ティフォシモデルカー美術館

1/43フェラーリモデルカーに特化した個人コレクター美術館です
千台以上所蔵の一部、300台程を常設展示しています

フェラーリ F1-75

2023-11-24 | F-1

フェラーリF1-75

(車名のF1-75は、最初の量産車が出荷されてから75周年という節目の年にちなむ。 ボディ全体は濃い赤、前後のウイングが黒で塗られており、

1980〜1990年代のフェラーリのマシンを彷彿させている。)

2位シャルルルクレール (摩)

5位カルロスサインツ (西)

2位コンストラクター

代表フレデリックバスール

開幕戦バーレーンGPはルクレールがポールトゥウィン、2位にサインツが入り2019年のシンガポールGP以来の1-2フィニッシュを飾った。

フェラーリは、そもそもF1タイトル獲得を2022年の目標に掲げていたわけではないのだと、主張している。

シーズンスタート時点では、F1-75の方がレッドブルRB18よりわずかながら優れており、全体のベストマシンだったにもかかわらず、

フェラーリは、何がなんでもチャンピオンになるという意気込みを持って2022年シーズンに臨んだわけではなかったというのだ。

しかしそうだとしても、最終的なポイント表を見て、チャンピオンのレッドブルとの差は予想以上に大きかったと思っているのではなかろうか。

2020年にはコンストラクターは6位、未勝利に終わっている事を鑑みれば頑張っている。それだけレッドブルとの差は大きい。

2023年に期待したい。表彰台18回。

フェルスタッペン454P,サインツ246P(1勝)ルクレール308P(3勝)

1.6L90°V6

ターボ,ERS,(15000rpm)

8速+1速


フェラーリ SF21

2023-11-24 | F-1

フェラーリ SF21(スクーデリアフェラーリが2021年のF1世界選手権参戦用に開発したことから命名された。)

7位シャルルルクレール (摩)

5位カルロスサインツ (西)

3位コンストラクター

代表マッティアビノット

前年型のSF1000の進化版と言えるマシンだが、前年の大不振を無くしたいとの思いで、

パワーユニットとギアボックスとそれに付随するリアサスペンションは新しく設計。

シーズンを通して高い安定感を見せ、前年は17戦中5回のみだったダブル入賞の回数は22戦中17回に達し、

2年連続となるシーズン未勝利に終わった。表彰台5回。

フェルスタッペン396P,サインツ165P(0勝)ルクレール159P(0勝)

1.6L90°V6ターボ,ERS,(15000rpm)

8速+1速


フェラーリ 125F1

2022-05-09 | F-1

Ferrari 125F-1

(1948-1951年)

代表フェデリコジベルティー

アルベルトアスカリ(伊)

ルイジヴィロレージ

レイモンソメール

Tec.dsnジョアッキーノコロンボ

フェラーリ初のF1マシンであり、1950年に開幕したF1世界選手権にも投入された。

名称の125はエン

ジン1気筒あたりの排気量125ccを表す。(125×12気筒=1,500cc)。

コンストラクタータイトルは制定前。

第二次世界大戦の後、フェラーリはジョアッキーノコロンボが設計したV型12気筒1,500cc

エンジンの開発が進められ、1947年にスポーツカー125Sがレースデビューした。

同年にF1規定のグランプリレースが始まると、

1948年に2,000ccエンジン車166SCのフォーミュラ仕様で参戦し、

次いで純正F1マシンの125F1を投入した。

125Sから流用した1,500ccエンジンにはルーツ式スーパーチャージャーが搭載され、

230馬力を発生した。

シャーシは鋼管ラダーフレーム式で、ホイールベースは短く設計された。

スイングアクスル式のリアサスペンションは挙動過敏でスピンの原因となった。

この時期には125F1のシャーシに166SCと同じ2,000ccエンジンを搭載した125F1/166も存在する。

1949年には操縦性が改善された。

シーズン終盤にはエンジンがDOHC・2ステージスーパーチャージャー仕様となり、

出力は280馬力に向上した。

1949年仕様のマシンは125F1/49と表記される場合がある。

1950年のF1世界選手権シーズンの途中にはアウレリオランプレディ設計の自然吸気式4,500ccエンジンを

搭載した375F1に主力の座を譲った。

125F1は1948年9月5日の地元イタリアGP(モンツァ)でデビューした。

決勝最高は3位。

1949年はライバルのアルファロメオとマセラティがレース活動を休止したため、

国内外で好成績を収めた。

125F1はイギリスの裕福なプライベーターにも販売された。

ピーターホワイトヘッドはワークス不参加のチェコスロバキアGPで優勝した。

1950年はワークスの125F1はモナコGPから第5戦ベルギーGPまで使用されたが、

復帰したアルファロメオの強さに対抗できず2位1回(アスカリ)が最高だった。

1948年式スペック

V型12,60度ターボ。

1,496cc230PS,260㎞/h

SOHC,2V,5速,R1。710㎏。

キャブレター ウェバー40。


フェラーリ 275F1,340F1,375F1

2022-05-06 | F-1

Ferrari 275F-1,340F-1,375F-1

(1950-1951年)

代表フェデリコジベルティー

Tec.dsnアウレリオランプレディ

1950年

5位アルベルトアスカリ(伊)

15位レイモンドソマー(仏)

13位ドリノセラフィーニ(伊)

-位ルイジヴィロレージ(伊)

1951年

2位アルベルトアスカリ(伊)

5位ルイジヴィロレージ(伊)

6位ピエロタルフィ(伊)

3位フロイランゴンザレス(爾)

-位ジャンニマルゾット(伊)

フェラーリ375F1はF1世界選手権においてフェラーリが初優勝を遂げたマシンとして知られる。

375はエンジン1気筒あたりの排気量を表す(375×12気筒=4,500cc)。

開発順に3,300ccの275F1、4,100ccの340F1、4,500ccの375F1を説明する。

フェラーリは1950年のF1世界選手権にスーパーチャージャー付き1,500ccエンジンの125F1で

臨みながら、次期主力となる自然吸気エンジンの開発を進めていた。

自然吸気エンジンは過給エンジンに比べると出力では劣るが、

燃費が良いためレース中にピットインして再給油する回数を減らすことができるという

メリットがあった。

この路線変更の決断には、前年のベルギーGPで125F1が自然吸気エンジンのタルボラーゴに

敗れた影響があったとされる。

エンジンの開発はアウレリオランプレディが担当し、排気量を段階的に増やしていく方法を採った。

最初に完成したのが275エンジン次は340エンジン。

レギュレーション上限まで拡大した完成形が375エンジンである。

これらはランプレディエンジン(別名:ビッグブロック)と呼ばれ、

レース用スポーツカーや高級GTカーにも使用された。

275F1のシャーシは125F1のものを流用したが、340F1から新シャーシとなった。

1951年にはシリンダーヘッドの新設計、点火系のツインプラグ化により最高出力が380PSに向上した。

このマシンは区別のためフェラーリ 375F1/51とも表記される。

英GPでフロイランゴンザレスの乗る375F1が常勝アルファロメオ159を破り、

フェラーリの記念すべきF1初勝利を実現した。(ゴンザレスは1950年型)。

エンツォフェラーリは古巣アルファロメオに勝った事で“母親を殺してしまった”と吐露。

戦績は1950年、275F1はF1第5戦ベルギーGPから投入されたが、

次戦仏GPでは不調のため出走をキャンセルした。

7月末の非選手権ジュネーブGPで340F1が登場し、9月の地元伊GPで375F1がデビューした。

エースのアルベルトアスカリは途中からドリノセラフィーニのマシンに乗り継ぎ2位に入った。

アルファロメオ不参加の非選手権ペニャリンGPでは1-2-3フィニッシュを決めた。

1951年、オフシーズンの開発により375F1は戦闘力を高め、開幕からアルファロメオと接戦を演じた。

迎えた第5戦英GP、途中加入したフロイランゴンザレスが同郷のファンマヌエル・ファンジオの追撃を

かわして初優勝を記録した。

その後は完全にフェラーリ優勢となり、独GP、伊GPでアスカリが連勝。

最終戦スペインGPはアスカリとファンジオのドライバーズタイトル決定戦となった。

しかし、フェラーリ勢はタイヤを通常の17インチから16インチに替えるという作戦が裏目に出て

タイヤトラブルに見舞われ、ファンジオのチャンピオン獲得を許した。

375F1はフェラーリワークスチームのほか、イギリスのプライベーターチーム、

ヴァンダーベルがシンウォールスペシャルとして使用した。

ドライバーはレッグパーネルとピーターホワイトヘッドが交代で乗った。

1952年シーズンは世界選手権が2,000ccのF2規定で行われたため、

375F1は排気量制限のないフォーミュラリブレで使用された。

フェラーリはシリーズ第2戦に組み込まれていたインディアナポリス500(インディ500)に参戦するため、

オーバルコース向けにホイールベースを延長したフェラーリ 375インディをアメリカに送った。

1952年インディ500はF1開幕時から選手権レースに指定されていたが、

実際に出場したのはフェラーリが最初だった。

これはエンツォフェラーリの旧友でありアメリカでフェラーリ販売代理店を営むルイジキネッティの

働きかけによるもので、375インディの3台に地元のプライベーターが乗り、

ワークスからはアスカリひとりが出場した(予選出走ためF1初戦スイスGPを欠場)。

プライベーター勢は予選落ちし、決勝に進んだアスカリもホイール破損のため序盤にリタイアした。

ドライバータイトルは

1950年

5位アルベルトアスカリ0勝(11P)

15位レイモンドソマー0勝(3P)

15位ドリノセラフィーニ0勝(3P)

-位ルイジヴィロレージ(0P)

1951年

2位アルベルトアスカリ2勝(25P)

5位ルイジヴィロレージ0勝(15P)

6位ピエロタルフィ0勝(10P)

3位フロイランゴンザレス1勝(24P)

-位ジャンニマルゾット(0P)

V型12気筒60°SOHC2V

850㎏,4速R1,ウェバー42

B×S,72×68mm(275F1),

80×68mm(340F1),

80×74.5mm(375F1)

3,322cc(275F1),4,101cc

(340F1),4,493cc(375F1)

300PS(275F1),

335PS(340F1),

350PS(375F1)

280km/h(275F1),

300km/h(340F1),

320km/h(375F1),

F5.50×16,R7.00×16(275F1・

340F1),7.50×17(375F1)


フェラーリ 500F2

2022-04-27 | F-1

Ferrari 500F2

(1952-1953年)

代表ネロウゴリーニ

Tec.dsnアウレリオランプレディ

1952年

1位👑アルベルトアスカリ(伊)

8位ルイジヴィロレージ(伊)

3位ピエロタルフィ(伊)

2位ジュゼッペファリーナ(伊)

1953年

1位👑アルベルトアスカリ(伊)

5位ルイジヴィロレージ(伊)

3位ジュゼッペファリーナ(伊)

4位マイクホーソン(英)

F1世界選手権で使用したフォーミュラ2カーである。

車名の500はエンジン1気筒あたりのシリンダー容積500ccを表す(500cc×4気筒=2,000cc)。

2年間に渡り圧倒的な成績を収め、アルベルトアスカリが2年連続ドライバーズチャンピオンに輝いた。

1952年のF1世界選手権は参加台数不足の懸念からエンジン排気量2,000ccのF2規定のマシンで

争われることになった。

フェラーリはすでにV12エンジンの166F2と212F2を保有しており優位な立場にあったが、

アウレリオランプレディは新設計の直列4気筒エンジンを開発した。

競技車・市販車を含めて、フェラーリがV12以外のエンジンレイアウトを採用した

初のケースとなった。

500F2は革新的ではないが手堅く実戦的に設計された。

シンプルな構造のエンジンは低重心で中速域のトルクに優れた。

車重は軽く、操縦性の優れたバランスの良いマシンとなった。

世界選手権以外のレースも含め、1952年から1953年にかけて33戦出走して30勝。

のべ109回出走して81回完走、リタイアは18回のみだった。

マシンは優れていたが、強力なライバルが不在だったことも関係していた。

1953年の最終戦には排気量を1,997ccに上げた553F2を試験的に投入。

1954年から再びF1規定の世界選手権となると、2,500ccにまで拡大した625F1と553F1を使用した。

ドライバータイトルは

1952年

1位👑アルベルトアスカリ6勝(36P)

8位ルイジヴィロレージ0勝(8P)

3位ピエロタルフィ1勝(22P)

2位ジュゼッペファリーナ0勝(24P)

1953年

1位👑アルベルトアスカリ5勝(35P)

5位ルイジヴィロレージ0勝17P)

3位ジュゼッペファリーナ1勝(26P)

4位マイクホーソン1勝(19P)

直4,気筒2V,1,984㏄,185PS,

560㎏,260㎞/h