本日は終日、標記の会議が長野市でありますので、出かけてきます。
宿題の提出も求められています。
校長職にも「宿題」があるのかとお思いの方もいらっしゃるかと思いますが、あるのです。詳しくは書けませんが。
話は変わり、第17回六地域対抗高校選抜アイスホッケー大会が以下の日程で行われます。
参加高校は、東北高校、水戸啓明高校、日光明峰高校、武相高校、埼玉栄高校、軽井沢高校の6校です。
茨城シリーズ
10月13日(日)~14日(月) 笠松運動公園アイスホッケー場
13日 14時~ 軽井沢高校 対 埼玉栄高校
14日 14時~ 軽井沢高校 対 水戸啓明高校
軽井沢シリーズ
10月19日(土)~20日(日) 風越公園アイスアリーナ
19日 9時~ 軽井沢高校 対 日光明峰高校
19日 16時30分~ 軽井沢高校 対 武相高校
20日 14時~ 軽井沢高校 対 東北高校
私も軽井沢シリーズの実行委員長となっています。
19日は、PTA主催の親睦行事があり、終了後、会場に向かおうと考えています。
20日は、行くのは難しそうです。
また、本日、美術部(カルビ)のメンバーが、アサヒ全国アートフェスNプロジェクトに参加します。千曲市の戸倉上山田中学校で開催されるものです。
来週に迫った2学年の修学旅行結団式や全校漢字テストも本日行われます。
松沢教頭先生からの話の場面(10月14日追加)
真剣に話を聞く2年生たち(10月14日追加)
話は変わり、今日は、昭和37年(1962年)3月(第13回)卒業生の卒業アルバムからの写真です。
この当時は男女共学2クラスでした。クラス写真からクラスの人数を数えてみますと、1クラス50人以上在籍していますね。当時は、高校進学率が上昇してきていて、クラス人数も50人を超えていたと聞いたことがあります。第1次ベビーブームのときに生まれた人々(団塊の世代とよばれていますね)がちょうど高校生になりつつあったころのことです。この年の卒業生の皆さんは、昭和18年・19年生まれの方ですね。軽高が誕生した年(昭和18年)に生まれた方々です。
『軽井澤高等学校四十年の歩み』によると、
「(昭和)36年4月に文部省から『高校生急増対策の全体計画』が発表される。終戦によるいわゆる『ベビーブーム時代』の波が確実に高校に寄せてきたことと、経済成長による高校進学率の急上昇による高校生急増への対応が迫られたわけである。」
「本校も38年度から募集定員を従来の2倍の200名とすることが策定され、(中略)かくて37年、コンクリート2階建、建坪166坪、6教室分の新校舎が竣工、38年度から3年生及び2年生の普通教室と生物、化学の理科室として使用されることになる」
とあります。現在の北校舎は、募集定員の倍増に伴い建設されたわけです。
「昭和38年の入学者は204名(50名から52名の4クラス)、翌39年度入学者226名。」との記述もあります。
職員室風景とキャプションが入っていますが、先生方の机は木の机です。
昨日の写真や今回の写真を見ますと、研究室ごとに先生方は別れて執務していたのではなく、当時の軽高には、職員室があったことがわかります。
運動部の皆さんです。
当時は「班」と呼んでいたようです。
上から 野球班、スケート班、テニス班、排球班、バスケット班、ホッケー班、卓球班となります。スケート班は結構班員がいますね。軽高といえば、「スケート」の時代があったんです。
アイスホッケー班は、「昭和35年12月、目の前に迫ったインターハイ、国体(昭和36年1月)への出場のため県スケート連盟の強い要請により急遽結成されたもの」(『軽井澤高等学校四十年のあゆみ』)だそうです。この「校長日記」でもかつて紹介したことがあります。
体育祭の様子を示した特集頁もなかなかいいものです。
体育祭の文字の下の写真、フォークダンスを踊っている姿わかりますか。
昭和38年(1963年)にリリースされ大ヒットした「高校3年生」の歌詞の中に、「あああああ 高校三年生 ぼくら フォークダンスの 手をとれば」というくだりがありますが、この卒業アルバムから追体験できました。
本校の50歳代前半の先生によれば、「体育の授業でフォークダンスを習ったことがある」とおっしゃっていましたが、このことは裏を取っていない未確認情報です。もう少し当時の状況を調べてみたいと思います。
ちなみに、私の高校時代の思い出では、文化祭のあとの後夜祭でのフォークダンスでしたけど。今の高校現場では、私の知る限り、フォークダンスを踊ることはなくなりました。