緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

表裏一体

2022-03-23 | スピ的視点
  御真言の使い方や唱える時の心の話に触れてみました
御真言を唱える時には無心で無意識でと。

その無心というのは心が無いという事ではないという話でした
普段からその真理に近づくために心を磨き、
邪気や邪心や邪念を普段の体験から
真の気や念や心に変えて行くという事です


その御真言や経典を学んだり唱えたりした先に真理というものが見えてきたり導かれたりするものだと。


体験して壁にぶち当たりハタと気づく心
又は、日々御真言や経典の意味を学び、答え合わせの体験がやって来て腑に落ちるか…


それが表裏一体です
どちらでもいいし
良いも悪いも…正しい間違いも…陰陽、光と影、光と闇
どちらもあるという事は、どちらも真理であり
真理の表裏一体
体験してから学ぶか、学んでから体験するか


そんな事を認識したうえで御真言を唱えると良いと思います
身勝手ではなく、御真言を使わせてもらう前の心構えになります


九字を切るっていう事も神道でしますが
御真言と同じで守ってもらいたい時や
恐怖心や邪気などを払う時にも使ったりする人もいます
何でもかんでも使えば良いというもんでもありませんよね


2,3日そんな話をしていますが…、
後からでも意味を知らないといけないし、
表裏一体という事で、
自分に何かを気づかせてくれるために起こっている事かも知れない
その奥を観なさい、奥を感じなさいと…。
その奥に真理がある事を伝えたいがためです

邪気や陰気というのを感じる時もですが
目の前に見えているモノか見えていないモノかの違いで
見えているモノのジャッジも見えていないモノのジャッジも
判断できる自分の心を築いて行かないといけませんよね

生きている人間同士の会話なら判断つくけど
自分の横に見えない人間(霊)がいて
ぶつくさ愚痴や文句を言ってるだけかも知れない
それを寄せ付けているのは我が身の心です。
そんな邪気を祓うために御真言を唱えても駄目ですよね
九字を切っても失礼です。
その見えない人間(霊や意識)にとっては大きなお世話です
その人の人生だったからです(死んでるけど)


その先に見えて感じている本質を観て、
ちゃんと判断しないといけません


守ってほしくて御真言唱えたり、邪気を祓いたくて九字切るって言うのは
自分の本質に向き合えていないからです
自分の本質がその奥と繋がっているというのにです
表裏一体には境界線は無いんです


これは、御真言を唱える時、経典を学ぶ時に
とっても大切な心構えだと思います (^.^)


防災でも病気でもですが何でも全て心構えは普段日常が大切なのと同じです。
突然神頼みになるよりも日常から神様仏様の心に近づくようにしておくと良いのでは (^.^)




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 御真言を唱える時 | トップ | 大地にも感謝って当たり前だ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿