明日につなぎたい

老いのときめき

92歳の哀歓

2018-10-13 13:33:57 | 日記

 昨日、10月12日、92歳の誕生日を迎えた。フェイスブックを開けると、何人かの友人たちから「おめでとうございます」とのメッセ―ジが届いている。齢を重ねるのも満更ではない。「有難うございます」と謝辞を返した。いつも顔を会わす、身近にいる家族からは何も言われない。「近くの親戚より遠くの他人」ということか。こんなものかと達観している。「メル友」が声なき声で伝えてくれる。老いたる不肖の私の存在を認め、励ましてくれるのは、この人たちである。現代ではそれが当たり前になっているのか。ふと、そんな気になる。

 

 92歳といえば、”立派な”老人である。あと、どれだけ生きられるかを想う年頃である。日頃、口にもしないことだが、老人の哀歓なるものについて、漠然と思ってみた。藤澤周平の短編『浮世絵師』にある北斎と娘・千絵との会話からそれをみた。広重に負けたと思った北斎は「淋しくてならねえのよ。絵師のくせに絵は描けねえし、金もなくなったわ」と俯く。千絵が言う。「可哀想なお父様、でもあたしは、お金も何もにない、駄目なお父様の方が好き」。老絵師が頬を濡らした。背を撫でるお千絵の掌の温かみが誘うのだ。だが、長い孤独な戦いの終わりに気づかない。

 

 北斎がとらわれたのは、ものかなしい悲哀感だったのか、かなしみとよろこびを表わす哀歓だったのか。おそらく前者だっただろう。いま生きる92歳の私は、その詮索は程々にして、悲哀感を退け、哀歓を想うことにしたい。かなしみだけの人生ってあるだろうか、よろこびだけの人生はあるだろうか。それはない。あるのは悲喜こもごもの哀歓だろう。それを持ち続ける理性と感性の持ち主でありたいと思う。そのためには、能力がどうあれ、年相応に頭と体を働かせることが求められるのではなかろうか。ちょっと理屈っぽくなった。