
ポイントはフラットだという事です。
大概この世の中では一人では生きていませんから
人とも社会とも交わります。
社会と言っても身近な家族も学校もコミュニティも小さくても社会です。
生れてきて初めに家族という社会に入り、
親の価値観や概念によって育てられます。
三つ子の魂百までと言われるように、
3歳までで基本的な人格形成がなされます。
そこから幼稚園や保育所といった次の社会へ進み、
学校、会社へ大きくなっていきます。
それと同時に体も心も育ち大きくなっていくという仕組み (^.^)
元々魂も別で、人生設計、人生ドラマの脚本も違い、
最低限の生活習慣や愛の種を植え付けられ、
二本足で独り立ちしていくという人生。
その時には心も独り立ちの自律です。
一体自分が誰なのか、名前は付けてもらったけど、
どんなものかを体験を通して知って行くという。
そして大小の社会に混ざり、関わりながら知って行く。
家族でも様々でスタート自体が様々で不公平だと思うだろうけど、
生まれて来た時とかはそんな事も知らないし、気づかない。
社会に関わるようになって違いも知り、
自分の環境や状況、自分の人格にも気づいていく
よく幼児虐待されている赤ちゃんなんかは他を知らないからその時の自分や親が当たり前だと思っている。
たまに児童相談所に引き取られても親の元へ帰りたいという子供が居るそうだけど、そういう事だろう、どんな親でも当たり前に自分の親。
北朝鮮のように他の国と情報が分断されていると他の幸不幸も知らないと同じように。
自分にとっての幸不幸を探していく旅のようなもの。
社会に混じるようになって勝手に比べだす。
どんどん自分の我が出てきて、それを表現しだす。
自分の小さな世界観の中に閉じこもり出したり、
自分の世界観の中に入れない様に拒否したり、
反対に我欲が強くなると、自己承認欲求や自己顕示欲となる。
これも本当の自分に気づいていないから
知りたい気持ちが境界線を越えてしまうのでしょう。
バランスなんですが、そのバランスが崩れると、
ところどころ、社会や人間関係にエラーが起こってくるのでしょう。
そもそもの事は分かっているのにエラーが起きてしまうという
我が事や眼の前の事になると観えなくなってしまうのですね
そんなエラーに関わる事すら煩わしいと逃避する人もいます。
その気持ちも解ります。
「どうでも良いわ!」と投げやりにもなります。
私もそんなエラーが起きて裏切られて、人間不信になって、
人と対話するのも嫌になった事もあります。
そんな時には「ベルトコンベアーの工場で目の前の事だけチェックして誰とも喋らない仕事しようかな」とか考えた事もありました。
まあそうなる前に自分の心を解決できたので未だに話す仕事です (^^;)
大概そのエラーはコミュニケーションエラーです。
昨日も言ったように、みんなが「意見交換する世の中」の概念ではないので難しい話ですが、
自分の器を大きくするというミッションは全ての人に与えられているので、
先ずは自身の事を考える事にした私です。
人には怒りや悲しみや、色んな感情がありますが
その沸点も違います。
また、対話の中でどの部分を切り取るかでも違います。
よく芸能人が週刊誌に投稿される時、喋った一部を切り取られ、
世の中の偏見や歪んだ評価に合う時があります。
それと同じようにです。
人との会話でもそもそもの価値観や視点が違うと
相手がどこを切り取って反論してくるか、怒って来るかもあります。
その人の視野も視点も狭いとエラーがどんどん酷い事に発展して行きます。
この世ではそんな事ざらに在ります。
その反論にまた反論したとしても収拾がつきません
たとえどちらも正論だったとしてもです。
自分にとっては正論なんでしょう。
そこには自分の器を広げ大きくするミッションがあるだけです。
それで傷つき心底辛い思いをしたとしても、
その思いをしているのは自分です。
自分が自分でそのエラーを分析し、自分の視野や視点を広げ、
相手の心や考えを吸収してやるしかない。
時間が必要な時もあるけど越えるしかない。
相手には相手の学びがある。ドラマがある。
そうやって小さな価値観の中で興奮したり憤慨した心を持ってしまった自分を許してやるしかない。
私が話しているスピリチュアルな話でも
在る事は確かです。
全ての人の人生ドラマの内のほんの一部を切り取っているかも知れないのです。
私の場合は初めて知った世界観だと気づいた時に、
切り取った世界がどんどん広がって来ただけだと思っています。
自分自身も全ての一部分、自分の心も考えも一部分
それは他の人もそうだと気づいただけ。
どんな切り取り方するか、切り取られるか。
出来るだけ大きく切り取れる自分に成長するだけ (^.^)
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