明日につなぎたい

老いのときめき

沖縄旅情(5)

2011-01-29 10:25:04 | 日記・エッセイ・コラム

 

 「旅は道連れ世は情け」。旅行には道連れが、世渡りには人情が大切だと解釈される言葉だが、始めと終わりの漢字を合わせると旅情になる。これが身に沁みた旅であった。道連れに恵まれた。みんな頼もしく優しかった。一行23名のなかの最高齢が私。それが幸いしたのだろう、気遣いが伝わってくる。さらに我が町・旭区の住人や縁(ゆかり)のある人が傍にいてくれたのが心強かった。知らなかった人、久しぶりにあった人とも親しく話し合えた。これが旅というものなのだろう。

 

 おかげで心身ともに爽快。夕食のときは笑いのまじった話題が次々、こんな雰囲気のなかで、久しぶりに飲む泡盛が滅法うまかった。圧巻だったのは「民謡ライブと琉球料理の店」での夕食会だった。全員参加、沖縄革新懇の方々が加わる。交流会で熱弁を振るわれた弁護士さんが「これは格別にうまい泡盛です」と注いでくれる。そのとうりだった。座はついに宴会に発展する。民謡に乗って踊りが始まる。私もいつしかその輪の中にまきこまれていた。生まれてはじめての体験。道連れの一人がわが意をえたとばかりに笑っていた。

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 宴のあと、沖縄の人たちと握手をかわす。すごい力が伝わってくる。私も渾身の力をこめた。まさに「沖縄の心とつながるツアー」だった。"旭グループ "は私の妻への土産物選びまでつきあってくれた。にぎあう国際通り・公設市場で昼食、そして帰阪。「旅は道連れ世は情け」だ。これが私の旅情であった。


沖縄旅情(4)

2011-01-28 20:35:53 | 日記・エッセイ・コラム

   ロマンをただよわせる沖縄の自然と中世の歴史に触れたあと、旅の話題は一転する。沖縄は天皇制国家・軍部から捨石とされ残酷きわまる地上戦を強いられた。その前段に痛ましい事件があった。対馬丸沈没事件のことである。これも歴史である。その記念館を訪ねた。ちょっと覗いた程度で通り過ぎる気になれるはずはない。

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 私は来る前に林博史さんの『沖縄戦が問うもの』(大月書店)などを読んでいた。戦争中の学童疎開とは本当に子どもを守るためだったのか疑問を感じていた。この書は、沖縄、薩摩半島、九州の防衛を担当する第32軍、第40軍、第16方面軍にいた幹部たちの回想や談話の実例をあげて「疎開とは、軍の戦闘の邪魔になる者は去れということ」だと断じている。当時の沖縄県当局も大量に入ってくる日本軍兵士の食糧確保のために、足手まといになる民間人の県外移出が急務だとして、疎開業務をすすめたと聞く。

 

1944年8月21日、疎開学童834名を含む1788名が老朽貨物船・対馬丸で那覇港から長崎をめざす。悲劇は翌22日夜10時過ぎに起こった。船足の遅いこの船は格好の標的、鹿児島県・悪石島付近で米潜水艦の魚雷攻撃をうけて沈没、学童777名、全体で1422名が命を失った。「ヤマトに行けば雪も桜も見れる」とはしゃいでいたという子どもたちが海底の藻屑と消えた。何も残していない。展示される遺影、遺品はあまりにも少ない。悲しく哀れである。私の心はそれに怒りが加わる。旅することは安らぎばかりではない。


沖縄旅情(3)

2011-01-28 19:25:33 | 日記・エッセイ・コラム

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 旅情を誘ってくれたのは沖縄の美しい珊瑚の海であった。真っ白なさざ波が横一線、その先の沖を眺める。エメラルド、ブルー・・・色が多彩である。美ら海(ちゅらうみ)水族館のジンベエザメはでかい。長期飼育記録世界一だとか。海遊館(大阪市)にいるのより大きく見えた。ここを出てまた海岸へ。温かい陽ざしをうけながら海を眺める。大気を胸いっぱい吸い込む。これが沖縄だ。来た甲斐があった。そう思いながら、数日前まで寒さで震え上がっていた大阪のことが胸をよぎった。

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 世界文化遺産に登録されている「座喜味城跡」「今帰仁(なきじん)城跡を初めて見学。座喜味城跡は15世紀の始め頃、今帰仁城跡は13~14世紀頃に築かれたと聞く。アーチ型の石門や石を積み上げた城壁が珍しかった。いずれも戦乱の時代の産物だったのだろうか、アジア諸国との交流を経てつくられた琉球独自の文化の象徴なのだろう。琉球王国の居城だった首里城は沖縄戦で全焼し復元された城跡である。一度きたことがあるが、今回は場内を細かく案内してもらった。華麗な王宮だったことが偲ばれる。


沖縄旅情(2)

2011-01-27 13:45:11 | 日記・エッセイ・コラム

 

 仲間3人と一緒にタクシーでホテルに向かう。「基地があってたいへんでしょう」とドライバーに話しかける。「基地がないと経済が成り立たない」「基地があるから国のお金が下りてくる」との答えが返ってきた。「それ本当かしら。宣伝に乗せられているのと違う? 沖縄の失業率は全国一やけど」と問い返す。さらに「私の子はアメリカの大学出てアメリカで働いている。悪い国だと思ったことなんかないのに沖縄にくるとそう思えなくなってしまうの」。ドライバーは黙っていた。

 

 翌日に乗ったタクシーではこんな話が出た。「アメリカ人は乗せないようにしている。何をされるか怖いから」。「そう、私たち、米軍基地を見たくて毎度きているわけではない。美しく平和な沖縄なら何度も来てみたいの」。狭苦しい車中談義は盛り上がった。沖縄全土の10%が基地。『安保の丘』から眺めた嘉手納基地は途方もなく広い。それらを返還させて跡地に住民・国民本位の産業、文化施設、自然を活かした観光事業などを起こしたら、基地なき沖縄はどれほど活気づくだろうかと思った。

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 「去年は日米安保50年目。安保見直しの先鞭をつけたのは沖縄だろう。この目で確かめ、帰って伝えたい」。私が出発前に旭区平和委員会で言ったことである。それを思いながら旅を続けた。沖縄革新懇との懇談の場では、安保反対を憲法9条の立場でたたかう意義が熱っぽく語られた。自治体首長・議会の動向にも現れているように基地撤去は県民の総意だ。沖縄は民主主義でも最先端にある。そんな自負も感じられた。調査によれば沖縄では安保反対が過半数を超えているという。"本土"は励まされていると実感した。


沖縄旅情(1)

2011-01-26 14:21:05 | インポート

 21日から4日間の「米軍基地なくせ!沖縄と心つながるツアー」。予想に反して空は晴れ間が多く「よかった」が異口同音。たいへん充実した企画で学ぶこと多く、かつ楽しい旅であった。いろんなところに連れていってもらったが、時間には限りがある。私の観察力、判断力もたいしたことはないから、のぞいた、眺めた程度になったかもしれない。レポートとかは他にお任せしよう。旅人の心情のことを旅情という。及ばすながらそんな調子で書ければよいのだが。

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 宜野湾市役所の屋上で市職員から普天間基地についての説明を聞いている最中、米軍機が空港に着陸する姿が目に入った。瞬間、爆音で声がかき消される。噂に違わずであった。もっと基地に近い普天間小学校なども見てきたが、たまらないだろうと思った。その矢先、ヘリコプターが轟音とともに頭上を旋回する。いやがらせだろうか。担当課は毎日のようにくる市民の苦情をファックスして基地司令部に送っているが、まともな返事はないそうだ。こんなものが日本の安全のため? ウソもほどほどにしろ、早く消え失せろ! 心はそう叫んでいた。

  

 宜野湾市には基地政策部、基地渉外課がおかれ、立派なパンフレットも出している。「米軍及び日本政府は市民の声に真摯に耳を傾け、一日も早くヘリ基地としての運用を中止する」ことを求め「市は普天間飛行場の早期閉鎖・全面返還の実現に取り組んでいく」とある。これが最大の行政課題だというのである。市の日米両政府に対する要請・抗議は、03年から10年までで40数件、訪米要請行動は3次にわたる。住民のためにはどこにでもものを言う。地方自治体の模範ではないかと感服した。

 

 辺野古団結小屋の前で、名護平和委員会会長、ヘリ基地反対協議会の代表委員をされている大西照雄さんの話を聞く。新基地建設を許さぬと座り込みが続いている。この日で2470日目になったとか。大西さんは日焼けして真っ黒、白髪の目立つ髪の毛をかきあげながら、静かな口調で新基地建設反対運動の現状や方向性を語る。美しい海に運命を託した生きざまが伝わってくる。この人のブログも『宝の海』。「政府が組む毎年2千億円近い米軍思いやり予算を止めれば海兵隊はおれなくなるだろう」と強調されたのが強く印象に残った。

(写真は普天間基地の遠景)