体験は自分のもので、こうやってブログに書いていると、
自分から離れて思いとか考えがまた誰かに振動し
離れると思いにふけり思い出しながら納得していき、そして愛おしく感じると…
そんな話をしました
自分の人生のすべての体験が愛おしく感じるって素敵な事です
そんな体験は一人の体験だけど、一人ではできないんですよね
たとえ人が目の前にいない体験だとしてもです
この世にいる限り、一人では何もできないです
森羅万象すべてもだし
物質次元の物がある限りもですよね
そうなると、人との関わりは切っても切れないものです
良い思いもたとえ策略でも思いの振動は関わりあっています
体験するたびにもその関わりは感情も共鳴し合い
相反する共鳴もです
その時の気づきもですよね
共鳴し合っているという事は同じく共有もしている
体験が愛おしい分、共有しているものも愛おしい
その向こうに人がいると思うとまたそんな人達も愛おしいと思えるように
子供を育てていると自分の未熟さにも気づくけど
子供も未熟さも見守り赦す事も出来るようになる
そうなると子供も愛おしい
そうなるとたとえ悪事を働く人でさえ本質を観ると未熟故
自分達にその未熟さを教えてくれているのか
そんな奥に自分の気付きを感じるのか
気づきって深いですよね
朝のウォーキングでマナーの悪い人見てうだうだ思っている次元じゃない
そこにも自分の気付きがあるんやろう
そう思うと、人の体験にもきっと意味あるんやろう
まあたまに迷惑行為はあかんやろうって言う人もいる
じゃあそういう人にもそれに意識が行くという共有があるんでしょうね
意識の精査するという事も気づきの共有ですもんね
必要な体験が自分にやってくると言うなら
必要なくなったと思えば良いんでしょう
そうなると意識が向いていたところも手放し、
後に人の未熟さも愛おしく思うか、気にならなくなる
次元は不思議だけど
意識で区切られていたり
空気清浄機で所々寄せられたり、綺麗にしたリ…
よくパラレルワールドなんていうのもそんな感じなのかな
(^.^)
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