ティフォシモデルカー美術館

1/43フェラーリモデルカーに特化した個人コレクター美術館です
千台以上所蔵の一部、300台程を常設展示しています

フェラーリ 500F2

2022-04-27 | F-1

Ferrari 500F2

(1952-1953年)

代表ネロウゴリーニ

Tec.dsnアウレリオランプレディ

1952年

1位👑アルベルトアスカリ(伊)

8位ルイジヴィロレージ(伊)

3位ピエロタルフィ(伊)

2位ジュゼッペファリーナ(伊)

1953年

1位👑アルベルトアスカリ(伊)

5位ルイジヴィロレージ(伊)

3位ジュゼッペファリーナ(伊)

4位マイクホーソン(英)

F1世界選手権で使用したフォーミュラ2カーである。

車名の500はエンジン1気筒あたりのシリンダー容積500ccを表す(500cc×4気筒=2,000cc)。

2年間に渡り圧倒的な成績を収め、アルベルトアスカリが2年連続ドライバーズチャンピオンに輝いた。

1952年のF1世界選手権は参加台数不足の懸念からエンジン排気量2,000ccのF2規定のマシンで

争われることになった。

フェラーリはすでにV12エンジンの166F2と212F2を保有しており優位な立場にあったが、

アウレリオランプレディは新設計の直列4気筒エンジンを開発した。

競技車・市販車を含めて、フェラーリがV12以外のエンジンレイアウトを採用した

初のケースとなった。

500F2は革新的ではないが手堅く実戦的に設計された。

シンプルな構造のエンジンは低重心で中速域のトルクに優れた。

車重は軽く、操縦性の優れたバランスの良いマシンとなった。

世界選手権以外のレースも含め、1952年から1953年にかけて33戦出走して30勝。

のべ109回出走して81回完走、リタイアは18回のみだった。

マシンは優れていたが、強力なライバルが不在だったことも関係していた。

1953年の最終戦には排気量を1,997ccに上げた553F2を試験的に投入。

1954年から再びF1規定の世界選手権となると、2,500ccにまで拡大した625F1と553F1を使用した。

ドライバータイトルは

1952年

1位👑アルベルトアスカリ6勝(36P)

8位ルイジヴィロレージ0勝(8P)

3位ピエロタルフィ1勝(22P)

2位ジュゼッペファリーナ0勝(24P)

1953年

1位👑アルベルトアスカリ5勝(35P)

5位ルイジヴィロレージ0勝17P)

3位ジュゼッペファリーナ1勝(26P)

4位マイクホーソン1勝(19P)

直4,気筒2V,1,984㏄,185PS,

560㎏,260㎞/h


フェラーリ 553F1

2022-04-26 | F-1

Ferrari 553F1 (1954年)

代表ネロウゴリーニ

Tec.dsnアウレリオランプレディ

18位ウンベルトマグリオ―リ(伊)

2位フロイランゴンザレス(爾)

-位ピエロタルフィ(伊)

8位ジュゼッペファリーナ(伊)

4位モーリストランティニアン(仏)

3位マイクホーソン(英)

15位ローベルマンゾォン(仏)

25位アルベルトアスカリ(伊)

フェラーリ553F1は、スクーデリアフェラーリが1954年のF1世界選手権で使用したF1カーである。

通称スクアーロ(Squalo)。

F1世界選手権はF2規定で2年間行われたのち、

1954年からエンジン排気量を2,500ccとして仕切り直しされた。

フェラーリは500F2で成功した直列4気筒エンジン路線を継続し、

発展型の625F1と553F1を開発した。

553F1の新設計シャーシは燃料タンクを両サイドに配置しており、

丸みを帯びたボディ形状から鮫(スクアーロ)というニックネームが付けられた。

553は先ず1953年最終戦伊GPに553F2(2,000cc)として先行投入された。

車名の553は500F2の1953年バージョンを意味する。

1954年は2,500ccのF1マシンとなって登場したが、出走7回中5回リタイアし、

目ぼしい成績は最終戦スペインGPでのマイクホーソーンの優勝のみだった。

シーズン後半には625F1のシャーシに553F1のエンジンを載せたもの、

625F1のエンジンブロックに553F1のエンジンヘッドを組み合わせたもの、

スポーツカー用735エンジンのクランクケースを使用したものも登場した。

ドライバータイトルは

18位ウンベルトマグリオ―リ0勝(2P)

2位フロイランゴンザレス1勝(25P)

-位ピエロタルフィ(0P)

8位ジュゼッペファリーナ0勝(6P)

4位モーリストランティニアン0勝(17P)

3位マイクホーソン1勝(25P)

15位ローベルマンゾォン0勝(4P)

25位アルベルトアスカリ0勝(1P)


フェラーリ 555F1

2022-04-25 | F-1

Ferrari 555F1 (1955年)

代表ネロウゴリーニ

Tec.dsnアウレリオランプレディ

21位ウンベルトマグリオ―リ(伊)

17位フロイランゴンザレス(爾)

-位ハリーシェル(米)

6位ピエロタルフィ(伊)

15位ポールフレール(独)

5位ジュゼッペファリーナ(伊)

4位モーリストランティニアン(仏)

-位マイクホーソン(英)

3位エウジェニオキャステロッティ(伊)

19位ルイジヴィッロレージ(伊)

1955年には改良型のフェラーリ555F1、通称スーパースクアーロ(SuperSqualo)を使用した。

操縦性を改善した555F1を投入したが、前年と同様にメルセデスベンツW196の後塵を拝した。

シーズン中に撤退したランチアからランチア・D50を譲り受けたため4気筒エンジン路線は

この年限りで廃止され、設計者のアウレリオ・ランプレディはフェラーリを去った。

ドライバータイトル

21位ウンベルトマグリオ―リ0勝(1P)

17位フロイランゴンザレス0勝(2P)

-位ハリーシェル(0P)

6位ピエロタルフィ0勝(9P)

15位ポールフレール0勝(3P)

5位ジュゼッペファリーナ0勝(10P)

4位モーリストランティニアン1勝(11P)

-位マイクホーソン(0P)

3位キャステロッティ0勝(12P)

19位ルイジヴィッロレージ0勝(2P)

直4、2947㏄,260PS

DOHC2V,590㎏,280㎞/h

5速1速,ドラム式

前輪5.50×16後輪7.00×16


フェラーリ ランチアフェラーリ D50

2022-04-22 | F-1

Lancia Ferrari D50

Ferrari 801F1

(1955-1957年)

ランチアD50は、1954年から1955年にかけてランチアがF1世界選手権で使用したF1カーである。

その後スクーデリアフェラーリに譲渡され、1956年はランチアフェラーリ D50として使用された。

1957年の名称はフェラーリ 801F1。

エンジン(黄色)とドライブシャフト(黄緑色),燃料タンク(水色)の配置図。

開発主任のヴィットリオヤーノはD50の設計にあたり、当時としては先進的な技術的挑戦を行った。

従来のフロントエンジン車は操縦席の下にドライブシャフトがあったが、

D50はエンジンを前後中心線から12度オフセットすることで、

ドライブシャフトが操縦席の横(ドライバーの左側)を通るようにした。

これにより全高が低くなり、前面投影面積を小さくして空気抵抗を減らすことができた。

また、エンジンをシャーシと接合し、車体構造の一部とすることで剛性を高めた。

この手法は1960年代後半からF1で普及するエンジンのストレスメンバー化の先駆けとなった。

燃料タンクは車体左右に張り出したサイドポンツーンの中にあり、

燃料消費による重量バランスの変化を抑えた。

サイドポンツーンは前後輪間の空間を埋めるエアロパーツとしての役割も果たした。

エースドライバーの死と資金難に見舞われたランチアはF1撤退を決断。

D50はわずか4戦で姿を消すかと思われたが、イタリア自動車協会の仲介で

フィアット、ランチア、フェラーリの3社交渉が行われ、

ランチアが6台のD50とレース資材一切をフェラーリに譲り渡し、

フィアットが向こう5年間フェラーリに資金援助するという合意がなされた。

これに伴いヤーノら技術陣もフェラーリに移籍した。

フェラーリに渡ったD50は改修を施され、1956年シーズンの主力マシンとして使用された。

名称はランチア・フェラーリD50と呼ばれた。エンジンはショートストローク化され、

D50の特徴であった外部燃料タンクは操縦席後方に戻された。

サイドポンツーンはメインボディと一体化されたが、内部は空洞である。


フェラーリ ランチアフェラーリ D50

2022-04-20 | F-1

Ferrari  

ランチアフェラーリD50

(1956年)

3位ピーターコリンズ (英)

6位エウジェニオカステロッティ(伊)

11位ルイジムッソ (伊)

-位ヴォルフガングフォントリップス(独)

15位アルフォンソデポルターゴ(西)

-位アンドレピレット(独)

8位ポールフレール(独)

23位オリビエジャンドビアン(独)

1位👑ファンマニュエルファンジオ(爾)

代表エラルドスクラーティ

Tec.dsnヴィットリオヤーノ

フェラーリに渡ったD50は改修を施され、1956年シーズンの主力マシンとして使用された。

名称はランチアフェラーリ D50(またはフェラーリ D50)と呼ばれた。

エンジンはショートストローク化され、D50の特徴であった外部燃料タンクは操縦席後方に戻された。

サイドポンツーンはメインボディと一体化されたが、内部は空洞である。

仏GP予選では空気抵抗を減らすストリームラインボディも試された。

初戦アルゼンチンGPには旧車555F1の車体にD50エンジンを搭載したバージョンも持ち込まれた。

チームには前年のルマン24時間レースの大事故でレース活動を止めたメルセデスベンツから

チャンピオンのファンマヌエルファンジオが移籍してきた。

フェラーリ勢は若手のルイジムッソが1勝、ピーターコリンズが2勝、ベテランのファンジオが3勝し、

コリンズとファンジオがチャンピオン候補となった。

最終戦伊GPでファンジオはステアリング故障のためピットに戻るが、

ピットインしたコリンズからマシンを譲られレースに復帰し、

4度目のドライバーズタイトルを獲得した。

ドライバータイトルは

3位ピーターコリンズ2勝(25P)

6位カステロッティ0勝(7.5P)

11位ルイジムッソ1勝(8P)

-位ヴォルフガングフォントリップス(0P )

15位ポルターゴ0勝((3P)

-位アンドレピレット(0P)

8位ポールフレール0勝(6P)

23位オリビエジャンドビアン0勝(2P)

1位👑ファンジオ3勝(30P)

詳細データ不明