明日につなぎたい

老いのときめき

ああ 来てよかった

2017-02-26 13:38:15 | 日記

 昨日(25日)「非核の政府を求める大阪の会」の年次総会に出席した。私は30年前の同会の結成総会の座長を務めた3名の中の一人である。他の2人はもう亡くなられている。何の役にも立たない今の私だが、ただ一人、生き残っている創立者だ、可能な限り顔だけでも出そう、そんな一種の”義務感”で足を運んだ次第である。旧知の人から「お久しぶり、お元気そうですね」などと挨拶されると、それだけで「ああ 来てよかった」と思ってしまう。昨秋の30周年記念の集いのときも、今回の総会も100名前後の満席。まさに隔世の感である。

 

 日本原水協代表の『記念講演』と、同会事務局からの『報告と提案』をたっぷり聴く。その仔細はこのスペ―スではとても無理。一言だけの感想になる。メインは、国連の「核兵器禁止条約交渉開始の決議」をめぐる国際動向と、戦争による唯一の被爆国・日本(大阪)の役割だった。この決議に反対する悪の張本人はアメリカのようだ。「米同盟国・パ―トナ―国」に恫喝を加え、反対に廻らせている。聞くほどに日本政府のだらしなさが頭にくる。だが、核兵器が「抑止力」「安全保障」だとの説は世界では少数に過ぎない。だいじな指摘だ。聞いてよかった。

 

 総会が終わり、馴染みの仲間数名と居酒屋に入る。テ―ブルを囲んでやりはじめたら、どやどやと一団のグル―プが入ってきた。一人の女性が「あらまあ〇〇さん」と私の名をあげ、握手を求めて来た。気分よく応じた。”現役”のときの私を見ていた職場の人のようだ。退職して20年になるのだが、覚えてくれている。会えた喜び、感動を誰はばかることなく、無邪気に表現してくれる。仲間同士の熱さが伝わってきた。「悪い事できへんなあ」と冗談を言って笑われたが、本心は「ああ、来てよかった」。楽しい飲み会だった。

 

追記  非核の政府を求める会とは「核戦争阻止、核兵器廃絶など『非核5項目』を実行する政府を求める、思想、信条、宗教、党派の違いをこえた幅広い個人、団体の集まり」のことでかす。

 

 


ブログとFBと学校と

2017-02-23 13:14:09 | 日記

 2月に発信したブログは、今日現在で6本。3~4日にⅠ本の間隔で出していることになる。毎日、訪問者、閲覧者数が分かるシステムになっているので、どんな記事(タイトル、内容とも)に関心があるのか、書くものにとっては有難い参考になる。だが、他人のブログとの比較など恐れ多いことはできない。自作の範囲での他愛ない比較である。2月は「いじめから逃げるな」(22日付)が、訪問数で3位、閲覧者数でトップという数字が出ている。全く地味で平板な記事だと思っていたので驚いた。

 

 一昨年の秋頃から、ある知人の勧めで、ブログ記事をフェイスブック(FB)に転載するようになった。ブログへのコメントは滅多にないが、FBでは友人たちからの励ましが返ってくる。単純比較はできないのだが、ブログでの数的反応はFBにも比例する。訪問、閲覧の多い記事には「いいね」が多い。ところが「いじめから逃げるな」の場合は違っていた。「いいね」はきわめて少ない。考えさせられた。FBの友人たちは「平凡やないか。分かり切ったようなこと書くなよ」とでも思っているのだろうか。ちょっと恥ずかしくて淋しい。

 

 この機会に平凡でないド派手なニュ―スを付け加えよう。大阪の私立・塚本幼稚園は、園児に戦前の教育勅語を唱和させ、韓国人、中国人を差別するヘイト文書を保護者に配っていた。この幼稚園を運営する森友学園が「瑞穂の国記念小学院」を4月に開校するそうである。用地は豊中市内。時価9・5億円の国有地を1・3億円余で取得。名誉校長には安倍首相の昭恵夫人が就くという。学園の籠池理事長は極右思想団体「日本会議」の幹部である。時代錯誤も甚だしい。国民は、平和で、子どもがのびのびと育つ学校を望んでいる。危ない、狂った学校は要らない。


「いじめ」から逃げるな

2017-02-22 12:53:53 | 日記

 今朝の毎日新聞社会面に「大阪小6いじめ調査報告書公表」「小4いじめ不登校―大津第三者委 学校対応を批判」という二つの記事が出ていた。私は、この種の報道を見るたびに不愉快になる。この二校に限らず、いじめ問題が起こったら何で第三者が出てくるのか。学校・教師や教育委員会には当事者能力がないのか。大人社会に格差と偏見という いじめ があるかぎり、子どもたちの いじめ もなくなるとは思えない。いじめ から逃げて学校教育は成り立つのだろうか。そう言いたくなるのである。

 

 聞くところによると、今の学校はテスト漬けの競争社会らしい。私は古ぼけた小学校時代の自分の記憶を呼び戻そうと試みた。5年か6年生のとき、草野球の内野だった。受験勉強で不参加のときがあった。しばらくして野球に出かけたが、私の後釜ができていた。入れてもらえない、口も利いてくれない。情けない、哀しい、腹立たしい。相手にそんな気はなかっただろうが、いじめられているような思いだった。80年近い前のことなのに、これほど覚えているのは、相当な孤独感に落ち込んだからなのだろう。

 

 私の悶々も時間とともに薄らぎ、消えていった。時代は軍国主義まっしぐら。荒々しい世相で、子ども同士の喧嘩、とっくみあいは日常茶飯事だった。いじめた子には、教師の鉄拳が容赦なくとんでいた。体罰は許せない。だが、いじめから逃げる先生ではなかった。その印象が今も残っている。私は、喧嘩が強く一目おかれていた朝鮮人の子と仲良しだった。先生もさすがだった。差別などしない。すべての子に平等に目を向けていたようだった。現代のような、いじめがあったか、その記憶は全くない。

 

 今の学校、先生がひとり一人の子に目を向ける環境にあるだろうか。学校・教育に門外漢の私が、もの言えるとすれば、古くても自己体験を語るしかない。そんなつもりでこの記事を書いた。

 

 


『ユダ』は要らん

2017-02-17 17:07:05 | 日記

 共謀罪に刺激されて『生きているユダ』(尾崎秀樹・角川文庫・1976年刊)を読んだ。「(ゾルゲ事件で)死刑にされた兄・尾崎秀実の検挙にまつわる疑惑をとき、秀実を絞首台に送ったユダ ・発覚の端緒を提供した男・を探り出そうとした戦後10年にわたる記録」(手記)である。新聞記者だった尾崎秀実が、ドイツ人・ゾルゲら5名とともに検挙されたのは、日本が太平洋戦争に突っ込む前夜の1941年(昭和16年)。容疑は日本の情報を外国に知らせるスパイ活動、治安維持法、国防保安法、軍機保護法等の違反だとされた。国民は尾崎らを売国奴だと罵った。1944年末、絞首刑を執行された。

 この事件にはユダが介在していた。ユダとはキリスト教使徒の一人で、銀30枚でイエスを売り、死に追いやった人物のこと。裏切り者の代名詞である。奇怪なことだが、ユダの名が出たのは1949年2月、米陸軍省が発表した『ゾルゲ事件の真相』からである。敗戦国・日本は何もかも米軍の掌中にあることを示す一事であった。ユダは誰か、その名をここでは敢えて書かない。若い人たちがもう一歩、近現代史に踏み込むつもりで知る機会をとらえてほしいと思っている。

 この手記では、戦後10年目の暗い日本社会の断面が語られている。貧しさと飢え、国民病・結核の蔓延・・・私もこの時期を生きた一人だから生々しい現実感を覚えた。1948年の東宝争議が取り上げられている。武装警官2千名が撮影所を包囲、特車と名づけた戦車も出動。米第一騎兵師団の姿もあった。米軍の謀略説濃厚といわれる下山国鉄総裁轢死事件、松川事件などが起こったのもこの時期である。三鷹無人電車事件は、でっち上げられた共同謀議なるもので無実の労働者が投獄された。著者の目にはこれらがゾルゲ事件とかぶさって見えてくるそうである。

 解説を受け持った五木寛之氏が言う。「当時の日本がファシズムの旗の下に、戦争と植民地死守の国家主義へ転落して行くさまを心から憂慮していた人々の目には、必ずしも尾崎らの行為はそのように単純なスパイ事件としては映らなかったはずだ」「尾崎やゾルゲらが果たした役割の本当の意味が、闇に朝の光がさすように少しづつ明らかにされてきた」。手記は「戦争が兄を殺した」という。そこにユダがいた。共謀罪など強行されたら、スパイ、監視役のユダの出番がくる。生きてほしくない。