なんでもぐもぐもぐ= (なんでも-も)+(も+ぐ)+もぐもぐ

専門のマシン知能に限らず、身辺で感じたこと、なんでも、なぜ、という観点から
もぐもぐもぐ(深堀り)を試みるブログです.

ターミネータと身体性について想うこと

2009-07-20 21:20:05 | 日記
先月、公開されたターミネータ4の滑り出しはまずまず
のようですね.

ターミネータ4は、一体のスペシャルロボットが、
半分人間化されおり、最終的には、人間のサイドで従来
型のターミネータと戦う姿が描かれています.

これは、興味深い部分ではありますが、いくつか、注目
したい点があります.

一つは、そのスペシャルロボットは、ターミネータが、
人間化されたものではなく、人間が半分、ターミネータ
に改造された、ということで、人間の脳をいくばく
かもっているという点です.

もう一つは、ターミネータ同士は、形は人型というもの
の、戦闘タイプだし、それぞれが協調して戦うにしても
すべてプログラムされた範疇のものだと思われます.

自由意志(自意識)は全くなく、際限なく戦うのための
マシンと化していて、そういう意味で今回は、人型に
こだわらず、ムカデの形をしたものや、バイク型のもの
も登場するシナリオになっています.

戦車型のものもあるし、飛行型のものもあり、バリエー
ションが増えました.

つまり、戦うためのマシンとしては、どんなタイプのマ
シンがベターなのか、その点につき考慮されている、と
いう感は受けました.

過去のブログの中で、マシンならではの知能とは、に
触れたわけですが、今回のターミネータ4は以前よりも
その点につき、明確になった気もしています.

しかし、その一方で、今回の4でもその原型となってい
るターミネータ2を忘れてはならないでしょう.

ターミネータ2での、人類自らがターミネータをクリエ
ートし、それが刃となって人類を襲ってくるシナリオは、
墓穴を掘る、という形で核爆発を起こし、人類の歴史が
終焉を向える、という悲劇的なものとなっています.

”No Fate”とサラーコナーが刻むその文字には、自ら
の道は自らが決める、というもので、人間社会の終焉
に待ったをかける、というストリーですね.

私は、海外で研究活動したくて、英語を習い始めたとき、
このNo Fate、という言葉が気になって、片言の英語で
当時、黒人の先生でしたが、これでコミュニケーション
しようとがんばっていた時期があります.

ところで、ターミネータ2は装飾も優れていました.

ブルーの背景をうまく使いながら、常にエキゾチック、
で、未来的なイメージを駆り立てる構成となっています.

映画「タイタニック」のときもそうでした.
その点、ジェームスキャメロン監督は、見る側の心理的
効果も常に配慮されていて、とてもセンスがありますね.
さすがです.

何十年過ぎて見てもも、古さを感じさせません.

また、T1000が出るときに流れる音響効果もよい
です.
形は、人だが、雰囲気は、マシンだということを無機質
な音をだして感じさせるようになっています.

車や電車が接近してくるときの音や、鉄鋼工場の音、
などは、人にとっては機械的な感覚を与えるものです.

ターミネータT1000の能力も興味深いものでした.

自分が接触したものになりきれる超記憶合金の一種で、
流体多結晶合金となっています.

人型ロボットのための人工筋肉研究などがありますが、
それとは違う観点で、ロボットのスキンを考えるのは、
大変興味深いです.

確かに、人間の’なりきり’ロボットが作れれば話し
は簡単になります.

人との共同作業するときも、人ではないが、限りなく
人に近くなってくると、ユーザーは、なりきりロボット
を人のような感覚としてとらえるので、動きが予想でき
て、協調作業が円滑となりえます.

(ただし、人ではないので不気味さも感ずるように
なるはずですが・・・)

ATR研究所などが使っている、人型ロボットにテニス
やゴルフなどの技を習得させるのが可能か、可能だと
すればどこまで可能か、が研究の焦点となっているもの
もあります.

(模倣限界は誰が、どうやって作るのか)

この研究テーマは、ロボットがどこまで人のような
「模倣」を可能とするのか、人の模倣が可能となるため
のロボットの”身体性”はどうあるべきか、などに関し
科学的、工学的に明らかにするのが目標のようです.

結局は、人とは何か、ということを原理的に解き明かす
人研究という位置付けでしょうか.

身体性の問題- これは、人間とは違うマシンに人が
やっていることと同じ(似ている)ことをさせようと
すると、常に突き当たる問題です.

人は、発達に応じてその身体も変わってゆきます.
が、マシンは、最初から、壊れるまで同じですね.

また、人が感ずる”痛み”もないので、指を曲げても
ロボット自身が持つ指がはずれるまでまわすことも
できて、時に少々うらやましいのですが、反対に、
相手の立場でものを考える、いわば、自意識などが
まるでないし、簡単に自分の身体を壊します.

ターミネータのように、たとえ、自分の身体が壊れて
も目標物を抹殺するようなイメージですね.
(手段は選ばず)

しかも、このミッションは、自らの主体的な動機で作
られたわけではなく、関連行動をつくるプログラム
のみで制御されていて、それに従っているだけです.

でも、このプログラムは創造主が神ではなく人である、
という前提なのですね.

逆に考えると:

人は、自分の行動を創発したり、相手が感ずるように
自分も感じたりする能力をもっています.これは、
自由意志や自意識に基くものと考えられます.

この自由意思とは、何でもできる、ということでは
なく、やってはいけないことと、いいことの判別を
自分自身が主体的に行う、という意味で”自由”と
なっているようです.

だから、親や先生が言ったから、ということでもなく、
自分の自意識に基き、判断するという意味での自由度
と解釈できる、と思います.

自身は、日本の教育と西洋型の教育の両方を体験する
機会があったので、折りをみて、その体験をお話しし
たいと考えています.

ではこのへんで.
コメント
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