てんちゃんのビックリ箱

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名古屋市美術館「挑む浮世絵 国芳から芳年へ」展示会 感想

2019-03-25 22:55:54 | 美術館・博物館 等
展示会名:挑む浮世絵 国芳から芳年へ
開催場所:名古屋市博物館
期間:2019.02.23~04.07
訪問日:03.17
惹句:快怪
感奇
(縦に見てください。写真参照) 

内容
・第1章 ヒーローに挑む
・第2章 怪奇に挑む
・第3章 人物に挑む
・第4章 話題に挑む
・第5章 芳ファミリー


 この展覧会は、幕末の浮世絵作家歌川国芳とその弟子たちを活動に関わるものである。国芳、そして代表的な弟子である芳年の生存期間は以下である。
   国芳:1798~1861
   芳年:1839~1892

 それに対して、下記の幕末から明治初期の主要事項を重ねると、とても興味深い。
  1830~43年 天保の改革
  1853年 ペリー来航
  1858年  安政の大獄
  1868年 王政復古
  1869年 戊辰戦争
  1877年 西南戦争
  1894-1895年 日清戦争

 国芳が武者絵で人気を得て活躍を始めたのは、1827年である。その後すぐに、享保のK改革で文化的抑制が行われたことに対抗し、幕末への世情の混乱の中で亡くなった。その後の芳年は幕末混乱期から、日清戦争直前までの大きく世の中が変わる時代を浮世絵絵師として生き抜いている。社会の混乱の中でも、彼等は生き抜いていること、また彼等へのニーズは維持されていることは、日本の庶民の逞しさを感じさせる。

 なお浮世絵の定義はWikiによれば以下の通り。
浮世絵(うきよえ)は、江戸時代に成立した絵画のジャンルである。本来、「浮世」という言葉には「現代風」「当世」「好色」という意味もあり、当代の風俗を描く風俗画である。大和絵の流れを汲み、総合的絵画様式としての文化的背景を保つ一方で、人々の日常の生活や風物などを多く描いている。
すなわちその時代の世情にあったものを描くということで、庶民が欲しいものを絵師が創作していくことになるが、国芳一派は内容に「・・・に挑む」が並んでいるように、従来にない新機軸を打ち立てて、人気を集めようとしていた。その伝達手段は版画であり、それを欲しがったのは庶民だった。この庶民というのが、日本がこの時期に世界でも文化度が異常に高かったということを意味する。(西欧でもこの時代にリトグラフが広まっているが、購入者は庶民ではなかった。)



 この展覧会は、私にとってとても面白かった。その他の人にとってもそのようで、展示品が小さなこともあるが、それぞれの場所で人の流れが非常にゆっくりだった。
以下に各章ごとに特に記載したい事項について述べる。なおこの展示会も写真撮影が自由であったので、かなり撮影した。しかしさすが主催者、明るさが足りなかったり光の当て方で変な濃淡がついたり、そしていい作品は壁に飾らず台に置く等で、あまりいい写真を撮ることが出来なかった。でも一応私が撮った写真で紹介する。

第1章 ヒーローに挑む
 国芳は、役者絵で有名な歌川豊国の弟子で、最初は役者絵でデビューしたが、師および兄弟弟子を陰で不遇だった。それが武者を書き始めることで、一気に名を馳せた。
 最初は、水滸伝の名場面の絵。豪快で陽気な豪傑が、いきいきと豪傑が描かれている。


その後は、物語や芝居で武者がでてくる名場面をどんどん描いていった。下図は曽我兄弟の敵討ちの場面、従来の浮世絵サイズを横並べてぐんと広げた画面の中で、多くの登場人物が蠢いている。拡大図は曽我兄弟で、役者が舞台で見栄を張る姿が活写されている。



(五郎と十郎の拡大)
 


そしてヒーローをかっこよく見せるのにその横長画面を利用して釣り鐘を思い切り大きく描き、それを引きずる弁慶の強力、縦長画面を利用しおどろおどろしい焚火の煙の陰で周囲の気配を伺う宮本武蔵の隙のなさをアピールしようとしている。






第2章 怪奇に挑む
 幕末には、舞台や小説でも残虐な場面、怪奇な場面が好まれたとのこと。そのニーズを掴んだ国芳一門は、一気にそれに答える浮世絵を出して大人気を得た。
 今回の目玉の作品が、国芳の次の絵。「相馬の古内裏」。平将門の遺児 滝夜叉姫(左端)が数100体の骸骨を動かし謀反を企てるところを、とてつもなく大きな1体にまとめて、小さな武士に襲い掛からせようとしている。それで怪異の迫力、それに打ち勝つ人間の強さをアピールしている。弁慶のものと同様、構図はド迫力である。



 そして、弟子の芳年と芳幾が描いた「英名二十八衆句」。歌舞伎の残虐な28場面を、血みどろの効果を高める印刷技術を開発した。展示ルームではこれが28枚ずらりと並ぶ。確かにリアルで迫力はあるが、ちょっと食傷気味となる。

 


 一応これについて作者は「これは自分たちの戒めにするため。この絵を見て賊になったのは描いた人の責任ではなく見る人の責任」と責任転嫁している。

 国芳の骸骨が描かれたのは、1845-46と安政の大獄の前だが、「英名二十八衆句」が描かれたのは1867年、「ええじゃないか」が大騒ぎになり、また次の年が明治元年と各地で武力衝突が起こり江戸ですら不安定な状況になっているはず。単に怖いもの見たさではなく、一寸先はそうなるかもしれないとの不安感もあったのではないか。


第3章 人物に挑む
 浮世絵の本丸である美人画や役者絵も、国芳は有名となってから改めて進出した。しかし普通のとはちょっと違ってひとひねりされている。題目で「・・・したい」とかと言った言葉遊びをしている。そしてすぐ隣にいる女性かのようなリアルさがある。
 下左は「早く酔いを醒ましたい」という国芳の作品、近くの飲み屋のお姉さんの雰囲気がある。そして下右は芳年の描いた、「かゆそう」。普通の生活の中なのだけれども、とてもエロチック。

 


 役者絵については、「四代目中村歌右衛門死絵」。平清盛の扮装だそうだが、ファンならわかる特徴をズバリ描いているとのこと。貫禄、眼のバランスの妖しさなど、ドキッとする。



 
第4章 話題に挑む
 国芳は社会風刺を判じ物のように、絵に取り入れている。また好きな猫を利用した遊びのような絵、アンチンボルトのような組合せ絵など、アイデア溢れる絵を描いた。
 次の図は「源頼光公土蜘作妖怪図」。左上半部は百鬼夜行図、右上で源頼光が頭の上の土蜘蛛に悩まされている。手前に頼光の部下四天王がのんびりと囲碁を打っている。これは頼光が将軍、手前の四天王が水野忠邦など老中と見るのだそうだ。すなわち将軍の悩みや世間の乱れに老中はそっぽ向いているということを意味する。






 そういった意味を庶民が読み取り爆発的人気になり、版元が回収騒ぎになったそうだ。描くほうも、それを読み取る庶民の民度も素晴らしい。このような判じ物と解釈される絵がいくつか並んでいる。

 次に猫の顔で役者を描いた、「流行猫の戯言」。立っているほうは先ほどの四代目中村歌右衛門なのだそうだ。



 そして、人間の身体で顔を描いた、「年寄りのような顔の人だ」。 ともかくはアイデア満載の人だった。
 他にも本当に面白い絵がある。絵に描かれている文章を読んでいければ、もっと面白いのだろう。





第5章 芳ファミリー
 幕末は、役者絵の国貞、風景画の広重、そして武者絵の国芳が3大浮世絵師として覇を競っていた。その中でこの国芳一派は、人を喧嘩させたりしてその状況をスケッチさせるなど、とても自由闊達な雰囲気で、の勢力が最も大きかった。
その中ではやはり月岡芳年が白眉で、明治になってからも活躍し、最後の浮世絵師とも呼ばれている。
次の図は、その芳年の集大成と言われている絵で、「月百姿、高倉月、長谷部信連」。平家物語に題材をとった絵である。女装して逃れる以仁親王を見送る武士の哀愁をひしひしと感じる。



明治になると浮世を捉えるということで、写真と言うライバルがでてきた。それに対して錦絵新聞といった形で対抗した。その例としてやはり芳年の「西郷隆盛切腹図」
伝聞(船上切腹)で書かれたものだが、ニュースの絵として出版された。
遠くの船と波の表現が特にいいと思う。また隆盛も含め3人の残念さも伝わってくる。(ウィンドウガラスに人影が写っているのも残念)



他に数名の弟子が明治の世で、浮世絵を維持しようと活動していた作品もあったが、省略。

浮世絵は、結局その世相を写し撮るというところで、写真に基盤を奪われた。そして上澄みになった部分は日本画の中で吸収された。

私の家の本家は田舎の旧家だった。戦争後の農地改革と跡継ぎの叔父のいい加減さで没落したが、私の子供の頃はまだ昔からの家が残っていた。2階が大きな物置のようになっていたが、このような絵がかなりあったのを覚えている。あれがどのように整理されたのだろう。






わかるかな

面白いには

裏がある

それだけじゃない

裏の裏も見よ






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