蒲公英の絮

四季折々の花や空の写真と、自己流俳句で日々を綴ります。

紅葉

2022-11-11 23:15:00 | 日記














       飛行機雲ぐにゃり曲がって紅葉晴














       紅葉ひとひら夕暮れを急ぎ足














      逆光の皇帝ダリア冬浅し














      忘れもの思い出せずに冬茜






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伯母の「一代記」

2022-11-11 14:57:00 | 日記











       一冊を旅して戻る冬灯し























       冬すみれかな百年を生きし伯母



昨日、我が妹から、絵本が届いた。
伯母の102歳までの事を書いた 〈第一部〉 伯母の半世紀と、
〈第二部〉伯母の流儀 を書き加え、「一代記」としたという。
妹は「冊子」と謙遜するが、美しい色の表紙と、散りばめられたイラスト(弟担当)、そしてそつの無い文章(勿論、妹。)
どれをとっても「絵本」
高尚な歴史の絵本である。

私の変なクセで、本の後書きを始めに読む。…しかもその前ページの弟のコメント。この2ページでもう感情が壊れた。情緒崩壊、涙腺決壊、である。
涙が止まらない。1ページ読む度涙が止まらない。
伯母の声、顔、姿が浮かぶ。決して人の悪口を言わない。不平不満を口にしない。穏やかで慎ましくいつも、陰ながらの役割に徹していた…。
財産は、私たち甥姪に使ったようなもの、自分の為にお金を使うことなど多分なかった。

生涯、善良を貫き通し104年の長寿を全うした伯母。


(昨夜は、伯母の100年を振り返ると共に我が来し方も蘇る「旅」をした思い。泣きながら。)

身内自慢はやはり見苦しい。
なので、この辺で辞めたい。

情緒が安定した今宵。
見直して、これは、と思うページがある。
100年を超え生きてきた伯母だからこそ、遭遇した歴史の数々。
東京のど真ん中で生まれ育ったからこそ、の歴史の目撃者にもなった。
以下は、妹の文をほぼそのまま。「」は伯母の言葉なので、そのままに。

【長くなります。歴史の好きな方はお付き合いください。】

100年余りも生きていれば、何度も歴史の大きな節目に遭遇する。
東京府東京市日本橋区に生まれ育った伯母。たまたまながらも、そこは日本の政治、経済の中心地、なればこその大事件もあった。伯母が今も鮮明に覚えているいくつかのできごと。

①関東大震災

「永代橋の方に逃げる人も多かったけどね、誰かが日比谷公園に迎えって叫んだの。それで助かったのね。」
1923(大正12)年9月1日に起こった関東大震災に、遭遇したのは、伯母がもうすぐ七歳、という時。
95年以上も昔の事だけれど、未曾有の天変地異の記憶は、幼い脳裏に刻み込まれ、ふとした折に蘇る。
「あんなに広い日比谷公園が避難してきた人でいっぱいになってね。暑かったから水を手に入れるのが大変だった。マキちゃん(伯母の妹、私たちの母)は一歳になったばかりだったからね、辛かったと思うのよ。身体が弱くなっちゃったのも、あの時の野宿のせいね、きっと。」

妹を気遣う伯母自身が、まだ小学1年生。妹を背負って水や食糧の配給をもらいにいったり、崩れ落ち、焼き尽くされた蛎殻町の自宅の片付けに戻る父親のお供をしたり、すでに長女の自覚と風格を持っていた.…

②ニ・ニ六事件

「とにかくあの日の朝は世間中がし〜んとなってね。何が起こっているのかはわからないの。わからないんだけれど、とにかく静まりかえっていた。
マキちゃんは学校に出かけたけれど、着いた途端に帰れって。でも何も聞かされないで帰されたから、何もわからないまま。空気が教えてくれたようなものね。」

1936(昭和11)年2月26日明け方に起こった陸軍将校のクーデター未遂事件。1500人近くの兵隊が、皇居周辺や都心のあちこちで総理大臣はじめ政府要人を襲撃、日本の政治のど真ん中一帯を四日間に渡り占拠した。
蛎殻町から近いところなら3キロメートル程の至近距離で、起こった歴史に残る大事件、伯母が19歳の娘盛りで家事見習いのころ。

九段坂をのぼったあたりの女学校に通う妹をいつものように見送って、いつものように家の中の仕事を片付けていたけれど、いつもと違う空気だった、と折に触れて思い出す。
「あの人達だって、指令が出るまで動けないんだから、大変だったのよ。夜中も立て籠ったまま。なんだかわからないまま終わったのね。」

伯母は誰がいいとも悪いとも、決して評価はしない。でも、よく覚えている。

③ 東京大空襲

「空襲の時はね、母は東華小学校の方に、逃げていったけど、私は2階から下に降りただけ。
私が逃げないものだから、父はどうしていいかわからないのね。家を出たり入ったり、ウロウロしてた。当時もう60歳を少し超えていたけれど、地区の役員をしてたのね。でも、空襲の時はもう誰も何もやってなかったわ。」

伯母の記憶の中で空襲の恐怖が占める割合は高くはない。たぶん、話しているのは1945(昭和20)年3月10日の大空襲のことだろうけれど、東京はその前にも後にも何度も空襲を受けている。

「ここもそうだけど、秋葉原あたりも火災になってないのよ。永代橋あたりまで道がまっすぐ続いているけれど、そこは爆弾を落としていない。
聖路加や築地も無事だった。向こうのひとは上手なのよ。ただ脅かすだけ。」

戦後の記録によれば日本橋区の空襲罹災率は、50パーセント。壊滅的な被害を受けた本所、深川に近い隅田川方面が大変な状況だった一方で、伯母の住む蛎殻町一帯は焼かれずに済んだ。
それにしても爆撃されている間は恐ろしかったに違いないし、逃げ惑ったはずと思うのだけれど、伯母の話しの中には出てこない。

(伯母のご主人は、この年昭和20年10月8日、中華民国湖南省の病院で亡くなったそうである。
結婚してわずか2年半のこと。)

妹が、この聞き取りをした時は、伯母が百歳の頃。まだまだ元気で記憶力の確かさに驚く。


ここまで長々と読んでくださった方、ありがとうございます。

伯母の一代記の続きは、もしかしたら書くかもしれません。が。

一代記とは別に、伯母の思い出は、多分折に触れ、俳句と共に書く可能性は大です。







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