てんちゃんのビックリ箱

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父母および義父母の戦争に関わる思い出話

2024-08-06 00:10:14 | 昔話・思い出
 私の父母、義父母ともに数年以上前に亡くなっている。
 4人のうち義父を除いて戦争に関わることはほとんど話さなかった。義父は新聞社からインタビューを受けて、その記録が残っている。でも他の3人から聞いた話、そして義父の新聞社インタビュー以外の話を含めたものを書いておく。


1.父 大正13年生まれ(1924年) 1945年(終戦時)21歳
 父は戦争の後半は陸軍に招集されていた。学校の頃運動関連の選手だったこともあり目立つ存在で、上官から使いまわしや時には虐めの対象だったようだ。それが嫌でかなり戦線が怪しくなっていることは知っていたけれども南方派遣に応募した。田舎の親たちは怒ったそうだ。
 でもそれが受け入れられて派遣船が出る三重県に移動した。何隻か派遣することになっていたらしいが、さっさと日本を離れたいと1番艦を希望した。もうすぐ乗船するという時に空襲がありその1番艦が沈没/損傷?した。それで1番艦に乗船するという人たちは、派遣が後回しとなった。
 父たちが待機する間に、2番艦そして3番艦が旅立った。そして両艦とも太平洋上で撃沈された。それで乗艦=死という意識を持ちながらその日を待っていたら、天皇の終戦に関わるお言葉のラジオ放送があった。
 父は自分の運の良さと、嫌なことでも積極的に向かっていけば道が開けることを話す時に、この話をすることがあった。

 三重の空襲は、四日市市、津市などを対象にひどい状況だったようだ。南方派遣となると海軍の燃料廠のある四日市と思うが、津市なのかもしれない。でも大規模爆撃を受けた後の2つの町は被害の大きさに茫然自失だったようで、2番艦、3番艦は別の所から出発したのだろう。
  https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail.asp?reco


     

             空襲後の津市の状況

2.母 大正14年生まれ(1925年) 1945年(終戦時)20歳
 母は、兄弟姉妹が10人以上の大家族で、札幌近郊の農場に住んでいた。石狩平野のほとんど周りに山が見えない所で、道は見渡すかぎり1直線の所だった。町や工場からは離れていた。
 そんな所にも、米軍機は飛んできた。ポツンポツンとしか農場はないが、どこかの農場の牛舎に機銃掃射が行われ、牛が昇天したという話もあったそうだ。
 母ではないが家族にかかわった話で、田んぼの中を牛車でものを運んでいたときに、戦闘機2機がその道の上を真っすぐ飛んできた。まず1機が道へ向かって機銃掃射をはじめ、家族は慌てて横の田んぼの中へと飛び込んだ。牛も横へ動いたが、道の横の溝に牛車の車輪が落ちて動けなくなった。次の瞬間その牛車が機銃掃射でバラバラになって、自由になった牛は田んぼの中を駆け出した。
 次に、もう1機は先の1機をトレースするように同じ場所を機銃掃射していった。後で家族内で機銃掃射の練習をしていたのではないかと話したとのこと。

 北海道はサイパンや硫黄島からは遠く、接近した空母の艦載機を使っての空襲がおこなわれた模様。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93%E7%A9%BA%E8%A5%B2
 1945年7月4日と15日に集中的に空襲とともに港では艦砲射撃がおこなわれ、北海道の主要都市がほぼ機能を失ったとのこと。
 あの北海道石狩の平坦な大地に、いきなり異世界の暴君が現れたようなものだ。

     
            空襲を受けた札幌のタンク群
https://www.city.sapporo.jp/ncms/shimin/heiwa/rekishi_senseki/senseki/senseki_21/
 
3.義父  昭和3年生まれ(1928年) 1945年(終戦時)17歳
 義父は戦争終了前は、生徒だったが近くの軍需工場へ級長としてクラスの人を率いて武器の組み立ての応援に行っていた。家もその軍需工場の近くにあった。重要な工程に入っていて亡くなるまでそれを誇りにしていた。
 重要な軍需工場だから、御多分に漏れず何度も空襲にあった。ある時その工場が甚大な被害を被った空襲があった。大人たちが混乱して逃げ惑う中、義父は級長としてクラスの人全員を防空壕へと入れようと動き回った結果、逃げ遅れていた一人と壕の外へ残ってしまった。そこでコンクリート壁の陰に隠れるとその向こうに爆弾が落ち、なんとか助かった。
 空襲通過後も大混乱で、会社の人や軍人が「子供はさっさと帰れ。」と言っているのを、クラス全員の点呼をとってから帰宅した。
 家の近くは特に被害はないようで安心して帰宅したら、義父の父が亡くなっていた。防空壕に一度入ったそうだがやり残したことがあると言って家に帰ったとのこと。そこへ遠くから爆弾の破片が飛んで来たのだそうだ。
 義父の経験した空襲はWikiに掲載されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%84%E5%8B%99%E5%8E%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2

       
           爆撃後の川崎航空機各務原工場本館
https://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/tyu_shyakai/jinbutu/sensou/kuusyuu_syasin.htm

 それによると、父の同級生は無事だったが、他の動員生徒に甚大な死傷者が出ている。防護性の高い重要施設破壊ということで大型爆弾を投下し、直撃の防空壕まで破壊されたためとのこと。そんな状況だから部外者を慌てて追い払おうとしたのだろう。
 死地の大人が慌てふためく中で クラス級長としての責任を果たしたという高揚感と、帰宅しての父の死に直面したという落差の大きさは大変なことだったろう。

 
4.義母  昭和3年生まれ(1928年)1945年(終戦時)17歳
 義母は戦争の間 ずっと名古屋に住んでいた。名古屋は軍事施設や工場が多く空襲でそれらが狙われたが、それらから離れた場所だったので、それほど心配していなかった。
 しかしいきなり名古屋全域がB29の焼夷弾無差別爆撃に見舞われた。義母は妹と指定の防空壕に行ったが、一目見て安全でないと思い、外を逃げ回ることとした。焼けている建物や焼死者を避けて走り回った。本当に地獄図だったとのこと。入るのをやめた防空壕は、焼夷弾の直撃を受けて中の人は助からなかったとのこと。「私たちはあれを見たから、我慢強いし、その後の私たちの世代などに比べても強い自信がある。」と話していた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%A4%A7%E7%A9%BA%E8%A5%B2

      

                 B29空襲後の名古屋

 民間の木造家屋密集の地域に焼夷弾の絨毯爆撃は、本当にひどい結果を招く。アメリカの戦争犯罪と見なす意見もあるが、勝者は裁かれなかった。

 太平洋戦争について、日本の国外にて加害者の立場だった人は現在100歳以上になっているはずで、生き証人として話せる人がほぼいなくなった。その頃20歳もしくはそれ以下で戦争の被害者としての状況を直接見て理解できている年齢だった世代も、100歳に近づきどんどん亡くなりつつある。被害者としての経験は空襲である。
 そしてそれらの人々から実体験を少しでも聞いた我々の世代もいい歳になってきた。暫くすると目撃者から直接話を聴いた我々世代もいなくなってゆくのだろう。



コメント
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