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お道と臨床と~心づくりの処方箋~

天理教と臨床心理学の視点を含めて,まおという人間が考える日々の通り方や考え方について綴っています.

誕生日

2006年07月28日 | お道
ある人が引き出しの守護によりこの世界に誕生したとき,どれだけの人が喜びの声をあげたでしょうか.人間のみならず親神様もお喜びになられたことと思います.それは私も同様です.私もその日からちょうど27年の歳月が流れました.

私はたくさんの人に見守られ,神様のご守護を受けて今日まで生きてきました.今でも祝ってもらえると嬉しいものですが,誕生日とは本質的には感謝する日です.自分を産み育ててくれた両親に,見守ってくれたたくさんの人に,ここまでご守護くださった神様に「ありがとう」と伝える日であると思います.特に両親,祖父母なくしては私という人間は存在しません.それは絶対的な真理です.親あっての自分であることを自覚して孝行につとめたいものです.

誕生日,それは自分という人間を産んでくれた両親に感謝し,今なお生かされていることを神様に感謝する日です.

こどもおぢばがえり

2006年07月27日 | お道
昨日から天理は「こどもおぢばがえり」で賑わっているでしょうね.
毎年7月26日の月次祭終了後から8月4日まで行われ,多くの子どもたちが世界中からおぢばに集います.今年はおやさま120年祭の年なので1日延長されて8月5日まで行われるようです.

私は帰参予定はありませんが,多くの喜びがおぢばで生まれることでしょう.
せめて私も子どもと接することがあれば,喜ばせてあげて,その喜びをおぢばに届けたいものです.
(子どもと接する予定もありませんが)

うちの教会も私たち兄弟が子どもの頃は毎年こどもおぢばがえりに帰参していました.私も学校の友人を誘って連れていったことも何度かありました.とても楽しかったのを覚えています.自教会でバスを出していったこともありました.当時は何とも思いませんでしたが,今思うと父は大変だったなぁと思います.子どもを十数人引き連れて,しかも人様の子どもまで数日間預かるわけですから,気苦労も多かったろうと思います.子どもだった私たちはそんな父や引率者の苦労を考えることもなく無邪気に遊び続けるだけでしたが,それを見守ってくれていた彼らの思いがあってこそ,楽しく過ごせていたのだなぁと思います.引率で帰参される方,応援しています.

今日は子どもの喜びを自分のことのように喜び,共に笑ってくれた父の姿を思い出しました.自分もそんな親になりたいものです.

右膝が破れたジーンズの意味

2006年06月19日 | お道
昨晩,ふと悟ったことがありました.

昨日はジーンズを買いました.ここ半年くらいで3本右ひざが破けてしまったのです.
破れると何かと制約が増えますので,破れていないものを1本と思い,買ったのです.たまたまだったので衝動買いに近いですが,ファッションにあまり関心がないので一番安い4000円代の品にしました.よくはいているジーンズのサイズは31なのですが,今日試着した31はパンパンで苦しすぎたので,33と34を試着して33にしました.

夜,改めて試着してみると,なんだか緩いのでおかしいな?と思いつつサイズを確認すると”34”と書いてありました.遊びに来ていたSに「何やってんの!」と言われましたが「神様が長くはけるようにしてくれたのかもよ」というので「そうだな!」と納得しましたが,それはまだまだ太るということだろうか?と冷や汗ものでもありました.そして「いつも右ひざだけが破れるんだよー」とSに言ったところで,ひらめいたのです.

「そうか,そういうことだったのか!いつも右ひざばかり破れるのは何でなんだろうと思っていたんだけど,実は俺の代わりにズボンが破れていたんだよ!じいちゃんも父さんも交通事故で右ひざを骨折してる.俺ももしかしたらそういう事故に遭ってたかもしれないのを神様が守ってくれてるんじゃないか!?俺のひざが壊れる代わりにズボンが破れてたんだ!そう思うとズボン破れたくらいなんてことないなぁ,ありがたいなぁ.」

すべての謎が解けたようで私は嬉しくなりました.そして,どんなところに神様のご守護があるかわからないものだなぁと思いました.日頃生活していると気付かないことが多いですが,意外と色々なところで神様は働いてくださっています.

そんなの偶然だろう,こじつけだ,という反証もあるかと思います.ですが,それは信仰生活において問題にはならないのです.そういう洞察に至ったことで,私はまた1つ神様に感謝する機会を得て,事象を極めてポジティブに捉えることに成功しているのです.それは,人生においてマイナスになることではありません.

ちなみに,これを「ひざが3本も破けた!次は私の膝が壊れるに違いない!」と捉えてしまうと,将来への否定的態度を構成する破局的認知として精神的健康にあまりよい影響を及ぼしませんが.

気付かずにいる感謝できること,探してみませんか?皆さんの周りにはどんなよかったことが転がっているでしょうか?

信仰への疑問に対して

2006年06月13日 | お道
某サイトで「58歳という若さで父を亡くして,父を助けてくれなかった神様が以前より信じられなくなって葛藤している」Aさんという方がいました.それを受けて以下のようなコメントをしました.


私も3年前に教会長であった父が出直しました.49歳でした.心筋梗塞による突然死で私は死に目にも会えず,哀しみは大きなものでした.何故出直したのだろうという答えはすぐには見つかりませんでした.ですが,安らかな父の顔,そして度重なる病や怪我の中ここまで生かさせていただいたこと,最期を父の望み通り苦しまずに出直せたこと,探せば探しただけありがたいご守護が出直しの中にあることがわかりました.

死―出直しは誰にとっても究極とも呼べるほど哀しい出来事です.その哀しみの中,人は喜ぶことを忘れてしまいがちですが,きっと神様のご守護,喜べることはあるのではないかと思います.ご利益信仰,病救けの宗教ではなく,お道は心救けの宗教だと思います.お父さんが出直されたことは哀しいことではありますが,哀しみは哀しみとして味わいつつ,それでもなお残された家族が生かされていることに感謝すること,そしてお父さんの生き方に敬意を払い自分の人生をみつめていくこと,お父さんの残したものを支えていくこと,受け継いでいくこと,それらの実行可能性を与えてくれた―すなわち私という人間を授けてくれたお父さんにそして神様に感謝していくことはAさんにはできるのです.どんな中でも喜べる道,感謝して通れる道はあるのです.

親神様は,それぞれの人にとってよい人生を授けてくださっています.私の家族にとっては3年前に父が出直したのは,うちの家族なら父がいなくても家族や信者さんが助け合ってやっていけるであろうと思われて成ったのでしょうし,Aさんのご家族の場合もお父さんの病を通してそれぞれが成長し,人を救けるこころ,人のために祈り救けたいと思う心を学んだことと思います.そしてここまですれば後はそれぞれが信仰をつかんでいけるだろうという思惑あってのことだと思います.合理化と思えるかもしれませんが(心理学的にはそうです.ですが適応的です),陽気ぐらしのための明るい通り方,感謝して喜ぶ通り方を与えてくれるのがお道です.

親神様は「おや」ですから,我々を困らせるためにやっているのではなく,子どもが成長する機会を与えてくれているのだと思います.Aさんのお父さんがAさんをあたたかい心で育ててくれたように,神様もあたたかい心でAさんを育ててくれています.そしてお父さんも今御霊となり,Aさんをこれまでと変わらずあたたかく見守ってくれていると思いますので,十分に悩んだ中で自分なりの答え,生き方を探していかれたらいいかと思います.悩むのが人間の性ですから葛藤の今を大事にして色々な考えや生き方に触れてくださいな.


読み返してみましたが,結局答えにはなっていないですね.信仰とは究極的には自己と神との対話です.自分自身で神様を感じていくしかないんですよね.そして神様がパーソナリティに内在化されてくるとその人の行動を動機付けるものになるわけです.要するに信仰心に基づいた,神様の願い・思惑に沿った行動,大きくは生き方ができるのだと思います.パーソナリティを変容させるのは難しいと心理学では言われています.したがって,神を心から信じるというのも,なかなか難しいのかもしれませんね.だから,前に述べたように強い心が必要なのだと思います.

車購入のエピソード~教会の慎ましさについて

2006年05月29日 | お道
先日給料日だったのですが,驚くべきことに先月1度遅刻したにもかかわらず皆勤手当3000円がカットされていませんでした.1分遅刻だっただけなので大目にみてもらえたのでしょうか?それとも私自身が就業規則を勘違いしているのでしょうか?ちょっと確認してみますので,お待ちください.
皆勤手当(病院の定める休日=『4週8休制』以外皆勤した者に支給する)
と書いていました.1分遅刻はしたけれどもきちんと出勤したということで皆勤だったのでしょうか.しかし,やはり遅刻・早退3回で欠勤1日扱いというのは事実のようです.

まぁ結果的に,給与には影響しなかったものの,連続無遅刻が途絶えてしまったことは事実であり,その点に関しては改めなくてはいけません.余裕をもって出勤するよう心がけています.ちなみに今日は23分も早く着いてしまいました.車通勤は道路の混み具合に左右されるから困ります.

そういえば,車についての報告をしていなかったですね.

2月頃より,車かバイクで通勤をしています.天気がよければバイクですが,悪天候のときは車で通勤しています.悪天候でも家で車が必要なときはバイク通勤ですが・・・.悪天候のバイク通勤は交通事故のリスクも跳ね上がりますので,車で通うようにしています.こうした選択ができること,まずはありがたく思います.バイクですとだいたい35~40分と通勤時間にムラはないのですが,車ですと45分~65分と時間にムラがあります.したがって,遅刻のリスクがあるのです.

さて,車購入に関しても思うところがあったので,それを書いてみたいと思います.
これまで乗っていたスターレットが2月で廃車になったので,新しい車を仕入れました.どこからか車を授かるあてがあればよかったのですが,そのようなあてもなかったので,購入という選択をとることになりました.購入に際して頭にはいくつかのことがありました.

分相応に,つまり教会にふさわしい車を,つまり,できるだけ安いものを,それも購入時に安いものではなく,たとえば10年というスパンで考えた時に車両本体,ガソリン代,税金,車検,修理と含めてもっとも安いものをということです.小さな教会ですから,あまりもったいないことはできません.しかし,私の”欲”として,「冷房」と「CDオーディオ」「集中ドアロック」であること,この3つは満たしたいと思いました.スターレットは3つとも満たしていませんでしたので,不足を言っては申し訳ないけれどもこのくらいの贅沢はしてもいいだろうと兄弟とも話していました.もう1つ気にかかっていたのは,新車か中古車かということです.色々な人に聞いてみた結果,長期スパンで考えた時に,新車を買う方が中古車を修理したり乗り継いだりするよりは安いだろうということになったのですが,教会は信者さんの真心のお供えの一部を支えとして生活しているという一面もあると思います.そのような一面がある以上,贅沢は申し訳ないというのが私にはありました.うちの30年程の教会史をみても「新車」に乗った歴史はありません.いつも中古車を安くみつけたり,父が実弟(叔父)からお下がりを売ってもらったりしてやってきました.新車を買うなど夢の夢でありましたし,私はそれが必ずしも教会に必要なこととも思っていませんでした.それに,教会は人救けの拠点になる場所ですから,慎ましくあるべきというのが私にはあります.

ここまで書いてすごく言いたいことが出てきたのですが,今日の話とは大きくズレるので,これはまた後日,別のタイトルをもって書きたいと思います.我々伝道者にとっては本質的なことですが,目を背けてしまっているかもしれないことです.

結局,トータル的に安いと判断された新車を買うことにしました.幸いにして,私の兄弟が群馬の富士重工に勤めておりまして,乗り出し90万を下回って購入できました.PLEOという軽自動車ですが,うちの教会にはもったいなくありがたいものだと思っています.

誤解される方がいるといけないので一応書いておきますが,車は何かまとまった金が必要になったとき(冠婚葬祭や入院など)のために私がコツコツ貯めてきたお金で購入しました.もちろん,私が社会に出てからの2年間,少しずつでも貯める余裕があったのは信者さんの真心あってのことだということは認識しているつもりです.ですから,なおさらもったいないことはできないと思っていますし,慎ましくありたいと思っています.そしてその心をいつも忘れないことが大事なのではないかと思っています.

人は豊かになると過去の苦労を忘れます.そうした人がいることを私は知っていますし,それは私も例外ではないと思っています.私が小さい頃の食生活を含めた生活水準は今よりもはるかに低かったことを記憶していますが,現在の生活の中では,そうした道中があったことを忘れてしまうことが多々あります.日々結構にご守護いただく中で親神様は先を少しずつですがよくしてくださっていることと思います.しかし,その中に過去の苦労があったこと,そしてその苦労の道中決して忘れなかった慎ましさを,現在の生活の中に埋没させてしまってはいないでしょうか?私は,ふと思い返すことはありますが忘れていることがあります.そうならないように気をつけたいと思っています.

現在の豊かさの中で埋もれてはいませんか?―自分あるいは先人たちの苦労や慎ましさを.そしてそのことを忘れなかった自分を.

感謝の気持ち

2006年04月28日 | お道
今,会長である母や信者さんがおたすけに通っている人がいます.毎月参拝に来る信者さんの旦那さんなのですが,脳梗塞で倒れ,入院中です.本人はもちろん信仰はしておりません.ですが,おさづけでご守護をみせていただき,動かなかった手が動くようになり,見えなかった目が見えるようになり,本人は大喜びです.医者も不思議なものだと言っていたそうです.これを「予後が良好なケースだった」と片付けてしまえばそれまでなのですが,私はそうは思いません.本当にこの方にたすかってもらいたいという誠真実と本人が本当にたすかりたいという思い,そして周りの篤い信心や心遣いによって,本人が少しずつ心を入れかえていき,それによって親神様がお働きくださっているのだと思います.願い通りではなく,心通りのご守護であると教えられています.もちろん本人や周囲の回復を願う心も大事だと思いますが本人の心の入れ替えによってきっと鮮やかなご守護をいただけるかと思います.本人はまだ信心はしておりませんが,今「おさづけ」に来てくれるのを楽しみに待っているようです.何か人智を超えたものの働き,自分が生かされているということを感じつつあるのかもしれません.

自分の体なのに自分の思うようにならない.これは病気や怪我などしたときに誰でも感じることだとは思いますが,このことが我々の身体が,完全に自律したものでなく,何らかの働きによって生かされているということの証だと思います.人はうまくいっているときは,なかなかそれを感じることができません.自由を失って初めて感じることができるのかもしれません.自分の力ではどうしようもなくなったとき,人は超越的な対象に対して祈ります.神頼みという言葉があるように,特定の信仰対象をもたずとも人は何者かに祈るのです.そして,乗り越えたときに一時であれ感謝すると思います.これは宗教的な心を人間が普遍的にもっていることの証です.当たり前のように日頃生活しているかもしれませんが,自分だけの力だけで生きているのではなく,超越的存在を含め色々なものに支えられて生きているのです.今日という日を生きていること,生かされていることに感謝する気持ちを忘れないようにしたいものです.

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雪とほこり

2006年01月23日 | お道
20日の夜中からでしょうか.21日土曜の朝起きたら,ここ茨城でも雪が降っていました.起床時間の関係上,電車は間に合わなかったので,さすがにバイクはスリップするだろうと思い,ポンコツ車で行きました.案の定道はスリップしました.職場に着くまでに3~4回は滑ったでしょう.フェンスに激突しかけたのもありましたが,なんとか無事着きました.帰りになっても雪は降り続けていたので,車も危ないなと思って電車で帰りました.

子どもの頃は嬉しかった雪も今じゃまったく喜べません.しかし,積もる雪を見て,人間のほこりを連想しました.雪も積もれば交通機関に影響が出たり,転倒して怪我をしたりといったことが起こりうります.それを回避するために人は雪かきをして道を開き,危なくないように雪を払うのです.

人間のほこりもこの雪と同様なのかもしれません.ほこりも積もると人生という道に影響が出るかもしれませんし,節目で躓いて転んでしまうかもしれません.人が雪かきをして道を開いていくように,心のほこりも積もらないように,ひのきしんを通して日々払っていく必要があるのだなぁと改めて思いました.

また雪は見た目は綺麗ですが,実は人々に大きな被害を与えています.自分では気付いていないところでほこりは積んでいるかもしれないということでもあると思います.雪のような純粋な行いをしたいとは思いますが,負の側面があるかもしれないということも頭の片隅において行動したいと思いました.

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上司の出直し

2005年12月03日 | お道
昨日職場の上司が出直されました.
まだ50代前半だったと思うのですが,死因は肝臓ガンだったと思います.
以前にも手術や治療のために仕事を休んでいたことがありました.今回も3週間ほど仕事を休んでいました.入院しているのかどうかもわからなかったのですが,ある日出勤して聞いた話が,「亡くなられたそうです」という言葉だったので,思わず「えっ!?」と驚きの声をあげてしまいました.残念に思いました.直接の上司ではありませんがすごくいい方でしたし,心理にも理解のある方でデイケアで私にいろいろ自由にやらせてくれました.バイクの好きな方で,今度ツーリングでも行きましょうという話が出たこともありました.昔のツーリングのアルバムや自分の修理したバイクを得意気に見せてくれたこともありました.

おたすけができなかったこと,とても悔やみました.こんなブログを掲げていますが,自分は職場の上司に声をかけることさえできなかったのです.言い出す機会がなかったというのは言い訳にしかすぎません.いいタイミングがないなーと思いつつ,その機会を永遠に失ってしまいました.おさづけというすばらしい理を授かっているのに,それを人のために使えなかったことをとても情けなく思いました.

苦しんでいる人がいたら,一言,「私は天理教を信仰しているのですが,よかったら神様にお願いさせてもらえませんか」と言える人間でありたいと心から思いました.

先ほど通夜に参列させていただきましたがとてもいい顔をしていました.苦しまずに息を引き取ってくださった親神様のご守護に感謝しました...

祖母の誕生日

2005年02月01日 | お道
どうも毎日更新を掲げておりながら全然やっておりません.申し訳ないです.
今日は祖母の83歳の誕生日でした.仕事帰りに何かおいしいものを買って帰ろうと思い,何かほしいものはないか聞くと,「おいなりさん」と答えました.職場の近くに小僧寿司があったので稲荷寿司を買って帰りました.喜んで食べたようです.
もう相当足腰が弱く行動は家屋内の移動のみですが,それでも日々結構に過ごさせていただいております.認知症(以前は痴呆症と呼ばれていたものですね)にもならずに,ありがたいことです.

歳をとると,人格は誇張されるといいます.つまり優しく温和な人はより温和に,疑い深き人はより猜疑心に満ちた人に,怒りっぽい人はより短気に…という具合にです.
これまでの人生の通り方を神様が清算くださるのが老後の過ごし方でしょうから,年老いた方と接するとこれまでその人がいかに生きたかというのがわかるのではないでしょうか.「まいたる種は皆はへる」「苦労は先の楽しみ」といいます.よい種を蒔けばよいことがまわってくるものです.若いうちに苦労してでもよい種を蒔いておけば先は楽しい道が待っていると思います.
お年寄りと話すのは退屈だと思う方,千差万別である人の生き方を知れると思うとお年寄りに対する見方もかわってくるのではないでしょうか.そして敬うべき点があるのならそれは大いに賞賛してあげるといいでしょう.きっとその方の自尊心に関わる部分,あるいは知らずにいたとしたら,これを機に自尊心が向上し,生活にも張りが出るかもしれません.

私も祖父母と接する時間を増やすよう心がけます.
ちなみに,明日は祖父の83歳の誕生日です.