魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【其の後のゴーン氏事件】

2018-12-31 16:02:24 | 司法
読売新聞
2018/12/31 11:45

 日産自動車前会長のカルロス・ゴーン被告(64)(金融商品取引法違反で起訴)が日産の資金を私的流用したなどとして会社法違反(特別背任)容疑で再逮捕された事件で、東京地裁は31日、来年1月1日が期限だったゴーン被告の勾留を10日間延長する決定をした。新たな勾留期限は1月11日まで。

 

日産の巨大権力に挑んだ"七人の侍"の覚悟

https://www.msn.com/ja-jp/news/money/%e6%97%a5%e7%94%a3%e3%81%ae%e5%b7%a8%e5%a4%a7%e6%a8%a9%e5%8a%9b%e3%81%ab%e6%8c%91%e3%82%93%e3%81%a0%e4%b8%83%e4%ba%ba%e3%81%ae%e4%be%8d%e3%81%ae%e8%a6%9a%e6%82%9f/ar-BBRCRcD

川勝 宣昭
2018/12/31 11:15
 

かつて日産の「絶対的権力者」として経営を牛耳った、自動車労連会長の塩路一郎。「このままでは会社がおかしくなる」と思った当時の広報課長・川勝宣昭氏は、怪文書を使ったゲリラ戦や“七人の侍”との組織戦を繰り広げた。7年間にわたる苦闘を『日産自動車極秘ファイル2300枚』(プレジデント社)から紹介する――。

※本稿は、川勝宣昭『日産自動車極秘ファイル2300枚』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

 此の老骸は、ウシオ電機の社長牛尾治朗と懇意であり、安倍晋三の兄三菱グループ三菱商事パッケージ社長寛信の嫁札子は牛尾治朗の長女。尚、昨年三菱自動車は日産自動車からの切り離しを検討されていた。

国際的ステータスも欲した強欲さ

日産の経営を蹂躙(じゅうりん)する自動車労連会長・塩路一郎との対決姿勢を鮮明にした石原俊社長に対し、労組側が経営妨害をいっそう過激化させたのは、1981年に入ってからだった。きっかけは、その年の初め、石原社長が英国に工場を建設する計画を表明したことにあった。

日産は国内シェアではトヨタに差をつけられていた。石原社長は、トヨタが消極的だった海外進出で活路を見いだそうと、グローバル戦略で先行する戦略を立てていた。英国進出計画もその一環であり、英国の製造業復活を期していた当時のサッチャー政権も歓迎の意向を示していた。

「この計画は経営権に属する」として、石原社長は労組との事前協議を行わずに推進した。これに労組側は猛反発する。ところが、その裏で塩路一郎は会社側に「自分に英国での立地選定権を与えろ。そうしたら英国進出に賛成する。欧州の労組にも話をつけてやる」と取引を持ちかけていた。そのねらいは、現地の労組に都合のよい立地を選定することで恩を売るとともに、英国にも自分の力を及ぼすことにあった。

塩路一郎は日本の自動車メーカーの労組の連合体である自動車総連の会長職にまで上りつめており、さらに1つ上の「国際的ステータス」を手に入れるという根強い願望があった。まさに私利私欲のそのために日産を“私物化”しようとしていたのだった。

サッチャー×川又会談を仕掛ける

石原社長は当然、この裏取引をはねのけた。ここから、日産の各工場で次々とラインがストップし始める。実態は「安全対策」を隠れ蓑にした山猫スト(組合の正式決定なしに行う法的に不当な争議行為)だった。各工場とも大幅な減産を強いられた。

状況をより複雑にしたのは、川又克二会長が英国進出計画に反対を表明したことだった。川又―塩路連合が復活すると、石原政権の足下が揺らぎかねなかった。

川又会長を翻意させられないか。私は広報室で各省庁との窓口を担当する渉外課長の立場を使い、日産の英国進出を後押ししていた外務省に働きかけ、来日予定のサッチャー首相と川又会長の会談のセッティングを工作し、1982年秋、実現にこぎ着けた。

これは、会談後にサッチャー首相が川又会長に「進出依頼」の書簡を送り続けるという思わぬ成果に結びつき、結果、川又会長は次第に籠絡(ろうらく)され、計画賛成へと傾いていった。

打倒塩路“ゲリラ戦”が本格化

想定外の進展に危機感を抱いた塩路一郎は、翌1983年夏、記者会見を開いて「英国進出計画反対」を表明し、ストライキ決行をほのめかすという前例のない行動に出た。さらには、旧知の中曽根康弘首相(当時)にも会い、「(計画推進に)政治的圧力をかけないように」とクギを刺すなど、各界への影響力を駆使して画策に注力し始めた。

英国進出計画は、日産が経営の独自性をとり戻せるかどうかの試金石であり、もし、失敗に終わり、石原社長が退陣を余儀なくされたら、日産は未来永劫、正常な会社の姿をとり戻すことはできない。

石原政権に最大の危機が到来したと読んだ私は同志とともに、打倒塩路体制のゲリラ戦を本格化させる決断をした。

「怪文書作戦」で社員に実態を明かす

ゲリラ戦の第1弾は「怪文書作戦」だった。塩路一郎が自らの権力欲のために、経営を蹂躙している実態を明らかにし、立ち上がることを促す檄文(げきぶん)を、「日産係長会・組長会有志」の名前で社員1人ひとりに秘密裏に配布する。

本社および全国7カ所の工場で働く社員の寮・社宅のうち、東京近郊については、われわれが配布当日の未明に手分けして出かけ、集合郵便受けに1戸ずつ直接投函する。

遠方については郵送することにしたが、投函する場所も、労組の裏部隊によって消印から投函者が探られないよう、ゲリラ部隊のメンバーの親戚宅宛てに文書をまとめて小包で送り、投函を依頼するなどして陽動作戦をとった。宛名書きも筆跡がわからないよう、メンバーの奥さんなどにお願いした。

塩路一郎の異例の記者会見の翌々月に配布された怪文書は社内に大反響を巻き起こした。労組の目が光る職場ではおおっぴらには話題にできないが、職場を離れると、そこかしこで社員たちは檄文について語り合った。

「ヨットの女」を探して銀座のクラブへ

怪文書作戦を進める一方で、私は第2弾として、単独である作戦を遂行していた。塩路一郎の最大の弱点である「女性スキャンダル」をあばく。趣味のヨットで愛人のホステスと一緒にクルージングに出る現場を撮影し、写真週刊誌「フォーカス(FOCUS)」で発表する計画だった。

私は毎週末、佐島マリーナで自ら張り込み、ついに現場を押さえるとフォーカス編集部の協力を得て撮影に成功した。

ただ、塩路本人からは「ヨットの女性」を「娘の友だち」といい逃れされる可能性があった。ならば、愛人のホステスを探し出すしかない。私は毎日夕方、退社後、銀座の街角に立って探し続けた。

これはと思うクラブに次々と客を装って入り、店内を探る。銀座のホステスは何千人もいる。来る日も来る日も探索を続けながらも、どうしても見つからない。諦めかけていたとき、まったくの偶然から、知人に誘われて入ったあるクラブで「ヨットの女性」と遭遇した。それは奇跡に近かった。

すぐにフォーカス編集部に連絡。記者が問いつめ、塩路一郎の愛人であることを認めさせた。

翌1984年1月、フォーカスの女性スキャンダル報道は一大センセーションを巻き起こした。形勢不利とみた塩路側も英国進出問題について、いったん矛を収め、無条件で受け入れた。

“七人の侍”で挑んだ組織戦

しかし、一撃を与えることはできたが、塩路一郎を失脚に追い込むまではできなかった。

これからは、塩路労組に会社が組織として真正面から挑む戦いが必要になる。そう判断した私は石原社長に直談判し、組織戦の開始の承諾を得た。そして、「影の司令部隊」として、人事部門および生産部門に精通した課長たちを選抜し、プロ集団を組織した。人数は7人。それは映画『七人の侍』を思わせた。

戦略は2つあった。1つには、生産現場にいる労組寄りの管理職を更迭しながら、労組との事前協議なしで人事や業務命令を遂行できる体制を整え、人事権や管理権を奪還していく。その一方で同時に、労組の内部に対して塩路体制の専横の不当性を訴え、反塩路勢力を拡大し、内側から崩壊させる。

正面と内部から、2つの戦略は時間をかけながらも、少しずつ成果を上げていき、やがて潮目が変わり始める。その間、われわれ影の司令部隊は、昼は普通のサラリーマンとして仕事をし、夜は労組の裏部隊に察知されないようアジトを転々と変えながら、作戦の立案や修正にあてるという二重生活を続けた。土日は九州など遠方の工場でのオルグ(組織拡大に向けた勧誘行動)に費やされた。

組織戦を開始してから2年目の1986年2月、ついに、現場の中核である組長会および係長会から、「退任要求」が提起されるにいたり、塩路一郎は辞任を表明した。

追い打ちをかけるように、独自に女性スキャンダルを追っていた写真週刊誌「フライデー(FRIDAY)」が別の愛人宅を本人が訪ねる現場を撮影して報道。塩路一郎はすべての役職を辞し、ここに塩路体制は崩壊した。

そしてゴーンがやってきた

こうして日産の異常な労使関係が正常化され、“整地”された。ただ、その後の経営者たちはその上に堅牢な経営体を築くことができず、ついにゴーンが再建のため、“新しい主人”としてやってきた。

「どれだけの犠牲が必要か、痛いほどわかっている。わたしはルノーのためではなく、日産のために来た」

着任したときのゴーンの言葉だ。この言葉どおり、3工場の閉鎖、遊休不動産の売却、2万人以上のリストラ、系列部品メーカーの半減……等々の「日産リバイバル・プラン」が矢継ぎ早に打ち出された。

このリバイバル・プランは、もし、塩路一郎が健在であったならば、労組の猛反発を招き、ストライキに発展してもおかしくないほど苛烈なものだった。しかし、労組はもう牙をむかなかった。

もし、われわれのあの戦いがなかったら、異常な労使関係が温存されたまま、労組は経営への強力なカウンターパートとして立ちはだかり、ゴーン革命なるものは起こらなかったかもしれない。

ところが、19年におよぶ統治のあいだに、「日産のために来た」はずのゴーンが今度は新たな絶対的権力者となり、自ら再建した会社から収奪を始めた。その不正が発覚して日産を去ることになり、同じ歴史が繰り返された。

誰もが心に一燈を灯すことができる

今回の報酬過少記載事件をめぐっては、ゴーン対日本側経営陣の権力闘争説も取り沙汰される。しかし、報道によれば、事件発覚の最初のきっかけは、日本人社員たちからの複数の内部告発だったとされる。その内部告発は、ゴーンによる会社の「私物化」を疑う「うわさ」が流れるなか、日産の経営が壟断されていることへの義憤からだったのではないか。私はそう信じている。

われわれの戦いは30年前の話だが、それをこの度、『日産極秘ファイル2300枚』と題し、書籍として出版しようと思い立ったのは、サラリーマンとしての「生き方」を問うためだった。

所属する企業や組織で、道義に反することが横行していたら、どんな行動をとるべきか。それはまさに「生き方」の問題だ。間違っていることは正したいと思うならば、私のように無名の一課長であっても、立ち上がり、戦い、最後は勝ち抜くことができる。そのことをメッセージとして発信したかったのだ。

その出版がゴーン逮捕のタイミングと重なったことに、何か運命めいたものさえ感じた。7年間におよぶ戦いのさなか、私は幕末に維新の志士に思想的な影響を与えた儒学者、佐藤一斎の次の言葉を常に胸に刻んでいた。

一燈を提げて暗夜を行く

暗夜を憂うること勿(なか)れ

只だ一燈を頼め

自分が決心した道を進むとき、前が見えないことに不安を感じる必要はない。強い思い、それだけを胸に抱いて進む。それが自分にとっての大事な一燈となる。

誰もが心に一燈を灯すことができる。それは確信をもっていえる。(文中敬称略)

川勝宣昭(かわかつ・のぶあき)

経営コンサルタント

日産自動車にて、生産、広報、全社経営企画、更には技術開発企画から海外営業、現地法人経営者という幅広いキャリアを積んだ後、急成長企業の日本電産にスカウト移籍。同社取締役(M&A担当)を経て、カリスマ経営者・永守重信氏の直接指導のもと、日本電産グループ会社の再建に従事。「スピードと徹底」経営の実践導入で破綻寸前企業の1年以内の急速浮上(売上倍増)と黒字化を達成。著書にベストセラーとなった『日本電産永守重信社長からのファクス42枚』(小社刊)。『日本電産流V字回復経営の教科書』(東洋経済新報社)がある。(写真=iStock.com)

 

日産、西川社長退任が濃厚か…ゴーンと刺し違え、「隠れゴーン派」志賀元COO復帰説も

https://www.msn.com/ja-jp/news/money/%e6%97%a5%e7%94%a3%e3%80%81%e8%a5%bf%e5%b7%9d%e7%a4%be%e9%95%b7%e9%80%80%e4%bb%bb%e3%81%8c%e6%bf%83%e5%8e%9a%e3%81%8b%e2%80%a6%e3%82%b4%e3%83%bc%e3%83%b3%e3%81%a8%e5%88%ba%e3%81%97%e9%81%95%e3%81%88%e3%80%81%e3%80%8c%e9%9a%a0%e3%82%8c%e3%82%b4%e3%83%bc%e3%83%b3%e6%b4%be%e3%80%8d%e5%bf%97%e8%b3%80%e5%85%83coo%e5%be%a9%e5%b8%b0%e8%aa%ac%e3%82%82/ar-BBRDfMj

株式会社サイゾー
2018/12/31 12:5

 日産自動車は、前会長のカルロス・ゴーン被告の後任選びの戦いが2019年6月の定時株主総会で繰り広げられることになる見通しだ。

 日産、仏ルノー両社の思惑が絡み合って「ポスト・ゴーン」は不透明な状況となっている。ルノーは日産主導での決定は許さないだろう。

 ロイター通信は12月13日、ルノーの筆頭株主である仏政府が、ゴーン被告の後継者選定に入ったと報じた。ルノーに在籍したことがあり、現在、トヨタ自動車副社長のディディエ・ルロワ氏が有力となっていると報じた。

 ルロワ氏は仏ナンシー工科大学卒業後、1982年にルノーに入社。工場のエンジニアとして成果を出し、当時ルノーの幹部だったゴーン被告の目に留まり、ゴーン被告の部下として働いた

 ルロワ氏は16年10月、慶應義塾大学で行った講演で、トヨタ入りの経緯を語っている。

© Business Journal 提供

「1998年にトヨタからヘッドハントの誘いを受ける。日産とルノーが提携する1年前だ。最初は断ったが、その後、トヨタの製造部門のトップからフランス新工場の草案を見せてもらった。カルロス・ゴーン氏とトヨタ、どちらを取るか。私はトヨタを選んだ。周囲は猛反対だった」

 トヨタ入社後は念願のフランス工場建設に携り、赤字続きの欧州事業の立て直しに奔走。ゴーン流のコストカットは行わないと決め、土台をつくることに専念した。実績が認められ、15年、トヨタ初の外国人副社長に就任した。

「ルロワ氏は、今でも古巣のルノーから信頼されている。名前が挙がっているのは、そのためだ」(在フランスの自動車アナリスト)

 国内の自動車メーカーのトップは「仏政府は、日本の自動車業界に通じているルロワ氏をルノーと日産の会長に据えて、ルノー主導による日産、三菱自動車の三社連合(アライアンス)の維持を図るのが狙いだ」と分析する。

 12月17日付仏フィガロはタイヤ大手、ミシュランのジャンドミニク・セナール最高経営者(CEO)がルノー会長の有力候補となったと報じた。セナール氏がルノー会長に就く場合は、現在CEO代理のティエリー・ボロレ氏が正式なCEOになり、ルノーの経営にあたるとの見方を伝えた。

 そのほか、PSA(旧プジョーシトロエン・グループ)のカルロス・タバレスCEOの名前も挙がっている。タバレス氏はルノーに在籍していた当時はCOO(最高執行責任者)だった。

「ゴーンに『トップの椅子を譲れ』と直談判してゴーンから切られ、ルノーのライバルのPSAのトップに移籍した経緯がある。タバレス氏がルノーの会長になれば、故郷に錦を飾ることになる」(ルノー関係者)

 一方、ルノーの傘の下から抜け出すことを悲願とする日産は、会長は日産から出したいとの思惑がある。だが、日産に43.4%出資しているルノーが会長・社長候補を出せば、日産に勝ち目はない。

 日産側は西川廣人社長兼CEOが会長に就き、後任の社長には、菅義偉官房長官が後ろ盾になっている川口均・専務執行役員を昇格させるシナリオを描く。

 しかし、仏政府とルノーが西川・川口案を認める可能性は極めてゼロに近い。西川氏はゴーン追放のクーデターを決行した張本人であり、川口氏はゴーン被告を東京地検特捜部(森本宏特捜部長)に告発した極秘チームのメンバーの一人だからだ。ルノーとゴーン被告にここまで弓を引いた以上、西川氏は長く留まれないとみられる。19年6月の株主総会で社長交代となる可能性が高い。

 仮に後任社長は日本人だとしても、ルノー側がOKを出す人物に限られる。「ルノーと一緒に仕事をしたことがある購買部門の人の可能性はある」(ルノー関係者)という。“隠れゴーン派”といわれる、元ナンバー2の最高執行責任者(COO)だった志賀俊之取締役の復帰の芽が出てきたという指摘も一部にはあるが、今のところ本線ではない。

 ルノーは日産に対し、臨時株主総会の早期開催を要求している。

●日産以外の“お引き取り願いたい”トップ

 日産以外に目を転じると、“長老系”の経営者は皆、意気軒昂だ。

 スズキの鈴木修会長は、19年1月末に89歳の誕生日を迎える。

「死ぬまで現役でやるんじゃないか。息子の鈴木俊宏社長は、人がいいだけで頼りないという評価だ。とても任せられないだろう」(外資系証券会社の自動車担当アナリスト)

 年齢順に、長くトップを続けている経営者をリストアップしてみる。

 信越化学工業の金川千尋会長は92歳。住友不動産の高島準司会長は88歳。大日本印刷の北島義俊会長は85歳。

 安倍晋三首相が財界人とゴルフをする時に人選を任されているキヤノンの御手洗冨士夫会長は83歳、富士フイルムホールディングス(HD)の古森重隆会長は79歳、JR東海の葛西敬之名誉会長は78歳。老いてますます盛んな人たちばかりだ。富士フイルムHDは事務機大手、米ゼロックスの買収が事実上、頓挫した。事務機器市場はペーパーレス化の影響で長期的に縮小が見込まれる。

 リストラの連続で往年の輝きを失った日本電気(NEC)の遠藤信博会長も65歳だが、経済同友会の副代表幹事に就任することが決まった。検査データの改竄問題の責任を取っていない三菱マテリアルの竹内章会長(事件当時は社長)は、いつまで居座るのかと注目されている。

 検査データ問題で責任を取っていない代表選手は竹内氏と、日産のゴーン被告、西川氏の2人である。

 ある財界幹部は、こう言う。

「会社を手放す(会長、社長を辞める)タイミングとしては、70歳前半がひとつの節目。それくらいの年齢になると、妻とゆっくり余生を楽しむか、という気になる。しかし、そのタイミングを逸して80歳を過ぎると、もう辞める元気がなくなる。辞めるにもエネルギーが必要なので、そのまま続けることになりがちだ」

 日本では、退き際の鮮やかさが重んじられる。桜の花のように、ひらひらと散り、後に厭味を残さない。それが「退き際の美学」である。実際には、退き際を間違え晩節を汚す人がいかに多いかということだ。

 晩節を汚すどころか、若き日の高名をまったく無にしてしまうことすら往々にある。
(文=編集部)

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