私の探究を通しての考え方とか意識の変化を綴っています
霊体幽体の次元から宇宙意識というものを知っていく事になりましたという事です
霊能力や超能力という人間にも本来の潜在能力というものがあるという事にも出遭いました
そして人との出会いがあれば人からの卒業もあるという事も知りました
それは、自分自身の人生のその時に必要な人や出来事がやって来て、必要なくなったら別れもやってくると言う事でした
人間の魂は本来一つのもので、そこからの分離でこの世にやって来ていて、また一つのところに戻るために、学び気づき成長して魂の部分に戻って行くという感じです
この世で関わる人は一方的ではなく相互にその手助けをしながら関わりあいながら戻ろうとしています
この世で出会っている時には、その表面上、観えている人間しか見えていないし、出来事も起きている事実しか見えていないだけです
こんな風に思えるようになったのもKさん、Yさん、Mさんを師と仰ぎ、普段の生活にも悩んだりしながら自分の課題を見つけ、
それを丁寧に対応して、たくさんの体験を積み重ね、悟り、腹に落とし込み、
その一つ一つを点として記憶してきた事によるもんだと思っています
自分の人生哲学として構築してきたんだなぁ~って思っています
昔、美輪明宏さんが言っていた…「人生は哲学する」と。
そんな事をやっているんだって本当に思いました
そんな哲学と言っても私には論文を読むとか、今までに教えてもらった人にも教科書というものが無く、
よくスピリチュアルと言えば、先達さんがいて、その人も中には神様や宇宙意識が降りて来たと言いますが、それを著書にまとめたり、実技を教えたりしてくれています
外国の有名な人に会いに行ったり、勉強しに行ったり、
もうそこには組織や団体というものがあったりして、何かが違うとか、違和感があるなと思う私がいたりして
教科書のまんまが良いのかという思いもありました
なので、自分でも分からない事を不思議な事をやっている自分を解析して説いていく事にしました
言語化していくといった事です
と言っても、頭が良い訳でもないし、話が上手だという事でもない
美容師をしていても技術屋ですし、見て覚えてやって来た人間ですから、ただの話好きの世間話しかできません
でも有難い事に勉強会やヒーリング会から一緒に卒業した人がいます
それに、私達より前にMさんに違和感を覚えていた人がいて、離れた人がいたのでその人とそんな話を共有した後に一緒に勉強し合いましょうという事になりました
そこでは同じように習って、同じように体験してきた人達だけど、私の方が一先ず先に不思議に気づいたり、不思議に体験したし、それまでの私の変化もその不思議も観ていてくれた人達なので、すんなり宇宙と繋がり、メッセージを降ろすような事をするようになりました
でもそうしながらでも自分の魂がしていることを自分でも観ていましたし、聞いていましたので、解析していく事と言語化していく事に出会って行くようになりました
それも自分の体験と同時にお釈迦様の言葉にたどり着いたり
イエスキリストだったり、大日如来の意識だったり
それが本当にその人の言葉なのかそうでないのかはもうその時にはどっちでもよくて、その真理が私にとって大事だと分かっていたので。
人を崇拝するのではなくて、真理を学ぶと。
真理もですが、能力的にもです
手や体が自動に動くことがどうなのか、自動で話す事がどうなのか
これは言語化というよりは、科学や物理といった域になっていきました
肉体は細胞で出来ている細胞が動いている
何が動かしているのか、脳?神経?意識?が動かしている
どんどん探究心が深まっていきました
そうなると、神様も大切だけど、もっと大きな世界観じゃないと…
「神様」という言葉にしてしまうと、もう既に人類にとっては世界でもそうだけど概念が枠にはまってしまっているので受け取る認識が歪んでいきます
既に、世界では一神教だったりするのに日本は八百万の神ですもんね
それらの元があるはずです
魂は一つで人類も本来は一つ
それでも地球でも大陸が分かれているし、人種も違う
それなのに一つだと言われても分離の繰り返し、奪い合いの繰り返し、それに関わり闘いの繰り返し…という事をやっています
本当は一つなのにそれぞれの国や時代や土地や風習によっての学びが繰り広げられているだけです
それぞれに「神様」の概念が違い、人類を低次元に縛り付けてしまっています
もう神様という言葉もつかえないようになっていたりします
その枠から人類の意識が解放されないと解釈できない事が起こっているということに気づき出しました
いつになっても、自分の概念の枠を広げるんだという事ですよね
思い込みの中にいたり、頑固に自分の意識を持ち続けていては解釈できない事、説明できない事があるという事です
宇宙の銀河の星でも毎瞬爆発と分裂が起こっているけど、地球もそうです、その中にいる人間もたまたま肉体は持っていても意識の塊です
細胞の意識レベルで自分の人生と繋げて解釈しないと答えが出せない
本当は答なんか無い、ただただ体験の星だと思わないと悩みになるという事も気づいてきました
こんな事を宇宙の意識と繋がりながら勉強して、それを人に解かりやすく、普段の生活にリンクさせながら説明して…という事を数年してきました
人に説明する事で自分も二度三度理解が進み、落とし込めます
それが哲学的な言葉に整理されていったんです
そう体験も共に、説明も聞きと言っても人生は一人一人のものなんです
なので、その人自身の生まれ持った課題も違うし、自分で気づき自分で答えを出さにといけないんです
その方法しか伝えられないんです
それが、やっぱり難しい
私と共に勉強していた人達は、私より十年も多く人生を生きている人だったんで、育った時代も違うし、生き抜いていた時代も違う、その分経験も多いので教わる事も多いけど、邪魔意識の思い込みや思い違い、環境が育てる我欲の大きさも違うので
スピリチュアルを学んでいますよというだけで満足していては手放す物も多くて大きくて、難しいんですね
それに年を重ねている分小さな「我」は手放せても一番のこの世に生まれた目的の「我」を捨てるとなると、自分との闘いも出てきますから大変です
自分と自分の魂と喧嘩するといった事が起こります
その魂の役者が私なんで、喧嘩の的は私となりますが、それまで教えてくれてありがとうと言っていた人が急に暴言を浴びせられるという事になるんですよね、それでも私は客観的ですが、相手は我失っています
スピリチュアルはただの勉強ではないという事が気づいた私には収穫ですが、人にとったら苦しみです
それを一生懸命になって言葉化にすると言う事は、この3次元に私も意識を降ろさないといけないので、また3次元に留まる時間も増えて戻ってしまうんです
感覚で取り入れられるように感覚で伝えるんですが、意識がどうしても働くんですね
ここで右脳と左脳がという話になるんです
右脳で潜在意識の奥と繋がりますが左脳で処理します
それなのに左脳を使うのに偏ると自分も楽しくなくなるんです
人の理解を進めるのに苦労しだしたんです
そして私が楽しくないと、相手も楽しくなくなる、そうなると人は余計に3次元の意識が出てきてしまうので、また私はそれをどうしてあげれるかという事に意識がいってしまう
またそもそもがそれが間違いだと知っているのに
人の気付きは自由ですから…縛る事はしてはいけません
そう至った私はその勉強会からも離れました
勉強会解散しました
私も自分の真理は大方自分のものになりました
その感覚で生きていけると思っています
なんならこの世も卒業してもいいかと思っているぐらいですが、まだ生きているという事は生かされているんですよね
何か残っているんでしょう
今は地球自体がかなり最終変動起きている時なのでもう少し自分の内側の宇宙に意識しておきたいところで、
そんな宇宙からのエネルギーを感じていたのも自分もそうだけど、この世で関わりの深かった今の家族、
自分の周りの小惑星でもある家族の意識(私との関わり)を整理する時なのかもしれないなとも思っています
感謝と責任ありますもんね (^.^)