劇場版シティハンターの批評家の批判内容
— 水城洋臣(洋画劇場P) (@Yankun1984) 2019年3月4日
・昔と同じで何も進化していない
・ただのシティハンターでそれ以上でもそれ以下でもない
・ファンのご機嫌取りに終始してクリエイターの色が無い
これロングシリーズものには褒め言葉じゃねぇの?
作家色だとか新しい挑戦なら、新作でやれよって話で終わる
「クリエイターの色が無い」が批判としてなりたつという前提が隠れている。これは面白い。では、劇場版シティハンターが、誰か(原作者ではない)クリエイターの色で染められて、さてそれはウケるかというと―疑問だろう。
「我々はシティハンターを見に来たんだ」といわれるだろう。「作家色だとか新しい挑戦なら、新作でやれよ」である。
先日とある劇場の支配人が「表現したい人がたくさんいて、それを観たい人がぜんぜんいない時代」と言っていた。
— 吉村智樹 (@tomokiy) 2012, 11月 16
と言う言葉もある。換言すれば、「オレが」「オレは」といいたがりの人たちが山のようにおり、それらの者たちに対するニーズがないわけだ。しかし娯楽はあってほしい。そこで一大娯楽映画・シティハンターが製作され、それは原作者の描いたとおりの安定感のある作風だったわけだろう―当然モダナイズは多少しただろうが―それでウケたらしい。
この際、現代のクリエーターに求められるのは、「昔と変わらぬシティハンター」と見えるような程度の微妙なモダナイズの腕前であって、今回の製作者はそれに適切に答えたものなのだろう。これはその腕前の非凡を示唆する。それでこそ商業的にも成功したものなのだろう。そうして、それでこそ、その腕前の確かさが認められ―
―”名をあげる”ことができる。個々のクリエーターの「つまらない自意識を披露するというのは二の次三の次であるということが忘れられていませんか」という問いかけを、我々は自らに問いかけねばなるまい。
PARCOの広告について、クリエーターのメッセージが伝わっていないとかどうとか言われてたけど、そもそも広告の最大の存在意義は何かモノを売るために宣伝することであって、広告屋のつまらない自意識を披露するというのは二の次三の次であるということが忘れられていませんか。
— たまさか (@TamasakaTomozo) 2019年2月5日
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