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緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

あとりえ "ぽみえ"

∞美容室です・・・完全予約制でマンツーマンでの完全技術∞ しっかりお話を聞き、丁寧な美容技術を提供させていただきます∞ 10:00~15:00(当日予約・時間外OK)不定休・・・ ★カット★カラー★パーマ★セット★着付けets.   ★スピリチュアルな会話もセッションもオーケーです ★

無駄話も必然。

2024-02-11 | 意識・無意識
  人との会話はいつでも必然だと思っている私だと常に話している (^.^)
それはどんな話でも必然だと。
無駄話だと分かっているようでも無駄ではない。

人生において起こる出来事にも無駄というものはないのと同じで、話す事にも無駄は無い。
何かのエネルギーの交流も起っているし、
意識の交流も起っているし、
ヒーリングも起っている。
どちら側がどうのこうのということは無い。
ただエネルギーというのは水と同じで上から下へ流れる。
川のように上流から下流へ、そしてそこに有る岩や石は大きな物から削られて細かい石に変わって大海へ流れる。

意識の交流があった時に塊が細かく砕かれて体の外へ流れて行く。
カラダ的に言うと物質的な毒素や便や尿となって排出されている。
便や尿が出るって有難い事ですね (^.^)

その話の事です。
無駄話だと思っていても必然だったりする話、
悩んでないよと言ってても無意識に話している事もあるのだって必然。
人に気づいてもらわなくても良いとか聞いてもらわなくても良いと思っていても無意識がそうする。
無意識がしぐさに出たり会話のテーマになったり。
自分は認識していないのに勝手にそうするのも必然なんです。

相手が弁護士や警察官やカウンセラーや医師に自らが相談とかする時には目的をもって話すので、自分も認識しますが。
どんな人に話している無意識の会話にも大事な必然が含まれてる !(^^)!

続く。


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今年は辰年ですね!!

2024-01-10 | 意識・無意識
  そうそう!!お正月初めの挨拶の時に触れようと思ってた話。
色々バタバタしてたり、疲れたりしててすっかり忘れていました!!
今年は辰年ですね (*'▽')
それに、元旦の大地震もあり、みんな言葉も選び選び他の皆さんも仰ってられるけど、何かまたそんな空気からはみ出すと不謹慎だという事になってしまいそうな、ブログにしてもどんなことを書くと差しさわりも無いかと考えておられる事でしょう。
私も仕事以外の時にテレビをつけていると、被災地のニュースがやっていますので、胸が詰まる思いはあるのですが、初日にブログで話したように、残った者は生きないといけないという情報がリアルに錯綜する苦しい時代ですねと。
方や被災地の情報で、方や大好きなキュンキュンドラマやお笑い番組やグルメや旅行の情報番組。
多分心もいろんな情報に翻弄されそうな感じでしょう。
それだけ心にも激しい振動が起こっているというわけです。

辰年の辰、手部を付けると振動の振、雨冠だと地震の震。
何か色々と影響がありそうだなと。
そんな年の初めの地震で振動でビックリだったというのもあるでしょうね (>_<)

私が下の龍の絵を描いたのは2018年の夏頃、
宇宙の絵ですが、インスピレーションを感じ
宇宙からのメッセージを受け取ったので、そのエネルギーを絵にしました。
それは愛のエネルギーですが、厳しく強いエネルギーがうねりながら降りてくるという情報でした。
その情報は人類の逆鱗に触れるという感じの厳しさだと。
それによって古い意識を掻き出し一掃されていくという事。
それまでにも人類の意識を読み取っていて、人類の表面の意識というより魂の意識ですが、
そんな時に宇宙からの必然的なメッセージだと理解した。
遺伝子レベル、細胞レベル、人類に強いエネルギーで押し寄せてくるエネルギー。

どんな風にどんなカタチになってこの3次元に降りてくるかなって思いながら観ていました。
そしたら次の年にコロナの状況が始まりました。
そこに込められた意図も理解しました。
それが今年の辰年へ繋がっているのか……、と。
なるほどね……。



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繋がりは切れているようで切れていない。

2023-12-03 | 意識・無意識
  縁が切れても、肉体から手離せても気が繋がっている場合もあります。
昨日も話したように思考回路や思考癖によって意識は繫がっている場合があるんです。
昨日にそんな記事を書いていて、フォロワーさんの記事を読んだ時に、ネットの繋がりに関連する記事が書かれていました。

普通の人間関係の縁は切れにくいがネットの縁は簡単に切ることが出来るというような感じ、
ネット検索とか、ネットの繋がりでも自分の脳にある意識によって繋がりが始まっています。
考えの答えを求めて検索したり、人と繋がりたくて検索したり、何かを求めて意識のスイッチや通じる回路を探しているんだと思います。
その答えが出た場合にすんなり腑に落ちればその線は切れたりするでしょう。
疑問が残ればまだ意識は繫がっていると思います。

また、ネットの人間関係も簡単に切れると思っているでしょうが、こちら側の意識が完全に切れるまで実際は意識は繫がっています。

人の事嫌いになったとして、絶交して離れたとしても、その人に対して思う事が残っていればいつまでも考えますよね、
それはまだ意識が残っている繋がっているという事です。
もっと言えば自分の感情や心でまだ繋がっているのです。

その感情や心は自分のものです。
相手に対して投げかけるのをやめたとしてもしっかり自分がその本質に向き合って自分なりの答えを出して納得するまでは繋がりは完全に切れる事はありません。
たとえその人ときれたとしてもまた同じ本質の問題で別の人と繋がります。
本質の問題は自分の中です。
そして本質と向き合うまではいつまでも求めてしまうのが自分の意識です。

私も婚姻関係を解消しようと思って、何度も思ったり考えたりしていました。
もしかしたら結婚する前の付き合っている時から問題や課題は抱えていたように思います。
結婚する時にはある意味既に恋というより愛、愛というより愛情、愛情というより同情だったかもしれません。

そして結婚してからも夫婦で向き合う事をしなかった、元旦那は常に逃げていた、
なので何度も離婚を考えたけど、別に嫌いな人じゃなかったし、
何でも許せていたし、生理的に嫌いじゃなかったので、
いつかきっと……、きっとどうにかなる……、
話し合いが出来れば……、なんて思いながら、
時は過ぎて行った (^^;)
その間に自分の器を大きくする事と、自己啓発で自分の人間性を磨く事、
そして、元旦那の人間性を受け入れる事に専念して、自分の人生を納得するまでは努力しようとしてきた。
自分の持っている問題や課題は必ず自分の中で消火し、浄化しようとした。
そうじゃないと後悔や無念が残って離婚してからもその人の事を考えて自分を責めたり自分の中の罪悪感とも戦ってしまうと思っていたから (^.^)

人のブログ記事を読んで繋がった事も意外と自分の中に残っているもんです。
それが良い事でも悪い事でもです。
特に自身の価値観や概念が正しいとか間違い、良いとか悪い、好きとか嫌い、どんな感情もです。

コメントに込めた言葉とか心の行き違いもそうです。
自身の意識をどう断ち切るかでしか消せないのです。
腹立たしい事があったとして自分の責任じゃなくて、自分が悪いわけじゃなくて、いじめられたり、追い込められたりして、もう終わりだと思っている事でも自分の中に意識の線が残っているといつまでも繋がってしまう事になる。

一度何かの縁で繋がった事、それが人間でも問題でも課題でも出来事も
意識が求めている、魂が求めている、宇宙が求めている
繋がるべくして繋がっている。

だからだと思いますがもっと自分の器や意識を大きくするために自分だけではなく家族という枠でもなく、社会よりも世界、世界でももっと細かく世界の人類、ネットやSNSで繋がり、自分自身が多様性に、ボーダーレスに広がっていく事をしているんだと。
過去の常識や価値観や概念を理解して納得して断ち切るしかない。
そしてその中心の自分自身がしっかり自己を持っていないとそれも難しいという事でしょうね。
世界が大きくなるほど精神的に障害が多いし大きいからです。
まあ実際今の世の中、精神的方面に圧力がかかっている人も多いですからね。

その弱い人が悪いわけではなく、本来その人の枠が大きくなっている時で、
中が命一杯な時。
人生の中で器を大きくしている分、中に詰めて行く光も多くないといけませんから。
風船を思い浮かべてみれば分かるように、
膨らんで破裂する寸前とでもいったような。
意外と開放して割れてしまえばどってことないんだけど、
膨らましている口というか、そのコンセントというか、それは自分自身なんですねきっと。
それを意識しながら事に向き合うと、本質から納得できると思っている。
自身の中もスッキリ縁を切る事が出来ると。



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自己肯定感の話で。

2023-10-13 | 意識・無意識
  よくブログにでも話している、自分自身が自己肯定感低かったと (^^;)
まあそれも40過ぎて自分の事を好きになろうと思い出して自分分析とか自分の事を知ろうとして初めてこんなにも自分が自分の事を肯定してやれてなかったと気づいた次第で (>_<)
そんな分析をしている間には、ひがみや妬み卑屈などといった自分の感情もあったと認め、きっと誰にでもある感情でも自分となると認めづらい感情にも向き合ったりして、
口癖を変えていったりした。
「だって」「でもね」「だけどね」という否定語も相手に対してだけでなく、自信のなさから自身を否定してたりする。
言い続けると自身の発した言葉で脳をコントロールしてしまうもんです。
中々いろんな自身を認めたとしても、知らないうちに自身の言葉で自分を否定していたり、自身を傷つけたりしている。
相手ばかりを肯定して配慮して自身を傷つけていた事にも気づく。

それもある意味、反対に、時に、自分の傲慢だという事にも気づいたり。
相手の事を思ってやっている事でも自分勝手な傲慢な事だってある。

そしてそれが、傲慢な自分勝手だとしても、そこに気づくためのものであって、気づいたなら自分を責める事をするもんではないという事にも気づく。
時に反省も必要だけど、反省も前向きの構築の反省なら良いけど、自身を責めるだけの反省や後悔は何も生まれない。

元々自己肯定感低い人間は何かあると自分の責任だと、自分が悪いんだと、無意識に言葉や態度で自分を責めてしまう。
傲慢になり過ぎるのも駄目だと思うけど、どこまで自分のジャッジを下げるねん!!、という。

私がそんな事に気づきだすと、
周りの友達、主婦にも意外と自身の何気ない言葉で自身を否定している人が多い事に気づく。
せっかく前向きなったり、変わろうとしている矢先に言葉が自己否定する。
そんな事も少なくない。
言葉、口癖って、奥深い!!

主婦が少しでも時間やお金の使い方を間違ったとしたら自分は働いてないのにアカン事したと責め、だらだらしている自分が悪いと決めつけ思い込み、仕事をやめたとしたら嫌々行ってた自分が悪かったと言い、そんな話を聴いてて……、
嫌々とか、間違ったとか、だらだらとか、アカン事だとかこんな否定語でもほんとにそうなのかを勝手に決めつけるものでもない。

主婦でもちゃんと家事という仕事しているし、自分で決めた仕事に頑張って行っていたことも事実だし、間違っているのか正しいのかという価値観で決めて良いのかそもそも考えを改める必要は無いのか、
本質のところをしっかり理解して解決しないと上辺の自分の言葉でいつまでもそこに向き合えない。

そしてそんな親が子供育てたらどうだろう。
そんな人たちが社会や組織を構築しているとしたらどうだろう。
それが教育者だったらどうだろう。

自己肯定感低かった私も自分を立て直しながら自尊心を取り戻そうとやって来た。口癖に気づきながら (^^;)
自分の肯定感を育てて行かないと、人も肯定できませんから。
自分を尊重しないと人も尊重できません。

そんな事を考えだしてからは、新たに気づいた事もあった。
自分を肯定したいと考えだすと、相手の事も肯定したくなるんです。
自分に縁があった人の全ても肯定したい

そうなると、相手に完璧や正義をも求めてしまうかも知れない。
いや、求めていたかも知れない。
そして、相手の駄目なところを見つけて治してあげたくなったかもしれないと。
その完璧が病気や痛みでも治るのにどうして向き合わないのかって思ったりして。
病気や痛みがその人の個性や特色だったりするのに何故気づいて肯定してあげれないのかって思ったり。
それは相手を肯定するつもりでも否定的に観ていたかも知れない。
相手のためかも知れないけど、それも自分の勝手な自分のためだと。
そうこうしている間に自分を俯瞰して人を客観的に観る事をして人のそのままを尊重するようにはなりましたが (^^;)

それに、完璧とか正義という事ではなく、バランスを取るという事でですが。
それでも無意識に求めていたとしたら面倒くさい人間やったかな、威圧感を与えてたかなと思い悩んだ時代もあった。

自己肯定感低いと一言で言ってもその奥は深いし、
そこから抜け出すにも少々時間は必要だなと。
体重が何年もかけて増えてきたというのにすんなりダイエットできるかと言えば難しい、というのと同じかな (^^;)

昔にリーディングする人に鑑定してもらった時に、
「あなたは人のバランスを取る人です」と言われた事があって、
あ~そうなんだと納得したけど、余程でない限り、否定的に観ることは無く客観的な自分を造ろうと意識しだした。

自己肯定感高いとか低いとかという事でもやっぱり「優劣」として観ている自分に向き合う事だっただけですよね。

今となっては自分の事どんなところも好きだと思えるし、自尊心を育てて来たプロセスを信じている。
なので、自分自身が自己肯定感低かったという言葉を発する事も卒業しないといけないねと !(^^)!

変わった自分を認めるより、頑張ったプロセスを認めてあげる方が良いんでしょうね (*^^)v



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無意識の域へ取り込む。

2023-10-11 | 意識・無意識

昨日までは哲学するという話をしていました。
その最後に……、体験と共に得た気づきを解釈し、理解し、納得し、精査し、
後は、無意識の中に取り込むトレーニング。

この、「無意識の中へ取り込む」トレーニングに多少時間を要するのです !(^^)!
よくスピリチュアルもですが、心理学でもワークショップに行ったり、講演や講話やもしくは説法を聴きに行ったとしても、
最後の無意識へ取り込むことをしないでいる事が多いんです。
下手に依存してマインドコントールしてしまう事もあるというのにね (^^;)

どんな風に解釈して理解して検証して確認して納得までのプロセスが中途半端では駄目で、
その時に俯瞰と客観性が無ければ難しくて、となるんです。


話は変わりますが、
こんな事を記事にしている時、
今度地域のさくらフェスティバルに出るウクレレ弾き語りの課題曲を練習していて、
去年は、やり始めて3ヶ月ぐらいだったので何も分からないままに頑張って、
もちろん楽譜スタンドもあるし、後ろで間違ったとしても誰かがいるわと他力本願でやってたんですが (^^;)

今年もそんなに上手くなったわけじゃないんですが、
夏に友達の前でやった事もあり、意識も随分前向きになってきてる変化が (^.^)

なので、課題曲が決まってからそんなに期間は無いんだけど、
暗譜と暗唱をしようと思ってしまったんです (^^;)

思ってしまったという自信の無さの現れですが (>_<)
昔子供の頃にピアノを習っていた頃とか、高校時代の吹部でトランペットをしていた頃、視力が悪くて、楽譜を見るのが苦手だったころ、
よく直ぐに暗譜をしていたんです。
まあ間違えますけど、間違えた時に楽譜でその場所を見つけるのが大変でした!!
それでも暗譜に頼ってたし、意外と覚えれたのは今考えると不思議です (^.^)
若くて脳も活性化してたんですね、
年取るとともに、思考の脳を使うようになって有意識を使う機会が多くなったからですね (^^;)


そして、今回の暗譜!!
出来たりする時もあるけどすぐ忘れてしまう。
そして暗唱を同時にするとすっかり真っ白になってしまう!!
久しぶりに脳を動かしている気分です (>_<)

でもやるっきゃない!!
どれだけ数を熟すかもあるけど、
同時に覚えようとしても駄目だという事に気づき、
楽譜は楽譜、それも見ずに、思い出す事を繰り返す。
歌もそう!!お風呂の中でも歌いまくる(^^;)
それでも同時にやろうとしたら狂う (^.^)

太極拳でもだけど、
覚えようとしてもなかなか覚えられないけど、
何週か休むとすっかり忘れてると思いきや体が覚えてたりする。
そして無意識に任せてやっているうちに、え?って意識すると真っ白に抜ける!!

これが、昨日に話していた無意識の域に取り込むって事と同じ様だなと !(^^)!
トレーニングの間って結構大変、気も落ち込むし、メゲル。

余程、好きであるか、夢中か、楽しいか、歓びか愛か感謝かというこんな事が心の土台か糧か (^^;)
真反対の同じ大きさのハングリーさかですね。
ハングリーや嫉妬や憎さや怒りなどといったものはエネルギーも削がれます。
その先の光(喜びや楽しみや感謝)を観ているならそのハングリーも同じような大きなエネルギーを出せるでしょうが。
高次の無意識の域へ……、ですね。
どちらでも無意識に取り込めたとしても、取り込んだ後には無意識の域も重たくなったりするので、出来るだけやっぱり楽しみながらとかの方が良いですね (^.^)

私も暗譜して弾きながら歌う時には、楽しむことを忘れんようにしようという事を課題で、いつもリアクション薄いもんで、体を揺らしながらリズムに乗りながらで特訓してみようかなと思ってます !(^^)!

後5週間ある!!
頑張りまぁ~す ヽ(^。^)ノ
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