明日につなぎたい

老いのときめき

「明日はわが身」のつもりで

2013-03-30 19:01:56 | インポート

 ある日、孫が私のブログを見てつぶやいた。「ボケてへんなあ」。遠慮、気兼ねのない間柄だから、ごく自然にこんな言葉が出るのだろう。悪い気はしなかった。要するにブログをやっているのは、他人様の反応はともかく、本人の身には役に立っているということだろう。見て聞いて感じたことをまとめる、拙い文章でもそれなりの苦労がある。それが衰えを遅らせているのであればよいではないか。自己満足だ。新聞記事などの音読は認知症の予防の一つだと聞いて、私は送信前の原稿を妻に読んでもらっている。

 

 老夫妻の私たちも「明日はわが身」の予感めいたものが働くのだろうか。まじめに地域の医療生協の「脳いきいき懇談会」に顔を出したり、ニュースを見たりするようになっている。あるお医者さんが書かれた『ニートについて』が面白かった。走ったり泳いだりの運動ではなく、座る時間を減らし、立ち仕事を増やす、立ってテレビを見るなど、日常生活のなかでこまめに体を動かす習慣をと説かれる。私は糖尿病患者でも肥満体でもないが、長時間PCの前に座っている私には有難い話のように思えた。

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 旭区・介護を考える会の会報(3月号)に、ヘルパー学習会の記事が出ている。ベッド生活をしている老人の介護が主題であり、私には縁遠い?話なのだが、よくよく見れば体を動かし自立することの大切さが強調されているように思った。「オムツを外してトイレを使え」「座ることで筋肉を活性化、寝たきりにさせない」「本人の起き上がろうとする動作を邪魔せず、身体機能を生かした介助を」など。なぜか、よくいわれる”福祉は人なり”という言葉を思い出した。・・近所の桜も満開近い。その下を高齢者が歩いている。私である。


そこまで言うのなら

2013-03-27 14:31:09 | 日記・エッセイ・コラム

 この題名は某テレビ局のバラエティ番組『そこまで言って委員会』をもじってつけたもの。私は殆ど見たことはないのだが、たまたま3月24日に放送されたのを見た。エリアは関西方面だけらしい。1年余り病気で休んでいた”委員長”が登場、安倍総理や、この番組に出たこともある橋下徹大阪市長からの「復活おめでとう」のエールが画像入りで披露される。パネラーは評論家、俳優、落語家、タレントなど8名がひな壇に、ゲストに自民党参院議員、大学教授、ジャーナリストたち数名、内閣官房長が安倍総理の名代だと称して着席する。これらがレギュラーらしいが、公正中立もへったくれもない。この組み合わせは全くバラエティに欠けていると思った。

 この日のテーマは「日中関係」「株高・景気」「民主党の行方」「テレビ視聴率」「AKB48プロジューサーの収入」。そして「憲法問題」だった。この番組はかつて民主党を大いに持ち上げたことがある。司会者はそう云ったが、その当時、出演していたメンバーからインパクトのある発言は聞けなかった。私が注目したのは憲法問題。一人の女性評論家以外の10人余はこぞって9条廃止論、日本武装力強化の一点張り、タカ派の大合唱のようだった。安倍総理の名代なる人物も居丈高だった。憲法改正の発議は両院の総議員の3分の2以上とする(憲法96条)を2分の1にという議論も交わされる。深刻な話題だ。これでも誰もが楽しめるバラエティなのだろうか。

 出演者たちがカメラの前で声高に改憲を叫ぶ。そこまで言うのなら、今の憲法、その価値をどれだけ知っているのか、それを聞きたいと思った。この番組の収録日は知らないが、3月24日の放送日までに全国7か所の高裁が「1票の格差を是正せずに実施された2012年の総選挙は違憲である」との判決を下している。憲法11条は基本的人権を、19条は思想、良心の自由を、25条は国民の生存権を保障している。現憲法は国民の暮らしと平和を守る現実的な命綱だ。改憲どころか守り抜くべきものだ。憲法を論じるなら民意を生かす選挙制度のあり方、憲法に反して、国民の暮らしと権利を損ねる政治のあり方にメスを入れるべきではないか。私はテレビの前でこんなことを考えていた。

 


私の市政観

2013-03-22 14:23:05 | 日記・エッセイ・コラム

 「制度いじりと人事しか頭にない人」。橋下大阪市長を指して、ブログにこんなことを書いた覚えがある(2013・2・13)。この人の師匠の堺屋太一氏は「政治の中身は後まわし、形づくりが先だ」と言っていたが、その直伝だろうと思う。「統治機構をいじくるのが改革だと勘違いしているのだろう」と揶揄したこともある(2012・9・2)。この私の見方は、あながち独断・偏見だともいえないようだ。マスコミのなかにも「制度万能論」に懐疑的な論評がある。「制度改革が、府民生活の向上や公約の実現にどうつながるのか?」。

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  制度いじりの典型は大阪都構想に見られる。大阪市、堺市を解体して大阪都に、その下に特別区を、区長、区議会は選挙で、誰がこんな制度改変を要求したのか。これで住民の暮らしや経済がよくなるという根拠があるのだろうか。さては都民税狙いか。財界と一体の大型開発に注ぎ込むつもりでは。疑う方が当たり前ではなかろうか。最悪の制度いじりは公的事業の民営化だろう。年間200億円もの黒字を出す優良事業である地下鉄を、何で私鉄資本に売り払うのか。病院も保育所も民間にやらせるという。自治体の任務放棄だと言いたくなる。

 橋下氏は「都構想に反対する職員は降格させる」「民意を無視する職員は市役所から去ってもらう」と云ったことがある。大阪市職員にたいする憲法違反の思想調査をやり、職員の政治活動を不当に規制する条例を成立させた。市立校などで問題が起これば、頭越しに人事の入れ替えを図る。この人、福祉、医療、教育、文化、環境などの条件整備、行政サービスよりも絶対権力者の発想が先行するようだ。地方自治体の本旨は福祉、住民が主人公、公務員は全体の奉仕者。橋下市政には、これらの基本理念が欠落しているように思えて仕方がない。


戦後政治の”DNA”に抗して

2013-03-20 11:43:12 | 日記・エッセイ・コラム

 

 1908年(明治41年)、宮下太吉という労働者に差出人不明の小冊子が郵送されてきた。表紙には『入獄記念/無政府共産』とある。激しい体制への批判、命がけの運動がよびかけられている。当時流行っていたのか、ラッパ節も引用されている。「なぜにおまえは、貧乏する。わけを知らずば、聞かせようか。天子、金持ち、大地主、人の血を吸うダニがおる」。宮下はたちまち引き込まれた。自由、平等への想いが過熱する。数日後には天皇のお召列車奉迎の群集にこの冊子を配る。「天皇なんてありがたくない。神様ではない、同じ人間だ」とささやく。だが「あんた、頭がおかしいのか」といわれるぐらいで反応なし(佐木隆三・小説『大逆事件』より)。宮下は空回りしたようだ

 

 この小説の解説にこんな部分があった。「大逆事件は支配層が後戻りのできない道を選択してしまったことの、ひとつのあらわれだった」と評する一方、「統治にまつわる神話の温存は、単に支配の強権によってだけなされたわけではない・・(人々は)フィクションであることくらい百も承知で”心から”超越性をあがめるという態度も生じる」とつけ加えている。なるほど、こういう見方もあるのだ。そうだとすると「ブルジョア社会の無政府状態と水も洩らさぬ教化網は若い貧乏人を遠回りさせる。だが来る処には来る、来させなければ」と喝破した小林多喜二をはじめ、身を犠牲にして社会進歩に尽くした、明治、大正、昭和の先人たちは、まさに先駆者だ。その思いを強くした。

 

 では100年後の今は?この間もマインドコントロールが続いているのだから、同じようなことがあるのだろう。米軍基地もオスプレイも、平和、安全のための抑止力だと言われれば信じたがる人は少なくない。敗戦直後から権力中枢に宿った対米隷従のDNAが作用し続けている。それはマスコミにも染みついているようだ。過酷事故を招いた原発もやめようとはしない、食料、経済主権放棄につながるTPP交渉参加も決める。「頭がおかしい」のはこの人たちだろう。国民はそれを感じながらも、国益とか強い国とかいわれると弱い。強い言葉を放つ人物の”超越”にあこがれる。現代の「水も洩らさぬ教化網」の影響なのだろう。だが、歴史は進む。現代の神話を見破り、自主、独立の日本をめざして走り続ける人は増えていく。


誇りある謀反(むほん)

2013-03-16 12:41:22 | 日記・エッセイ・コラム

 

 3月12日、府立高校の卒業式で君が代斉唱の際に起立しなかった教諭9名が府教委から処分された。これを知った瞬間、私は胸の中で叫んでいた。「この処分は不当、やった方が裁かれるときは必ずくる」。ふと、100年も前の『大逆事件』を思い出した。適当な比較なのかどうか気にせずに書く。1910年(明治43年)、幸徳秋水ら26名が、明治天皇暗殺を計画したとして検挙され、大審院(今の最高裁)で非公開、証人なしの審理。24名に死刑判決。翌1911年1月、12名が死刑執行された。これが『大逆事件』である。当時の政府が主導して反体制の思想と運動を壊滅するために捏造した権力犯罪であった。

 

 石川啄木は幸徳の「陳弁書」を写し取り「厳正な裁判で無罪になるべき性質のものであったのに、政府・裁判官は無政府主義を一挙に撲滅する機会としてそれを成功させた」と真相を書き残した。徳富蘆花は『謀反論』を一高で講演。「幸徳らは人類のためにつくそうとした殉教者。謀反を恐れてはならぬ。生きるために常に謀反しなければならぬ」と叫んだ。それから90年後の2001年、瀬戸内寂聴さんは「日本が世界に恥じる間違った裁判で、無実の罪がでっちあげられた。時代を先取り、反戦や平等を訴えた彼らを誇りに思い、生き様を子孫に伝えてほしい」と訴えた。

 

 「君が代は”天皇の世”を意味し主権在民の憲法に反する」「斉唱、起立の強制は思想、良心の侵害である」。こう考えている人はけっして少なくない。だが、大阪府は「君が代斉唱、起立条例」なるものに反するものは処分する。要するに謀反は認めない。学校から一掃するつもりなのだろう。時代は違うが『大逆事件』の発想とどこか似ていないだろうか。『大逆事件』の背景には「天皇は神聖にして侵すべからず」の神話があった。裁判は密室でやられた。権力者はいつの時代でも神話を使うのだろうか。原発も安全神話で推進した。事故は隠蔽した。こんな日本だから、秘めてはいても謀反が大事。持ち続けて欲しいと思う。