日本の風景 世界の風景

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きだみのる「気違い部落周游紀行」(冨山房)

2006-06-21 | 世界地理
きだみのる、本名山田吉彦(1885~1975)の『気違い周游紀行』は東京郊外恩田村でのできごとから生まれた文学的社会学的作品である。戦後日本の表面的民主化を鋭く批判した。1948年刊行、現在は冨山房百科文庫に収録されている。きだみのるは慶応大学中退後、パリ大学社会学を学んだ。国内の流浪の生活は、岩手県の直木賞作家三好京三が『子育てごっこ』に描いた。青年時代の生活は『人生逃亡の記録』(中公新書)に、きだ自身が書いている。

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法の厳格な適用はしばしば非常な害悪をもたらす 
正義正義とは何かと問われ、そして正義の具体的表現が、巡査の制服であると断定されたとき、これを即座に納得し得る人は少ないであろう。それは正義がそんなに手近かにあるものと我々は感情することに慣れず、何か雲の彼方の後光の前に正義を置くことを望むためかも知れない。従って正義の代表者に巡査を持って来ることは正義に対する冒瀆のように考えられるのだ。これはしばしば真実であることもなくはない。
西の方のでこんなことが起った。そこは濁酒の密造の盛んな箇所である。
ある日、民さんの子供である五つの兄と四つの妹とが河原で草花を摘んで遊んでいた。そこに駐在がやって来て、傍に腰を下ろしながら云った。
「花摘みかよ、どれ、沢山摘んだじゃねえか」
子供たちはこれに返事はしなかった。二人は駐在が来たので気持が窮屈になり、兄は妹に小声で
「あっちへ行くべえや」
と誘って駐在を遠ざかりかけた。しかし駐在の声が二人の足を止めた。
「もうちょっと、ここで花を摘めや。そしておじさんに教えてくれやなあ。おとうはよ。晩方になると何かくさいものを飲むべえ。そしてそれを何杯か飲むと顔が赤くなるべえ。そうだなあ」
二人の子供は立ちすくんだようになって、互に顔を見合わせた。そして兄の方は首を振りながら辛うじて云った。
「ううん」
駐在は子供たちの動作から推して、二人は家人から「云ってはならぬ」と教えられているのだと判断した。で彼は、草の葉を指先でもてあそびながら云った。
「いやなあ、おじさんは知っているのだよ。おとうはよ。毎晩くさい臭いのする白い水みたいなものを二三杯飲む。するとおとうの顔は段々赤くなってくるのをな」
そして彼はもっと優しい語調に変えた。
「ほんとのことを教えてくれたら、おじさん、うめえものをやるよ。ほら」
そう云って彼は制服のポケットからキャラメルを一箱取り出して、幼い二人の兄妹の眼の前にちらつかせた。長い間甘味に餓えた子供たちの眼は欲しさに輝いた。「今だ」と駐在は見て取った。
「なあ。おじさんの云うことはみんなほんとだろう。教えてくれたらこれをみんなやるよ。そうだろう。飲むべえ」
子供は暫しためらった後でうなずいた。言葉に表現しさえしなければ秘密のままに終るとでも思ったかのように。
駐在はキャラメルの封を切って渡し、
「食ってみな。うめえよ」
兄はそれを受け取り、一つを自分の口に入れ、妹にも先ず一つ渡し、それから中身の半分を妹に渡そうと全部を出しかけると、
「いや、待てよ。おじさんにね。も一つ教えてくれたら、もう一箱やるよ。ほら、ここにあるだろう。これもやるよ」
そう云って駐在はもう一箱出した。
「そのな、おとうの飲む水をょ。おとうはどこから出して釆るかょ・・・物置からかよ」
子供たちは首を振った。
「台所かよ」
同じ子供たちの動作。
「じゃあ、どこだんべえ。押入れかな」
子供たちはうなずいた。一箱のキャラメルがその代償として二人の手に渡された。
駐在は所要のことは十分に聞いたので立ち上って歩き出した。子供たちは漠然とした不安があるので、駐在の後について岸に上り、家に帰って行こうとした。
「俺はねえ、署に帰るから、もっとここで遊んでいな。キャラメルでも食ってよ」
二人の子供はそこで河原に残ってキャラメルをしゃぶりながら兄は妹に云った。
「うめえな。うめえだろ」
「うん。うめえよお」
子供たちに云った巡査の言は真実ではなかった。彼はまっすぐに民さんの家に行き、押入れの中に濁酒の瓶を発見し、そして民さんを野良から署に連れて行った。
キャラメルの残りを懐に大切にしまった二人の幼い兄妹が父のいない家にもどったのは、それから間もなくであった。

以上はシン英雄が私に伝えてくれた話である。
私は二人の幼童の、特に兄の方がこれからの長い一生負い続けねばならぬ精神的負担を悲しみを以て想った。
「子供がかええそうだよ、なあ、先生」
そうシン英雄も付言した。


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お寺の先生、ヒエと蝸牛(カタツムリ)を常食として英雄たちを驚かすこと  
お寺の先生と呼ばれる私は何回か方々の国を旅行した。そしてイタリアではうどんの同類であるマカロニとスパゲッチで、モロッコでは小麦を挽き割って作ったクスクスで、蒙古では麦こがしをこねて二つの石の間で焼いた餅で、フランスやドイツではパンで、ギリシャやトルコの田舎では、プラトンやソクラテスが対話しながら舌鼓を打ったであろう麦粉餅で健康に暮らして来たので、私の胃袋は食物に対する偏見が割に少なかった。
日支事変から輸入の統制がはじまり、オートミールが手に入り難くなったとき、ヒエイスムのチャンピオンである英さんこと井上勝英子爵がヒエを推薦した。多くのイスムが観念論という精神の競技、しかも卜占に類する難解を誇る競技であるとき、英さんのヒエイスムのイデオロギーが最も単純な表現に於ては、「最安価にして最大の健康はヒエを喰うことによって得られる」というにあるので、私は世の中のイスムの中にもこのような単純の美を持つもののあるのに感心した。そして小笠原長生子が学徒挺身隊のとき、臆面もなく華族の子弟の惰弱さを新聞に告白しているとき、英さんの紅顔強躯の具体的表現に信頼して、私はヒエを喰い、この穀物のまずくないことを発見した。
主食の統制がはじまったとき、私はお米を止めてヒエを喰うことにした。お寺に移住してから、私の主食は麦ぞっき(麦だけの)の麦かヒエであった。私は麦しか実らないこんな高原でお米を喰うことは意味のないことのように思えた。
副食物として肉や魚が手に入らないと、よい季節には蝸牛(カタツムリ)を捜し、一日二日ワラで養った上でセリを微塵に切り、油とねり合わせて殻の口につめた上、焼いて副食物とし、蛋白質を補給した。これはパリの料亭エスカルゴのブルゴーニュ蝸牛のダース皿に劣ることはない。
ある日、私はこんな食事の仕度をし、箱お膳を出そうとしていた。
箱お膳というのは読者も知っていられるように、重箱を大きくしたようなもので、食事が済んだら茶碗や何かの道具は そのまましまっておける。これは男暮しの不精には持って来いの家具だ。これをヨシ英雄の許で発見したとき、私は讃歎し、彼に割愛して貰って愛用しはじめた。大体に於て、人間は自分自身のものを汚いとは感じないものである。
で、この箱お膳を明けたところに、門口を通る足音が聞える。
「先生、いてかあ」
サダ英雄の声である。
「お茶でも飲めよ」
と私が応じると、玄関の障子が開いて、英雄の鬚面が現れる。ウサギ打ちの支度をしている。彼は火じろに足を踏み込み、半ば開いた釜の中を覗いて、
「何よ。これあ」
「ヒエだよ。一つどうだ。山歩きには疲れないというぜ」
「そうか。じゃ一杯貰って喰ってみべえ」
ヒエの白さがこの英雄を驚かせる。
「どうだ。これもやるかね」
私は蝸牛を出してやる。
「いやあ。先生は蝸牛を喰うのかよ。いやこりゃどうも」
サダニイは箸を止めて感嘆したが、その方には上から横から眺めるだけで、尻込みして手は出さない。
サダニイはヒエを喰い終わると外へ出る。犬は待ち切れずに里へ下りたのか、見えない。暫く犬を無益に呼んだ後で、彼も下りて行く。私は彼の姿が杉林の向うに隠れるのを見送った後で、バケツを下げて谷川に水を汲みに行き、次で日課の杉葉拾い、その後で庫裡の前にある畑の世話。
サダニイが帰って二時間もすると、シン英雄が自転車を押して大門を杉林に沿うて上って来るのが見られた。
「先生」と包みをぶら下げたシン英雄が云う。
「お茶でも入れるかね」
「お茶はわしはええです」
私は彼を縁側に招じ、いろりから茶道具を運んだ。
「他人の家に来たら、まあ茶ぐらいは飲むものだよ」
「いま飲んで来たばかりだから、ええですょ。先生」
 私は彼の前に茶碗を出した。
「シンサン、君はお茶は好きだったじゃないか」
「そうでさ。お茶は好きでさ」
そして、シン英雄は非常に当惑したような表情で茶碗と私を見較べながら続ける。
「はあて、困ったなあ」
「何が困るのかよ」
「いや、お茶は嫌いじゃねえですがよ、余所で飲まんわけはねえですがね。・・・ですがね、先生のとこじゃ何を飲まされるか解らねえからよ。蝸牛まで喰っとるちゅうじゃねえですか。何でまたあんなものを喰うですか」
それで解った。わがシン英雄は私の飲むお茶は蛸牛の穀か狐の尻っぽを焙じて入れたとでも思っているのだ。しかし私がどんなに骨折ってそれは玉露であると、現品まで見せ、急須の蓋もとって納得させようとしても、シン英雄の先入観念を抜き取ることは出来なかった。
「いや、お茶はええです。家へ帰れば間違いのねえのがあるから」
彼はなお言葉を続ける。
「それから、先生は蝸牛をおかずにしてヒエを喰うとるちゅじゃねえですか。あれは、先生、鶏の喰うものだんべ。さっき下のおこうちゃんが、先生は蝸牛とヒエを喰ってたとサダニイのとこで聞いてね、先生は何ちゅうものを喰っているのかとたまげて、わしのとこにおっ走って教えてくれたのでさ。わしもたまげてね。いや先生、この村にいるうちはヒエと蝸牛は止めてお貰い申してえですよ。村に来て痩せられたんじゃ、でえ一わしは東京のかみさんに申し訳はねえし、この村も面目がねえでさ。おこうちゃんにもそのとき云ったでさ。先生がそんなに食物に不自由しているのなら、何でわしに云わねえのかと。その話を聞いたんで、わしゃちっとべえ米と丸干しを持っておっ走って来たでさ」
そう云って、わがシン英雄は風呂敷包みを渡した。私はその素朴なな好意の表現に感動した。
「いや有難う。だがねシンサン。ヒエってそんなにまずいものじゃねえと思うがな」
「まずかあねえかも知れねえけんど、鶏の喰いものだから体によかああんめえ」
「そうでもなさそうだよ。それからよ、俺は外国にいて十年も米飯は喰ったこたああんめえ。だから俺はあんな両端のとがったもの喰っているわけに行かねえんだ」
「はあ、そうかよ。お米は両端がとんがっているかよ。だが、とんがっていて困るかよ」
「何か胃袋をつっつくように思うんだ。だからね、ヒエだの麦だのうどんだの、とがらねえものが喰いたくなるのだよ」
「でもよ、先生。麦は両端がとんがっていべえ」
「麦はとんがっているがね。麦飯に炊いちまえは丸くならあ」
「それはそうだ。成る程なあ。米は両端がとがっているか。成る程なあ」
「いや、今度米が喰いたくなったら、あんたのを頂戴するよ」
「そうしておくんなさい」そう云ってから、彼は何か感心したように繰り返す。
「いやあ。米は両端がとんがっているか。成る程なあ」
やがてわがシン英雄はお茶には手もつけないで
「成る程なあ、お米は両端がとんがっているか」
となお絞り返しながら、庫裡の前、大杉の下の石段を下りて行った。
数日後、シン英雄はヒエは昔、村でも喰っていたことを知らせてくれた。
「お婆さんに聞いたらよ。村じゃ団子にして喰っていたと教えてくれたよ。わしも、へえだんごを灰の中で焼いて喰ったこたあ覚えていただけんど、灰の中で焼くから、へえだんごと云うのだと思っていたのよ。それから上の角山さんに聞いたら昔のヒエ倉の跡がまだ三つばかり残っているそうだよ。先生」
かくして私はシン英雄に心配をかけることなく、お寺でヒエを喰えるようになった。そればかりではなく、若干の英雄たちはお寺にヒエの種子をもらいに来た。