファソ、ニジェ―ル、ナイジェリア、チャドなど。1914年、1968年に大干ばつと飢饉。この直接、間接の原因は、過大な薪炭材の伐採と土地利用。世界的規模での気候変動、欧米諸国の大気汚染による大西洋の海面温度の変化、雨量の減少などだとされている。ユニセフは昨年の干ばつは過去60年で最悪だというが、子どもを危機にさらしているのが地球環境の悪化にあるとまではいわない。この機構の性格上やむをえないことか。ならば国際政治の責任だろう。