
そんな節目には生命や死についても改めて自分の意識と向き合う時だと思っている。
ある意味それらに対する価値観や概念のアップデートでもあります。
それを考えたのが人より少し早かったのか
結婚したぐらいからいろいろ考えていました。
もちろん途中書き換えでアップデートしてきましたが、
いつも言うように今生では早いのかも知れないけど、
魂年齢はうんと何百年何千年と生きていて
魂の終わりに近づいていたから早いと思うだけかも知れない。
人生の中に執着という意識を感じない。
ただ感じていないだけかも知れないけど、
幼い時から唯一子供が欲しいという事には執着していたと思う。
間違っている時にはまた何か体験が与えられるだろうと思っている。
昨日の記事の終わりに、お金が無くなる時には命も無くなる。
車で出掛けられなくなったら楽しい趣味も終わるので生きるのも終えて良い、そんな事を言っていました。
うちの父親も癌と宣告を受けて1年半で亡くなっていますが、
命の期限を言われたわけじゃないし、ちゃんと治療もしたけど、
その治療にも執着しませんでした。
並行にそれからは不思議に自分の執着を一つずつ手放していました。
頑固な、ある意味身勝手な父親でしたが、
その身勝手も人に迷惑もかける事も無く
真面目に自分の人生の為に生きていたと思えます。
孫が出来た時には自分のスケジュールは変える事は無いけど、
孫の為に、それも自分のためにやってて、
それでいてそれが祖父母のかすがいとなって、母親に尽くしたとも言え、
好きな事も出来なくなる前に潔く止めたり、
自分の基準でしたが、ここまでなら止めてしまおうとか…、
細かくは言い控えますが、
その潔さは私にとって凄く理解して取れました。
だから魂が肉体から抜ける瞬間も潔かったんだと思えるほどでした。
以前にも書いていますが、
自分で姿勢を整え、自分で印を組み、呼吸を整え一瞬で魂が抜けました。
私にとったら神秘体験を目の前で見せてもらったという感じです。
私にだから神様も見せてくれたんだと思いました。
最近では従妹が続けて亡くなっています。
母の姉(叔母)の子供(従妹)ですが、
3年程前にそこの弟が60歳で定年を迎え、
病気だった奥さんが亡くなりその49日の法要の晩に亡くなり、
つい先日、その兄が65歳で亡くなりました。
その従妹の人生も波瀾万丈なんですが、
優しくてカッコ良くて、真面目で…という。
中身も一言では語れないのが人生でという。
私のその叔母ですが、87歳でめちゃ元気です。
その叔父は97歳で昔に胃がんで手術もしていて最近では少し認知もあるとはいうものの元気です。
初めに息子の嫁さんを病気で余命宣告されていた時もショックで、
わが命と変えてやりたいと泣いていました。
それでも宣告されてからも5年程生きて忘れてしまう程でしたが、
なのに、お嫁さんが亡くなったと思ったら我が子で、
その落ち込みは辛かったと思います。
なのに、また我が子を見送るとは…、
声を掛けられないぐらいでした。
他にも我が子に先立たれる人も事故や災害や病気でも多くいますが、
命の順番ってって考えますよね。
ただ順番ではないし、個々の命、それぞれ尊重すべき命
それぞれ尊重すべき人生なのかなと思うし、
その中のひとつひとつの中に
メッセージと学びを与えてもらっているのかなと。
それを目にするのも残された人間への課題なのかと。
真摯に向き合いたいなと思うし、
それが先立った人への報いと感謝となるのかなと思います。
その気づきから自分の人生に置き換え
どう考えて行くのかなと思ってたりします。
でも共通して感じるのが「潔さ」なんです。
私がそこを捉えて、そんな視点で見ているだけかも知れないけど、
「潔さ」という所には
「執着」との関係が深いのかと思う。
「執着」にはいろいろありますが。
そんな事を考えさせてもらって答え合わせさせてもらってます。
今の時代、今の社会、時代の概念、時代の価値観、
そんな事に合わせながら答えを出して行こうと思います。
命に感謝です。
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