昨日はせっかくの祝ってもらう善き日になると思ってたのに…って
ちょっと母との事で愚痴ってしまいました (^^;)
まあ愚痴って言う訳では無いんだけど、
世の中の人間関係でも心が通じ合わないとか理解し合えないという事は
とても辛い事だと思います。
赤の他人なら縁を切れば済む事だけど…
その縁だってまた違う人と同じような絡みはやって来ます。
身内となると直ぐには切れない縁ですね (>_<)
そんな時に私は常に心に留めている事があります。
心が通じない時も理解し合えない時にも
それに向き合っている自分の心を観るという事です。
そして何度もその時の事実を見直します。
もちろんその時でも相手の考えや心も考えて
理解しようと色んな角度から考えようとしますが、
自分側もしっかり観ようと思います。
通じ合えない自分の心は何なのか、何を求めているのか、間違っているのか、
そこら中の自分の心や考えを許しまくろうって思うんです。
そうなると相手側に対して腑に落ちない事も出て来るんですが、
それを変える事なんて出来ないし、
そのエネルギーはもの凄く大きく大変だと思ってるので。
とにかく自分です。
自分の見方かえる方が断然楽です (^.^)
ただただ事実を客観的に捉えて自分に素直に忠実になった方が後悔もない。
なので、自分の中に違和感が残らないようにしています。
そう思うと母親の事でも人間的に嫌いだとか憎いとか怒りと言った感情はありません。
自分の母親であっても我が子のように観てしまいます。
そう思うと一時は母親を情けないとか哀れに思ってしまった事もあります。
通じ合わないとか理解し合えなくて「辛い」とか「悲しい」というのは自分の感情ですから、何とでも消化できます。
ある意味開き直りでもありますが…。
親子の関わりは何も今に始まったわけではない、これまでに同じような事実は繰り返していますから (^^;)
何が問題かって、コミュニケーションが取れない事です。
心が通じない前に話しが出来ない。
会話にならない。
母親(相手)が自分の世界だけで話をして決めつけるという。
世間話ですらそうです。
「あんたとは世間話も出来ん!」って言われたりして (^^;)
発展的会話が取れない。
私のオットもそうです。
直ぐに決めつけて捨て台詞を吐くか、話を切る。
母親とオットがよく似ているなってある時期から思い始めた事があります。
会話にならないのも、自分で言葉で放っておきながら自分で後悔するところとか、でも自分が間違っているという事を認めない所とか、認めたとしても事を無かった事にするところ。
自己否定感が強く、被害妄想が強く、それでいて我を張り、感情的になり憤慨したり興奮するという。
私はその感情に乗っからないように気をつけようとするだけで、
目の前の一人芝居をあっけにとられてみてるばかり。
そんな母親とオットの二人の事を感じた時には
私自身に必要な縁だったんだなと強く感じました。
二人からはかなりの事に気づかされました。
いつもブログでも言ってますが、
私自身も自己肯定感低かったし、自信が持てなかったし、人に対しても超繊細で、幼い時は人見知りだったし、大人になっても変に心の先読みや裏読みをしながら顔色伺いおどおどしていました。
一人で心の中で会話を成立させて人に話せないでいました。
でもそうしているうちに自分の事を蔑ろにしている事にも気づき、
自分で自分を痛めつけている事にも気づき、
人のことも信じていないのかなって思い、
自分を大切にしたい、自分を愛したいと思えるように努力もしました。
そうなると段々と魂的にも堂々としてきたのかも知れません。
私は表面的には分かりませんが、
自分の中にも神鏡が在ると信じていますし、
その鏡を磨く事しか考えていませんから。
二人も私の中の鏡に映る自分が怖くなって行ったんだと思います。
だから無意識に私へ吠えるのかなって…。
魂の鏡は魂を映しますから…。
そんな関係に苦しんだ事もありましたが、
ある時に尊敬しているサイキッカーのウイリアムレーネンさんに理解してもらって凄く気が済んだんですが。
そのレーネンさんも伝えておられますが、
親であっても別の人生、義理や義務で関わる事はないと。
そう聞いた時に凄く納得したんです。
親もパートナーもただの縁
自分が成長した時には縁も切れる事だってあると。
たまたまこの世に生まれて来る時にその親を選んだけど、
たまたまこの世のある時にある課題に取り組む時にある相手を選んだけど、
その課題をクリアした時には縁もクリアすると。
輪廻転生も信じている私ですが、
何度も何度も魂は生まれ変わって
この地球上に生きると決めてやってきている。
生まれ変われば肉体は変わるけど魂は続きを生きる。
そう考えています。
私はもう生まれかわらなくても良いと思っていて、
出来る事ならもう地球上に生きるのを卒業したいと思いながら生きているんですが、
それはどういうことかというと、
思いや念を残さない、違和感は残さない、業やカルマも残さない、
心の自由を目指して行きたい
でも考えれば肉体が同じで、この今生でも、
生まれかわる事だって出来るよねって考えたりしました。
そうなるとたとえ親子でも縁が切れる事だってあり得るよねって思ったんです。
いつまでもこの世の縁に縛られなくても良いんだと。
その縁がたとえ血縁でもです。
先祖代々輪廻転生の縁なんて言うのもそういう事で繰り返されているんですもんね。
そんな考えの後に…長渕剛の新曲を披露している番組を見ていて…
その新曲の題名が「REBORN」でした (^.^)
「REBORN」って「生まれかわりました」とか「再生しました」という意味みたいです。
このコロナ禍の活動が止まっていた間にいろいろ考えが生まれて来たそうです。
どんな事があったって、自分が弱くて潰れたって、壊れたって、悪かったったとしても捨てて手放して、立ち止まって、また何度だって生まれ変われるという内容でした
何度でも生まれ変われるという、何度でも立ち上がるという、
生きるための希望、不変の希望
それを聴いてて、今生の肉体のままでも意識はいつでも生まれ変われるんだと感じました。
言葉では解っていても腹に落とし込むには足りなかったのか、
いつでも生まれ変わる時には縁も変わっていく。
何か「縁」というものにもっと深い見えない心の縛りを感じていたのかのかも知れない。
親子の縁、夫婦の縁という心の縛りを外してイイんだと、
自分にもっと許してやれば罪悪感もなく、心が楽になるんだと。 (^.^)
自分の縁は自分で作る
縁はどんな縁でも一期一会のようなもの。
たとえ血縁でも。
それでも魂は一つですから (^.^)
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