空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

重度障害者が国会議員になったことでいろいろと

2019-07-27 19:00:22 | ノート


 私としては、雑な、日常的な言葉で言えば「たまにゃええやろ」である。
 いま少し賢げに言えば、「一定数存在する障害者を直接、視覚的にも代表するような議員があってもよかろう。不可視的であった問題をその他一般にも明らかにする広告効果的なものはあろうし、当人たちもそれを覚悟して出てきているだろう。状況に一定の改善が期待できる―障害者の状況理解についても、なんらかの待遇改善についても」。



 当事者性があるからいーやー、というのは、広告効果、視覚効果のかぎりといえようか。さしあたりこれで最低限の仕事はし終わったことになるだろう(まあつまり、”タレント”議員の類の低質な層と同様程度の影響力は果たしたといえよう)。しかし国会議員としての評価は別物で、調整能力に期待する向きもあるだろうし、理論的闘争能力に期待する向きもあろう。どこにどう能力を発揮し、次の当選につなげることができるか、は次の問題である。



 この、「他の問題」についての取り組みも今後の評価に関わるわけである。
 ―この障害者議員たちは、まあまずは当事者性のあるところに中核的に取り組むことであろうが、それ以外に何の取り組みもしないで済むだろうか? しないのなら、低質な議員と評価されることになるだろう。
 例えば山田太郎(ちゃんとしたほうの太郎)氏が表現の自由・著作権問題について活動する、と言明するとして、「他の問題で困っている人はどうするのかに目を向ける」ことがない(であろう)と非難するのは、予め評価してしまうのは、いささか失当という感がある。



 まあ、”かわいそうな障害者たちのことについては健常者である我々がかわいそうにおもって配慮してあげるからかわいそうがられていなさい”という意識は、そりゃあまああろうよねえ。



彼らにまともな政治活動ができないことを見越して」と、既に”議員失格”という評価を下した後でものを語っていることが明らかなのである。
 後続は



 とあって、”今後の働きで評価されるだろう”という観点を持っているように書いているものの、そもそも「彼らにまともな政治活動ができないこと」を予め評価し終えてからいっているので、循環論法になっちゃうのである。

 まあ、「他の方と同じレベルの仕事をする必要」を厳しくとりすぎると、記事中にもあるように自力での歩行が困難だった鳩山一郎の例をどうみるか、なんてことも問題になっていく。どうあればまず満足な議員としての活動であるのか―「我々の代表」として及第点であるのか―その評価も含め、これからの問題なのだ。

 そしてその過程は、この二議員の評価だけでなく、我々自身を構築しなおす過程であるのだ。
 障害者を、予め”まともな活動ができない”と評価して社会生活から可能な限り排除したままで行くのか、たとえばたまにはホーキングみたいなのんがありえるとみて受容の用意だけはたまに進めてみることをよしとするのか、まあ―

 ―一切を客体とするが如き、神の視点の如き立場で諸種の事項に裁きを下す大権威者っぽい全能感に身をゆだねつづけるだけじゃなく、まー自分も問われているぞということに多少意識を持っても良いだろう。
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