"ちょっと外から見た日本"

今、スペインに住んでいます。
大好きな日本のこと、
外からの視点で触れて見たいと思います。

平和について

2010-12-30 06:45:00 | 日記
今年も、様々な出来事がありましたね。

最近も、欧州では、大雪で空港が閉鎖になったり(私も、ロンドン行きの便が別の飛行場に降りてしまって往生しました)、大寒波のアメリカで様々な被害が出たり、夏の筈のオーストラリアで雪が降ったり・・・。

経済面でも、ギリシャや、アイルランドが、欧州中央銀行やIMFの金融支援を受け、ポルトガル、スペインや統一通貨ユーロの今後が心配されたり・・・。

日本にとっても大切な年だったと思います。

国家とは何か、日本人とはなんなのか?ということを突きつけられた年でもありました。

普天間基地移設問題しかり、尖閣諸島事件しかり、北方領土問題しかり、北朝鮮砲撃事件しかり・・・・

海があるので、普段はなかなか意識しづらいのですが、実は日本が、複数の重要な国々と隣り合わせにあるということを痛感しました。

中国、北朝鮮、韓国、ロシヤ・・・もちろん米国もそうですね。

そうした国々との関係性の中で、日本が今後どのようなポジションを築いていくべきかを考える機会をもらったという言い方も出来ると思います。

このような国際情勢の中で、私たちが選挙で選んだ民主党の迷走ぶりも目につきました。

でも、私は、今、「日本は、なんと幸運なのだろう!」という思いも強く持っています。

尖閣諸島事件において、船長を釈放し、弱腰と批判された日本政府の対応。

しかし、その直後、劉暁波氏へのノーベル平和賞授与式において、中国が、ノルウェー政府や参加国に対して圧力をかけました。

中国は強引で非常識な国だ、という認識が世界中に広まりました。

結果として、尖閣諸島事件も、中国の横暴さを示す例となった訳です。

7月の参議院選挙、鳩山さん退陣後、菅首相への支持率は当初かなり高いものがありました。

それで自信を得たのか、選挙直前に突然消費税の話を持ち出して惨敗。

その結果、衆参ねじれ状態となりました。

菅さんが選挙前を無難にふるまっていれば、ここまでの惨敗はなかったでしょう。

今回、もしねじれが起きなければ、“外国人地方参政権付与”、“夫婦別姓”、“人権救済機関設立”も、他の法案にまぎれて、知らないうちに法案として通ってしまう可能性があったと思います。

今年、様々な出来事があったお陰で、平和ぼけにあった日本人一人一人が、考えるきっかけになったという恩恵もありました。

まあ、これも、黒船と同じように、あくまでも出来事があって初めて反応するというパターンではありましたが。

将来の日本の姿についてです。

私は、日本は、平和を世界に広めていく役割を担っていくのだと思っています。

今年、様々な出来事があったので、日本の防衛についての議論も今後色々出て来ると思います。

そのこと自体はいいことだと思っています。

他の国から、もし、侵略を受けるようなことがあれば、命をかけて自分の家族や同胞を守るという心がまえや準備は必要だと思います。

しかし、一方で、ある国が口実を作って、他の国と戦争を始めることになった場合、それに乗らない勇気も持つべきだと思います。それがたとえ同盟国からの要請であっても。

新防衛大綱の中で、必要最小限度の防衛力を保有するという今までの「基盤的防衛力」の考え方から、「動的防衛力」の考え方を取り入れるとしています。
これには注意する必要があると思います。

日本も核を持つべき、という議論も、今後出て来るかも知れません。

議論すること自体はいいと思います。

しかし、保有することには、私は絶対反対です。

“抑止力としての核”、という言い方をしますが、それはその効果以上に、そう言わざるを得ない事情があるからだと思っています。

即ち、使うことを想定出来ない程、核の被害は大きなものになるからです。

抑止力という言葉は、現実から目を背けさせ、核保有を正当化する理屈なのだと思います。

一度、ある国が核兵器を使うと、その報復として今度は別の国が使うことになります。

今、議論すべきは、どこかの国が、万一核兵器を使った時に、その被害をいかに最小限に食い止めるかということであり、そうした危険性を持つ核を根絶することだと思います。
その議論を、世界で最も正々堂々と出来るのは、唯一の被爆国であり、核を持たない日本なのです。

話しは変わりますが、スピリチュアルの世界でよく聞く、

「あなたはそのままでいい。今のあなたでパーフェクトです。」

という言葉があります。

これを、“あなたは、これからも今のままで日々を送っていればそれで十分です。”というように解釈するのではないと思います。

その考え方は、真実から遠ざけるのを好都合とする力が源となっている可能性もあると思うのです。

ダライラマさんは、ただ平和を祈る人でしょうか?
マザーテレサさんは、ただ人々の心の平安を願う人だったのでしょうか?

もちろんその言葉が必要な時もあると思います。
苦しんでいる方を救うために、使うべき時もあると思います。

しかし、その状態から脱出できたら、人は、アクションを起こすべきなのだと思います。

その人なりのやり方でいいから。

それでは、皆様、どうぞ良い年をお迎えください。

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