承前1 例の「オープンレター」騒動のメモ 20 Jan 2022
承前2 例の「オープンレター」騒動のメモ(2) 20 Jan 2022
結構なペースで相当程度の記事が消滅しているようで、こうした僅かな記録も貴重なものになるかもしれない。
とりあえず、まずはこうした心構えが必要だったかなと言うメモ:
…双方、相応に不満であろうところ、「仕方ない、ここで手打ちとしよう」というのが和解であり―今回の発端である北村―呉座間の和解なるもの、そもそもこうした意味における和解となっていなかったわけだ。少なくとも紛争の長期化は当事者によってなされている。というか、言及がはばかられるとされるオープンレターが未だにオープンであるらしいことによって、長期化・問題の継続はなされている。
―鍵アカウントで延々悪口言ってた阿呆は阿呆で問題だが、それを注進して直接北村氏を責め苛んだ人物については追及されたのであろうか、という論点はとっておくべきかな。単純にこれ自体が嫌がらせになり得る。
そうして切れたのは、そりゃあ人間的に妥当だが―この場合、北村―呉座にそうまでの権力的な実力差があったものかどうか。対等の間柄の喧嘩と理解されえる余地が大いにあろう。どっちも有力著作者だし、当時は双方常勤職員だし。
しかし謝罪を引き出し、それに前後してオープンレターで継続的にさらし者としたのは、北村氏側の積極的なアクションによると言えよう。このアクションに応じて学術団体がリアクションを示し、さらには呉座氏側の雇用者が懲罰人事―となると、まあ、そこまでの責任は負えないというのは尤もだが、ならば「やりすぎじゃね?」と声がけしてもよかろう。まあ、そうしてやる義理を感じないというのも人間的だが。
で、結婚したはいいが、そんなしくじりで非常勤講師に降格。今後の人生の行き先がわりと怪しくなった人物に、さらに弁護士経由で追撃―は、まあ「余計なことをするな」という警告ということでいけるかな。が、警告があったこと自体を言うな―も、まあ、いけるかな。が、そのほか関連ブログ記事は全滅するし、togetterも消えていくし、なんか関係なかったはずの弁護士にまで警告文が届くとなると、これ、「100回目のブチギレ」で済むんだろうか…というのは、流石に疑念としてよいのでは。
それもこれもあれも「100回目のブチギレ」、101回目ではありえない、ということだろうか。呉座氏に対するそれはまあ、それでいいとして、別件で別人の弁護士に警告が行くのは、それは流石に101回目でいいのではないか。じゃあ102回目はどういう基準で発動するのか―。
―問われているのかもしれない。
承前2 例の「オープンレター」騒動のメモ(2) 20 Jan 2022
結構なペースで相当程度の記事が消滅しているようで、こうした僅かな記録も貴重なものになるかもしれない。
とりあえず、まずはこうした心構えが必要だったかなと言うメモ:
弁護士をやってる人間の感覚としては「和解」というのは「相互譲歩による紛争解決のための一つの手段」という位置付け。
— モトケン (@motoken_tw) 2019年8月20日
一方が他方の要求を全面的に受け入れるのは和解とは言わない。
前提事実に争いがある場合には、争いがあることを前提にして(うやむやにしたまま)和解することは普通にある。
つまり和解というのは、双方が100%満足することを想定していない。双方の譲歩の限界内で合意するもの。和解成立後に双方に不満が残るのは当然のこととして前提とされている。
— モトケン (@motoken_tw) 2019年8月20日
双方とも不満はあるけど、紛争を長期化させるよりこの段階で紛争を集結させたほうが双方にとって利益と考えるの和解。
…双方、相応に不満であろうところ、「仕方ない、ここで手打ちとしよう」というのが和解であり―今回の発端である北村―呉座間の和解なるもの、そもそもこうした意味における和解となっていなかったわけだ。少なくとも紛争の長期化は当事者によってなされている。というか、言及がはばかられるとされるオープンレターが未だにオープンであるらしいことによって、長期化・問題の継続はなされている。
構造的に差別/搾取されている側が抵抗する時に権威を持つ側を脅かさない・怒らせない・不快にさせない物言いを当然のように要求されるの、ほんとしんどい。穏やかに「やめてください」と99回言っても通じなければ100回目にはブチギレる。でも権威側には最後の1回しか聞こえず「やりすぎ」と責められる
— 鴻巣麻里香 (@marikakonosu) January 26, 2022
―鍵アカウントで延々悪口言ってた阿呆は阿呆で問題だが、それを注進して直接北村氏を責め苛んだ人物については追及されたのであろうか、という論点はとっておくべきかな。単純にこれ自体が嫌がらせになり得る。
そうして切れたのは、そりゃあ人間的に妥当だが―この場合、北村―呉座にそうまでの権力的な実力差があったものかどうか。対等の間柄の喧嘩と理解されえる余地が大いにあろう。どっちも有力著作者だし、当時は双方常勤職員だし。
しかし謝罪を引き出し、それに前後してオープンレターで継続的にさらし者としたのは、北村氏側の積極的なアクションによると言えよう。このアクションに応じて学術団体がリアクションを示し、さらには呉座氏側の雇用者が懲罰人事―となると、まあ、そこまでの責任は負えないというのは尤もだが、ならば「やりすぎじゃね?」と声がけしてもよかろう。まあ、そうしてやる義理を感じないというのも人間的だが。
で、結婚したはいいが、そんなしくじりで非常勤講師に降格。今後の人生の行き先がわりと怪しくなった人物に、さらに弁護士経由で追撃―は、まあ「余計なことをするな」という警告ということでいけるかな。が、警告があったこと自体を言うな―も、まあ、いけるかな。が、そのほか関連ブログ記事は全滅するし、togetterも消えていくし、なんか関係なかったはずの弁護士にまで警告文が届くとなると、これ、「100回目のブチギレ」で済むんだろうか…というのは、流石に疑念としてよいのでは。
それもこれもあれも「100回目のブチギレ」、101回目ではありえない、ということだろうか。呉座氏に対するそれはまあ、それでいいとして、別件で別人の弁護士に警告が行くのは、それは流石に101回目でいいのではないか。じゃあ102回目はどういう基準で発動するのか―。
―問われているのかもしれない。
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