明日につなぎたい

老いのときめき

うめきた漫歩

2013-04-27 17:55:14 | 日記・エッセイ・コラム

 26日午後、JR大阪駅北側の再開発地域「うめきた」にある「グランフロント大阪」に行った。国内最大級の商業施設になると聞いていたから、オープンになったら見ておこうと思っていたところである。後学のためとか探訪というほどの神妙な気はない。何を買うとか食べるとかの目的もない。冷やかしか。そんな悪気もない。人混みで散策などという趣もない。何をしに行ったのか。要するにそぞろ歩き、あてもなくぶらぶら歩くだけだ。これを漫歩という。だが全くの傍観者だったわけでもない。

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「うめきた」は明治初年から現代まで鉄道貨物の拠点だった。1987年の国鉄民営化で売却が決まる。この跡地はどうなるだろう。大阪の中心部に緑豊かな大公園を、多くの人が望んだことだろう。それは夢だった。関西財界は舌なめずりでこの地を狙った。「グランフロント大阪」は、三菱地所、オリックス不動産、積水ハウス、阪急電鉄など12社によって開発された。266店になるというから従業員の確保も大変らしい。この地域にはデパートも地下商店街も多い。顧客争奪戦の激化は必至。疲れ果てるのは誰だろうか。

 大阪の都市開発は、関西空港関連事業や大阪湾埋め立て事業など失敗を重ねた。そのツケは庶民にまわされた。それでも公共事業の名をつけて開発をやる。競争にあけくれる資本主義の宿命だろうか。安倍内閣の成長戦略もこれだろう。アベノミクスなるものも生活実感を伴わぬ幻想でしかないようだ。株も土地も持たぬ庶民は高価なブランド品には手が出ない。円安で輸入燃料代が高騰しイカ釣り船が出ないという。豪華な施設の裏には必ず影の部分がある。「うめきた開発」は失敗しないで欲しい。私はこんなことを想いながら「フロント」の雑踏を抜けた。


賞味期限

2013-04-24 20:19:54 | 日記・エッセイ・コラム

 2004年11月末から始めたブログの更新数683件になる。ざっと8年半分になる。アクセス数や記事別の解析を見られるようになったのは去年の8月からである。プロバイダーが何月からかは判然としないが、2010年からこのサービスを始めたのである。今では毎日、その日のアクセス数が知らされる。総数はどれくらいになっているか。アクセス解析開始以後との注釈つきだが、今日現在で52,105になっている。とにかく、多い少ないはどうあれ、数字上の手応えは感じられる。これまでの「のれんに腕おし」ではなくなった次第である。

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こうなると何が読まれているのかが気になる。「ページ別アクセス数表示」なるものに、件名と数字が記されている。4月23日からさかのぼる直近の3ケ月分について調べて見た。『ベスト5』は、多い順に、戦争責任を問い詰めた「国体護持の大罪」(08・8・18)。危なっかしい”愛国心”を批評した「大和心を人問わば」(12・6・16)。小林多喜二を偲んだ「地区の人々」(13・2・24)。係争中の今日的問題を取り上げた「プラスチック公害」(10・9・9)。深刻な同和問題の顛末を語った「市民すべて平等に」(05・11・11)だった。

 2件は去年、今年のものだが、3件は7年、5年、3年も前に書いたものである。自分でいうのも照れ臭いが、決して古くはなっていない。今でも通用するのではないか。わが想いを託した一文の賞味期限は長い。しかし、それは、世の中、あまり変わっていないから、むしろ今の政治が前よりも右傾化しているから、昔のものも通用するのでは。そう想うと複雑な気分になる。喜ぶべきか悲しむべきか。だが、読んでくれる人がいる、励ましてくれる人がいる。これからも書き続けよう。そういうご本人の賞味期限はいつまでだろうか?


義理と人情の世界

2013-04-17 22:43:24 | 日記・エッセイ・コラム

 『深重の橋』(じんじゅうのはし)』(澤田ふじ子・中公文庫)をようやく読み終えた。上・下巻で1000頁近い長編小説である。この題名の意味は終章で説かれるが、敢えてここで触れることはしない。物語は1400年代・室町時代の後半、舞台は京都である。著者はこの時代の丹念な考証をはさみながら、人々がさまざまな糸で絡み合って生きている姿を描き出す。たしか、私は、この作家のモチーフが「歴史をもって現代を撃つ」ことだと言われていたことを思い出し、500年も昔の話を現代の出来事とからめるようにして読み進んだ。

 南北朝の争乱、応仁の乱、権力者がやりあう戦争の犠牲者は庶民であった。凶作、飢餓、鴨の河原には死者のみか、まだ息のある重病人までが棄てられている。そこに住み生業を営む人はと蔑まれる。だが、室町文化は能楽や庭づくりなど、このたちによって創られたのだ。著者の史観に感じ入った。それにしてもこの世の中はひどい。人買いが横行する。土一揆が起こる。貨幣経済の発達で「世の中はすべてが金次第」の風潮をよぶ。土倉(質屋)や金貸し業がひろがり、それを狙う盗賊の群れが。安穏な暮らしはなかった。

 「身は敗(や)れ車、運命(さだめ)悪ければ人に売られこそする。先の見えない十五の涙」とわが身を嘆いた若者が小説の主人公である。名は”牛”という。私は自分の子や孫、身辺にいる若者の顔を思い浮かべながら、牛の生きざまを追った。売られて風呂屋の下人となり酷使される。だが、くじけない。出会った人を師として文字も九々も算盤も覚え、論語にも挑戦し、人間として成長していく。同じく売られてきた病身の垢かき女(娼婦)を、プライドをもつ牢人の力を得て助け出す件(くだり)など、スリルとともに人情の温かさを感じさせる名場面である。

 この時代にも福祉や社会事業にとりくむ団体があったそうだ。飢えた人々のために、ときの将軍・足利義政が命じたという「お救い小屋」の活動に牛たちも手伝う。そこには牛を売った男のやつれ果てた姿もあった。「人との出会いが転機となり意外な運に恵まれる場合がある」。牛はそう思って湯気の立つ粥を食べさせた。恨みを仇で返すのでなく情で返したのである。冷徹に歴史を見ながら義理人情の世界を尊ぶ作家の魂に触れた思いがする。大震災時のボランティアやハケン村のことを浮かべながらこの部分を読んだ。お薦めしたい小説である。


維新の会の「国家主義」

2013-04-07 17:30:25 | 日記・エッセイ・コラム

 最近の私のブログへのアクセスを見ると、比較的よく読まれている記事として「国体護持の大罪」(2008・8・18)と「大和心を人問わば」(2012・6・19)の二つが出てくる。どちらも日本の国家主義について私なりの寸評を加えたものである。何故こんな古い記事に興味を持たれるのだろうか。”強い国・日本”を叫ぶ日本維新の会や、安倍晋三首相の出現に関係があるのではないかと推測する。世界的な物理学者・アインシュタインは「国家主義は、小児病気、人類の麻疹(はしか)である」と云ったが、そうなのだろうか。日本は過去にこの病気に罹っている。もう免疫のはずなのに、今また熱にうなされているような動きを見る。国家主義とは何だろうか。

 国家主義(ナショナリズム)とは「国家をすべてに優先する至高の存在あるいは目標と考え、個人の権利、自由をこれに従属させる思想」「国家権力の行使は無制限、内に対しては権力の独裁体制の危険、外に対しては国家膨張主義の危険を招く」もの。辞典にはこう書かれている。要するに抑圧と戦争をよぶ危険な思想、国家体制なのである。この定義は間違っていない。歴史が検証している。天皇制絶対主義国家が進めた15年間にも及ぶアジア・太平洋戦争の悲劇を顧みれば一目瞭然である。私はそれを「国体護持の大罪」と題して書き込んだのである。臆面もなく思想調査などを強行した橋下徹氏は国家主義者の典型に見える。

 日本維新の会が第1回大会(3月30日)で決めた綱領を見た。”強い国””強い日本”の文句が目立つ。基本的な考えの第一は「日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶である占領憲法を大幅に改正し、国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる」ことだとしている。憲法は、人権抑圧と戦争を永久に否定している。それを幻想だとして変えるという主張は、まさに国家主義そのものである。占領憲法と罵り、自立を口にしながら、日米安保条約・米軍基地については一言もない。日頃からこれを礼賛してきているからなのだろう。卑屈な現代版国家主義というべきか。


生物に異変

2013-04-04 15:17:04 | 日記・エッセイ・コラム

  「3月30日に東京大学内で開催された『原発災害と生物・人・地域社会』(主催:飯館村放射能エコロジー研究会)で、東大など4名の研究者が、ほ乳類や鳥類、昆虫、植物から見つかった異常について報告した」という記事をネットで見た。「飯館村での低レベルガンマ線照射に伴う(稲の)遺伝子の観察」「福島原発事故のヤマトシジミ(小型のチョウ)への生物学的影響」「高線量地帯周辺における野生動物の生態・被爆モニタリング」「福島県の野生ニホンザルにおける放射性セシゥムの被爆状況と健康影響」と題する報告である。専門家の話なので素人の私には難しかったが「稲の遺伝子に異変」「ヤマトシジミの生存率低下」「セシゥムに汚染されたウグイスに”おでき”」「ニホンザルの白血球減少」など。生々しい事例に胸をつかれた。人体への影響はどうなのだろう。

 

 生物への被爆影響が指摘され、放射能汚染の広さ、深さを改めて考えさせられているときの4月3日、原子力規制委員会の定例会が、原発運転期間40年を、新たに導入する”特別点検”によって新安全基準を満たし続けられると判断した場合は、最長2年の延長を認めることにしたとか。この新聞記事を見て、またもや原子力規制員会なるものへの不信感が湧いてきた。まだ安全な原発があると思っているのか。それが解せないのである。規制委員会の任務は何なのか。冒頭には「国民の生命、健康及び財産の保護、環境の保全並びに我が国の安全保障に資するため」と述べられている。”安全な原発”とかの幻(まぼろし)を求めてうろうろするよりも、この任務に目を向けろと言いたい。規制委員会は環境省の外局だろう。福島原発事故への反省を態度で示してほしいものだ。