Deep City 横須賀

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★長瀬トンネル★ 子供に後を託したおじいちゃんトンネル

2007-03-08 | ◆浦賀
横須賀のトンネルめぐり。今回は西浦賀と長瀬の町をつなぐ「長瀬トンネル」です。
以前に「川間トンネル」に行った時は知らなかったのですが、この川間トンネルに平行してもう一つトンネルが
あったのです!川間トンネル手前で、脇道に入っていきますと、トンネルが現れました。


これはこれはまたいい雰囲気のトンネルです。
1996年にお隣川間トンネルができて、こちらは通行量もほとんどありません。
このトンネルの完成は1930年(昭和5年)。



浦賀側のトンネル入口には庚申塔がありました。



完成後、1971年(昭和46年)に改修されています。
この蛇腹の内面は横須賀市内のトンネルでよく見られますが、
金属の冷たさと、経年による色合いが、独特で異様な雰囲気を作り出しています。



こちらは反対側、長瀬方面より。日中でもあまり日が当たらないようです。
かつてこのトンネルは「千代ヶ崎砲台」への重要な道であり、軍用物資と人員輸送の要でした。
また浦賀と久里浜を結ぶ生活道でもあり、かつては多くの人がこのトンネルを利用していました。
終戦直後、浦賀に引き揚げ軍人が帰ってくると、このトンネルを通り、久里浜から故郷へ帰っていったそうです。
その数、50万人!どんな想いでこのトンネルを通っていたのでしょう。


右の写真は長瀬側入口のにあるお地蔵さん。
なんだか太目のおばさんに見えます。下には「交通安全」と記されています。

◎「長瀬トンネル」◎
完成 1930年(昭和5年)
改修 1971年(昭和46年)
全長 51.5m
幅  5.8m
高さ 5.4m
google画像検索→横須賀 長瀬トンネル
google検索→横須賀 長瀬トンネル
★当ブログ横須賀のトンネル特集は→こちら

現在では通行量もなく、寂しい感じのトンネルになっていますが、
多くの人が往来していた頃を思い浮かべると、また違って見えてきますね。
息子(川間トンネル)に後を託し、ひっそりと老後のトンネル生活を送っているように見えます。
「昔は俺だってなぁ・・」という声が聞こえてきそうです。

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そうだ!横須賀に行こう!


★常福寺★ 浦賀 三浦不動7番 三浦地蔵尊32番34番札所

2007-02-11 | ◆浦賀
三浦半島巡礼記。
今回は浦賀、市内最古の公園「愛宕山公園」近くにあります「常福寺」へ行ってきました。
場所は→こちらです。浦賀駅から“浦賀の渡し”のところを右へ。しばらくすると左手にあります。

『浄土宗 放光山 延壽院 常福寺』
約500年前の文明年間(室町足利時代)に開創された歴史のあるお寺です。



画像クリックで拡大します。
記載されているとおり、このお寺は浦賀に奉行所があった当時は、赴任する時も離任する時も
立ち寄るという、とても重要な役割をもったお寺でした。当時はお寺の規模も大変大きかった
のですが、明治15年の火災で焼失してしまったそうです。その後、関東大震災にもあいましたが
「閻魔堂」はこの2つの難をのがれ、昔のまま現存しています。現在のお寺の姿になったのは昭和46年。

◎「閻魔堂」毎年1/16と7/16に開扉され、寺宝である「地獄極楽之図」が公開されます。
◎「築山泉水庭」唯一現存する浦賀三庭園のひとつ。樹齢200~300年の大つつじをはじめ、
どうだん、つげなど四季を楽しめ、わびさびのある景観あるお庭だそうです。
(本堂の裏にあり残念ながら見ることはできませんでした。)
◎「珊誉女(さんよめ)の位碑」 医学の発達していない頃、むし歯に苦しんで亡くなった
女性の碑。遺言で「私が死んだあとお参りをしてくれたのなら、むし歯の苦しみを和らげて
あげましょう」と残し、むし歯に悩む人々の信仰を集めました。
◎「墓」 浦賀奉行所の名与力 合原雄左衛門 佐々倉安左衛門 代々の墓。
  江戸屋半五郎(遊郭の店主。後に遊女を解放。西叶神社に手水舎を寄進。)



本堂







2段になっている「六地蔵」



階段の脇にある「常福寺の庚申塔」


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★名称 放光山 常福寺
★場所 横須賀市西浦賀町2-5
★電話 046-841-0023
★アクセス
場所は→こちら

★不動明王尊★
◎ご詠歌 『朝日さす 御山の南 不動尊 延寿の誓 仰ぐ尊さ』
★32番子育地蔵尊★
◎子育地蔵尊の画像は→こちら (参)三浦地蔵尊三十八札所のご案内
◎御詠歌 『おい若き 救ひの御手に 集りて いつもかねの音 たえぬ尊さ』
★34番延命地蔵尊★
◎延命地蔵尊の画像は→こちら (参)三浦地蔵尊三十八札所のご案内
◎御詠歌 『よの常に もつ福ひの 手をのべて いくよよまでも 守るみ仏』
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関連サイト
google画像検索→浦賀 常福寺
google検索→浦賀 常福寺
そらいろネット→横須賀市西浦賀史跡巡り
★当ブログ“三浦不動尊”特集は→こちら
★当ブログ“三浦地蔵尊”特集は→こちら

ふらりと立ち寄った浦賀の「常福寺」。調べてみると由緒ある格式の高いお寺で、
見所も多くあります。幕末の志士、勝海舟も3日間泊まったことがあるそうです。
浦賀は本当に奥が深く、面白い町です。

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ストリートビュー。


そうだ!横須賀に行こう!

★高坂小学校★ 水仙!60階段!広い校庭!★横須賀浦賀

2007-01-27 | ◆浦賀
横須賀の学校めぐり。今回は今の時期、とても水仙がきれいだという浦賀にあります
「高坂(こうざか)小学校」へ行ってきました。「浦賀の渡し」「西叶神社」の近く、
昔の町並みを思わせる道を入り、坂を上ると学校が見えてきました。


高坂小学校→ホームページ
学校のホームページを見てみますと、1877年(明治10年) 西浦賀の西叶神社に
高坂小学校の前身、西岸学校が完成。 1926年(大正15年)に高坂小学校になってから
すでに80年以上!とても歴史のある学校です。「愛宕山の桜をまわりに、中央にペリーの黒船を
おき、その上に浦賀に住みついていた先住の民を図案化した」という校章も、他の学校にはない
浦賀らしい校章になっています。
戦時中は集団疎開があったりしましたが、「高坂体育」や「健康優良校」、「良い歯」などの
記述より、子供たちの健康については折り紙付きの学校のようですね。
1974年(昭和49年)より鉄筋コンクリートの校舎への移行が始まり、1981(昭和56)年に完成。



いつものようにぐるっと学校をまわってみることにします。駐車場側の門。
この学校も横須賀の多くの学校と同じく、山の斜面に建っているため、
校舎が横長になっています。その長さ133メートル!確かに長いです。



校舎の前にも校庭があったのですが、裏にもこんな見事な校庭がありました。
敷地は市内2番目だそうです!



学校のシンボルともいえる正面の急な60段の階段。
校歌にも歌われる階段は創立当時のままだそうです。



その階段を上ると、元気な子供たちの遊ぶ姿が。
手前にプール、奥には体育館が見えますね。
 


そして高坂小学校創立70周年の時に植えられたという水仙。
この時期、学校周辺の土手“一面”に咲いています。とてもきれいです。



画像クリックで大きくなります。


場所は→こちら
学区→浦賀7丁目、浦賀丘、西浦賀町、光風台、南浦賀
google画像検索→横須賀 高坂小学校
google検索→横須賀 高坂小学校
管理人のちょっとひとこと→スイセンの季節(高坂小学校)
mixiコミュニティ→高坂小学校

当ブログ“横須賀のまなびや”特集は→こちら

学校めぐりをしていなかったら、なかなか入る機会のない道でしたが、学校までの道は、昔を思い起こさせる素敵な町並みでした。そして学校の水仙、子供たちの元気に遊びまわる姿がとても印象的な素敵な学校でした。

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【閉校】★光洋小学校★ 海に浮かぶ小学校 鴨居小と統合 かもめ団地

2007-01-18 | ◆浦賀
※平成22年鴨井小学校と統合されました※


横須賀の学校めぐり。
今回はかもめ団地近く、海に張り出すようにある「光洋小学校」へ行ってきました。
地図で確認してみましても3方を海に囲まれています。どんな学校なのか期待しながら向かってみると・・・

まさに海に浮かぶ学校です!学校近くの漁港より。



光洋小学校→ホームページ
学区→鴨居2丁目の内72番から81番まで

学校の生い立ちは隣接する「かもめ団地」抜きには語れません。
1969年に鴨居白潟海岸の埋め立て地に「かもめ団地」の建設が始まり、当初、この団地の子供たちは
鴨居小学校へ通っていました。ところが団地の入居者数の増加に伴い、生徒数も増加。
ついに新しい学校「光洋小学校」を1973年に開校。
横須賀市が学校名を募集し「はるばる広がる太平洋に続く海、光り輝く海原が窓から見える学校で、
明るい心と大きな希望を持ってたくましく育ち、生きるように」と光洋小学校に決まってのですね。
その後生徒数は1979年の1352人をピークに少しずつ減り始め、2000年にはついに全学年1クラス、
全校で168人という小規模校に。

学校行事をみてみましても8月に行われる「かもめ団地夏祭り」12月の「かもめフェスティバル」
2月の「かもめ縁日」と「かもめ」がついた行事が多く、地域(特にかもめ団地)との
つながりの深さが分かりますね。



教室の窓からは、青い海、遠くには房総半島が眺められるといいます。素晴らしい環境です!
またその地理的特徴から、海風による校庭の砂埃といった苦労もあったようですね。
2001年の台風では防波堤が決壊、校庭が海のようになったそうです。 




google画像検索→横須賀 光洋小学校 光洋小学校の新旧いろんな写真が見れます
google検索→横須賀 光洋小学校
目で見る横須賀教育史→こちら 昭和48年の光洋小学校
mixiコミュニティ→光洋小学校
目で見る横須賀教育史→かもめ団地と灯明堂跡 昭和47年

当ブログ“横須賀のまなびや”特集は→こちら

かもめ団地はバスの終点でもありますし、釣りのスポットとしても有名なようです。
1970年頃、かもめ団地に続々と入居が始まり、団地内は子供たちのにぎやかな声でいっぱいだったことでしょう。
そして今でもかもめ団地からは、「光り輝く海原」を眺めることができます。

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★浦賀奉行所跡★ 横須賀風物百選

2006-12-09 | ◆浦賀
横須賀風物百選めぐり。今回は浦賀にあります『浦賀奉行所跡』です。
場所がよく分からず地元の方に聞いて探します。「すいませ~ん、浦賀奉行所ってどこですか?」
「行っても棒が1本立ってるだけだよ~」・・・なんだか不安な気持ちに・・・

そしてようやくたどり着いたのがこちら。
現在は住友重機械工業の社宅になっている四角いこの場所が浦賀奉行所のあった所です。



何かしら建物があると思っていましたが、あったのは奉行所をとり囲む堀の石垣と
表門の前にかかっていた石橋の伊豆石が4~5枚のみ。



以前の奉行所の様子。




 
画像クリックで大きな画像へ。
享保5年(1720)に奉行所が下田から浦賀へ移されました。
その業務は、船改めをはじめとして、海難救助や地方役所としての仕事などを行いました。
また、文化・文政(1804~1830)のころから、たびたび日本近海に出没するようになった
異国船から江戸を防備するため、海防の最前線として、さらに重要な役割を果たすようになりました。
享保5年から、江戸幕府が終わる慶応4年(1868)までの約 150年間に、
奉行は2人制の時期もありましたが、初代の堀隠岐守から最後の土方出雲守まで53人が勤めました。
また、奉行所には、与力10騎・同心50人の役人たちも勤めていました。
現在では、奉行所をとり囲む堀の石垣と表門の前にかかっていた石橋の伊豆石が
4~5枚あるだけで、 当時の様子を偲ぶことはむずかしくなっています。





『江戸』の繁栄に伴い、下田から浦賀に移された奉行所。業務内容は、船の積み荷の検査(船改め)、
海の関所、三浦半島の天領の支配、沿岸警備、海難救助、地方行政、警察、裁判所など多岐に
及びます。すべての船はここ浦賀で積荷の検査をするためそれに伴い浦賀の町も繁栄しました。
そして中島三郎助も浦賀奉行所に勤めており、ペリー来航時には米国使者の応対をしたのでした。


oogle画像検索→浦賀奉行所
google検索→浦賀奉行所
くらのすけ→歴史探検隊西浦賀に行く
Wikipedia→中島三郎助 ペリー来航時には浦賀副奉行と称して米国使者の応対を勤めた。
魚河岸4百年→船改めの強化で魚問屋定数が決まる 魚問屋と奉行所
当ブログ横須賀風物百選特集は→こちら

見事に何も残されていない『浦賀奉行所跡』には多少がっかりもしました。
ただ、いろいろ調べてみると、かつてここに奉行所があり浦賀の町が繁栄していた頃を想像する
ことができます。そうして改めて浦賀の町を歩いてみると、当時の活気ある風景が目に浮かび、
以前とは違って見えてくるので面白いものです。
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地図で見るときれいな形をしているのがわかりますね




★咸臨丸出港の碑★ 愛宕山公園 横須賀風物百選

2006-10-25 | ◆浦賀
30年前横須賀市が選定した『横須賀風物百選』をめぐるこの企画、今回は浦賀にあります
『咸臨丸出港の碑』です。(“かんりんまる”と読みます。)
まずはその碑がある“愛宕山公園”へ向かいます。横須賀の公園は“うみかぜ公園”の
ように広く、キャッチボールができたりする公園もありますが、単に小高い山だったりする
公園もあります。ここ愛宕山公園は・・・

地図を見て行ったのですが、入り口がどこなのかなかなか分かりませんでした。
そして発見した公園入口。以前は『浦賀園』と呼ばれていたそうです。
奥には階段が・・・ここから“登り”ます。



軽く登ると、ちょっとした広場に出ます。そこに『咸臨丸出港の碑』がありました。
公園といっても、いるのは私一人。手入れされてるとは言い難く、自然そのままの公園です。



『嘉永6年(1853)6月3日、米国水師提督ペリーが、黒船四隻を率いて、浦賀湾沖に現れました。
我が国との貿易を進めることが目的でした。当時、我が国は、長崎を外国への門戸としておりました。
それが、江戸近くに現れたから大変です。「泰平の眠りをさます上喜撰たった四はいで夜も
寝られず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。
 7年後の安政7年(1860)幕府は、日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で
新見豊前守正興を代表とする、使節団をワシントンへ送ることにしました。幕府は万が一の事故に
備えて、軍艦奉行・木村攝津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下、九十有余名の、日本人乗組員で、
運航する、咸臨丸を従わせることにしました。
 1月13日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は品川沖で錨を上げました。
途中、横浜で難破した、米測量船クーパー号の選任11名を乗せ、16日夕刻、浦賀に入港しました。
それから2日間、食糧や燃料その他の航海準備作業が行われました。意気天をつく若者たちを乗せた、
咸臨丸は、1月19日午後3時30分、浦賀港を出帆しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を
39日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。米国での大任を果した咸臨丸が、
故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼりの舞う、万延元年(1860)5月5日でした。
 この碑は、日米修好通商百年記念行事の一環として、咸臨丸・太平洋横断の壮挙を永く後世に
伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向い合うように、
ゆかりの深い、この地に建てられたものです。
 なを、この愛宕山公園は、明治26年開園で、市内最古の公園です。
 また、彼方に建つ、招魂碑の主・中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。』



もう少し上がると、“与謝野晶子夫妻の文学碑”がありました。
『黒船を怖れし世などなきごとし 浦賀に見るはすべて黒船』  寛
『春寒し造船所こそ悲しけれ 浦賀の町に黒き鞘懸く』 晶子



クリックで大きくなります。



そしてこちらが1893年(明治26年)に建立された、浦賀奉行所与力『中島三郎助の招魂碑』
これを機に公園として整備されました。愛宕山公園は市内で最も古い公園です。



クリックで読める大きな画像になります。
Wikipedia→中島三郎助




訪れてみると、ここ愛宕山公園は、市内で最も古い公園であったり、
『咸臨丸出港の碑』があったり、『与謝野晶子夫妻文学碑』、そして『中島三郎助招魂碑』と、見所は多くありました。
“咸臨丸”につきましては、下記参照サイトの他、多くの充実したサイトがありました。その一つ一つの話は当時の日本の様子が伺え、大変興味深いものでした。
ペリーの来航によって、鎖国していた日本に激震が走り、その7年後に日本人初の太平洋横断を果たす。乗組員には勝海舟福沢諭吉 小栗忠順ジョン万次郎らが名を連ね、異国の文明を目の当たりにして帰ってきます。激動の歴史の中で咸臨丸の太平洋横断は、日本という国においても重要な出来事であり、それに伴った“人間”にも大きな出来事であったように思えます。
そしてここ浦賀では毎年4月下旬か5月上旬頃『咸臨丸フェスティバル』があります。

関連サイト
Wikipedia→咸臨丸
咸臨丸ホーム→咸臨丸
咸臨丸子孫の会→こちら
せなうん→咸臨丸の歴史

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わかりますか???この電柱の脇から入ります。



★浦賀港と渡船★横須賀風物百選★愛宕丸

2006-09-22 | ◆浦賀
今回の『横須賀風物百選』は浦賀の東岸と西岸を結ぶ『渡し舟』と『浦賀港』です!
この渡し舟は以前から気になっており、実際に乗るのは今回が初めて。とても楽しみです。
乗り場はもちろん東西にありますが、今回は西浦賀の方から。

こちらが西浦賀の乗り場。雰囲気のある待合室です。
東西の岸を結ぶ距離はわずか200mほど。それでも陸路で行くと2km以上もあります。
時刻表はなく、乗客に合わせて往来します。



こちらが平成10年に就航120周年を記念して作られた「愛宕丸」。 オレンジと黒がきれいな屋形船風。



運転席。画面中央の「料金入れ」に注目。いいですねぇ~、とってもシンプルで!
12人乗りで、片道大人1人150円。1日の利用者は約80人。



それでは、遊覧船気分で浦賀港を行きましょう!こちらは西浦賀に停泊中の船。
この頃から頭の中で『矢切の渡し』が流れ始めます。しかもその部分だけ繰り返し。
 


おおーっ!船は浦賀港真ん中辺。浦賀駅方面の写真です。



そして見えてきました対岸の東浦賀。(はじめから見えているのですが)



そして対岸に到着。え?早くないですか???遊覧気分もつかの間、あっとういう間に
着いてしまいました。3分ほどです。
実はこの日、すでに東浦賀には来ていましたので、そのままUターン。


以下上の百選の看板の写しです(画像クリックもできます)
『室町時代に聖護院准后道興が箸した紀行文、廻国雑記(1486年)に「浦川の湊といへる所に至りる。
こヽは昔頼朝郷の鎌倉にすませ給ふ時、金沢・榎戸・浦河とて、三つの湊たりけるとかや――」
とあります。そこが現在の浦賀港を指すものであるか、どうかについては、歴史家の間に疑問が
あるようです。しかし、「浦賀みなと」の名称そのものが書物の中にみられる最初のものです。
いずれにしても、浦賀港が三浦一族や後北条によって、使われたいたことは確かなようです。
 この良港に注目した徳川家康は、ここを外国貿易の根拠地にしようと考えました。
英人ウィリアム・アダムスを逸見に住まわせ、しきりにイギリスやオランダなどの商船を
この港に引き入れるよう努めさせました。
 享保5年(1720)、浦賀奉行が置かれると、江戸湾に出入りする船は、すべて浦賀で
船改めすることが義務づけられました。そのために、浦賀の町は大いに栄えました。
以後、浦賀港は、黒船の来航・咸臨丸の出港・日本最初の洋式船・鳳凰丸建造の地として、
更には、浦賀船渠株式会社の設立と、ことあるごとに歴史の舞台に登場してきました。
 この港は、湾が約1・5㌔㍍も入り込み、東西両岸の住民が往来するには、渡船を利用する
ことが最も便利でした。したがって、渡船は早くから開かれていたようです。明治九年編さんの
皇国地誌には「浦賀渡ト呼ブ町、往来ニ属ス・・・・船ニ隻ヲ用ヘテ往復ニ便ナラシム私渡ニシテ
修繕民費」とあるところから、最初は民営の渡船であったようでです。大正六年には、
その重要性を評価されて、浦賀町営となりました。
 更に昭和18年4月1日、浦賀町が本市に合併されると、渡船事業も市営になりました。
昭和24年以後、渡船の運航業務を民間に委託し、現在に至っています。
 また、平成10年に就航120周年を記念して、新船「愛宕丸」を建造し、これとあわせ、
全国でも珍しい水上の市道の愛称を募集「浦賀海道」に決定しました。
 唯一の市営交通事業である渡船で、昔をしのびながら、浦賀港横断をお楽しみください。』



クリックで大きな画像へ(左)。船には自転車も乗れるように、ちゃんとした自転車置きがありました。

確かにこの渡し舟。ぐるーっと迂回することを考えれば、生活上とても便利ですね。
ただ私みたいに名所巡りのように来ている人には、「浦賀港周遊コース」なんていうのが
あると嬉しいですね。『浦賀ドック』を海側から見れたり、『燈明堂』の方まで
行ったりして。急いでいる地元の方には大変な迷惑ですね 

それにしても、帰りの船の中で、「東浦賀の“彼”と西浦賀の“彼女”。会う時はいつもこの渡し舟。」
なんて淡いラブストーリーを勝手に想像し、にやついてる私は相当に怪しい乗客。
浦賀に行く機会がございましたら、是非一度乗ってみてくださいね!


関連サイト
google画像検索→浦賀 渡し船
google検索→浦賀 渡し船
三浦半島へ行こう!→渡し舟のある風景~浦賀 昔の渡船の画像も!
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ストリートビュー→西浦賀側
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そうだ!横須賀に行こう!

★西叶神社★横須賀風物百選★浦賀

2006-09-14 | ◆浦賀
30年前に横須賀市が市制70周年の時に選定した「横須賀風物百選」巡り。
今回は、先日「浦賀みなと祭り」が行われたばかりの浦賀から「西叶神社」です!
浦賀港を挟んで対岸にある「東叶神社」と区別する為「西叶神社」となっておりますが、
正式には「叶神社」です。

道路、海側からの写真です。撮っている私の後ろは、落ちそうなくらいにすぐ海です。
“浦賀の渡し舟”の発着所も近くにあります。





こちらが“百選”の看板。以下その写しです。
『「アリャアリャ、ありがたや、叶神社の威徳をもって、虎もやすやす従えたり、皆々さんでカッピキュー」
 これは、享保5年(1720)から、当地に伝えられているといわれ、毎年9月の祭礼に奉納される、
県指定無形民俗文化財「虎踊り」に登場する和藤内のせりふの一節です。
 叶明神は、平家の横暴ぶりを憤った、文覚上人が、上総国(現在の千葉県)鹿野山にこもり、
はるかに山城国(現在の京都府)岩清水八幡宮に源氏再興を願って、叶えられたことから、
養和元年(1181)にそのみ霊をこの地に迎えて、祭ったことに始まると伝えられています。
したがって、この神社の祭神は、石清水八幡宮と同じ、応神天皇(第十五代の天皇)です。
 現在の社殿は、天保8年(1837)、焼失した社殿を天保13年に再建したものです。
再建に要した費用は、約3千両と記録されています。
 とくに注目に値するのは、内部を飾る、精巧な彫刻です。作者はのちに名工とうたわれた、
安房国千倉(現在の千葉県)彫刻師・後藤利兵衛橘義光です。当時、20代の若さであったと
いわれています。彫刻に要した費用は、総建築費の約七分の一にものぼる411両余でした。
奉行所が置かれ、回船問屋が軒を連ねていた、隆盛期の浦賀であったからこそ、できたことと思われます。
 社殿の裏山には、文覚畑と呼ばれている所があり、文覚上人の庵室の跡と伝えられています。
また、社殿の右手下に「明治天皇駐輦(れん)跡」があります。これは、明治14年5月18日に
明治天皇が観音崎砲台建設の様子を御覧になられた際、当時この場所にあった浦賀西岸学校の
二階の一室に御休息されたのを記念して建てられた碑です。』



水屋の手水鉢。当時遊郭を営んでいた、江戸屋半五郎がその生き様を恥じ、寄進したそうです。



天保13年に再建された際に後藤利兵衛橘義光によって彫られた彫刻は、横須賀市指定市民文化資産になっています。







本堂の裏にはこういったものがあります。詳しく分からなかったので、後日、補足追記します。










余談となりますが、対岸の「東叶神社」は、元禄5年(1692)に浦賀村が東と西に分かれたとき、
西浦賀村の叶神社を遷して祀ったという説もあり、こちらの「西叶神社」が本家ということもできそうです。
いずれにしましても、文覚上人が源氏の再興を願って石清水八幡宮の霊を迎えたことに
始まるといわれる両神社。源頼朝によってその願いが“叶い”ます。当時の三浦半島の
士気の高まりを感じることができますね。

叶神社ホームページ


当ブログ横須賀風物百選特集は→こちら
当ブログ「東叶神社」は→こちら
追記!祭りに行きました!→こちら 神輿画像満載
google画像検索→西叶神社
google検索→西叶神社
神奈川県神社庁→叶神社
歴史探検隊西浦賀に行く→西叶神社
風に吹かれて→黒船が来た町/浦賀を行く/西叶神社
Wikipedia→文覚

彫り物で見たり、狛犬で見たりと、神社ひとつにもいろいろな見方があって面白いですよね。
西浦賀の「西叶神社」。「浦賀の渡し」で対岸東浦賀の「東叶神社」へ。あわせて訪れたいですね。
今度は祭りの時に来てみたいです。


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そうだ!横須賀に行こう!

★東叶神社★横須賀風物百選★浦賀

2006-09-07 | ◆浦賀
今回の“横須賀風物百選”巡りは、浦賀にあります『東叶神社』です。
浦賀港を挟んで対峙する『東叶神社』と『西叶神社』。その間には『渡し舟』が運行しており、
いずれも浦賀を語る上で欠かせない風物となっています。

浦賀港を目の前に、なんとも立派で風格のあるたたずまいです。初めて来たのですが、
すっかり気に入ってしまいました。以下百選の看板の内容の転写です。
祭神は京都の石清水八幡宮と同じ、応神天皇(第15代の天皇)です。
 この神社は、養和元年(1181)8月15日、高雄山神護寺の僧・文覚が、源氏の再興を願って、
石清水八幡宮の霊を迎えたことに始まるといわれ、その後、源頼朝によって、その願いが叶った
ことから、叶大明神の名で呼ばれるようになったと伝えています。また、このほか
新編相模国風土記稿や皇国地誌残稿などには、この神社に関する記事が載っています。
 神社の裏山を明神山と呼び、標高は約50mです。
 後北条の頃、しばしば、房総半島の里見水軍が、三浦半島に攻撃をかけてきましたので、
それを防ぐために、この明神山に水軍を配置しました。山頂には、この神社の奥宮があり、
その左手に「勝海舟・断食の場」の標柱が立っています。
 明神山の素晴らしさは、よく保全された自然林で、木々の種類も豊富なことです。
特にウバメカシの自生は、県内でも、この明神山と城ヶ島だけで、ここが分布の北限とされています。
この学術的に貴重な、明神山は一帯は、「県指定天然記念物・叶神社の社叢林」となっています。



左「叶神社、祭神、由緒、祭事」右「叶神社の社叢林」画像クリックで大きくなります









左「横須賀風物百選・東叶神社」右「勝海舟断食の碑」画像クリックで大きくなります





拝殿の脇には階段が....これは上るべきでしょう!後で分かったのですが、この階段には名前がついています。
拝殿脇から中段までの坂は“恵仁志坂(えにしざか)”。



そして中段より頂上に向かう坂は“産霊坂(むすびざか)”
“「縁(えにし)」があって、「結ばれ」て願いが叶う”という“縁結び”になっています。 
私は何も知らずに、200段はあるという階段を、汗だくで上りました
それにしても、県指定の天然記念物になっているというこの林は見事です!





こちらが勝海舟が航海の安全を祈り“断食”をしたところ。日本人による初めての太平洋横断を
成し遂げた「咸臨丸」と勝海舟。出かける時、妻には、「ちょっと品川へ船を見に行って来る」
とだけ言ったらしい。大物だ!



山頂の東照宮



こちらが東叶神社の奥宮。



「殉職者招魂塔」住友重機械工業株式会社の前身である浦賀船渠(ドック)により
大正9年に、この明神山々頂に建立された。
会社関係で先の大戦又不慮の事故等により亡くなられた307柱の御霊をまつっている。



左「勝海舟断食跡」右「浦賀城址」クリックで大きくなります



東叶神社の上、明神山からの眺望。素晴らしい!
正面に見えるのはこちらも百選に選ばれている『燈明堂』のある燈明崎。

東叶神社と西叶神社の関係については諸説がいろいろとあるようですが、浦賀港に面したこの神社。
勝海舟が断食したという話があったり、緑が素晴らしくきれいだったりと、とても気持ちのいい神社でした。
源頼朝が天下をとったように、“願いは叶う”という前向きなエネルギーをもらってきました。

叶神社ホームページ

当ブログ横須賀風物百選特集は→こちら
追記!祭りに行ってきました!→こちら 神輿画像満載
google画像検索→東叶神社
google検索→東叶神社
Wikipedia→勝海舟

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ストリートビュー。振り返ると浦賀湾。対岸には西叶神社



そうだ!横須賀に行こう!


★川間トンネル★ 浦賀港~久里浜港 横須賀のトンネル特集!

2006-09-05 | ◆浦賀
今回のトンネルは、浦賀港から久里浜港へと抜ける「川間トンネル」です!
浦賀側は「燈明堂」のすぐ近く、久里浜側は「横須賀刑務所」「ペリー公園」
「フェリー乗り場」へと続きます。

トンネル入り口には、横須賀市の木“オオシマザクラ”の絵が施されています。
見た感じでは新しいトンネル。こちらは浦賀側からの画像。





久里浜港から開国橋を渡ってゆるやかな坂を上ると、トンネルが見えてきます。
こちらにも“オオシマザクラ”。


完成 1996年(平成8年) 隣接する「長瀬トンネル」と交代
全長 304m 幅 10m 高さ 8.6m

近くに「長瀬トンネル」があったのは知りませんでした。今度見てきます。
このトンネル周辺に若い桜の並木があるとの情報も。そんな写真も後日、追加UPできたらしますね。
行ってきました!DEEPな→長瀬トンネル 合わせてご覧ください

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