種まく人から人々へと・ 命の器(いのちのうつわ)

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ルベン・ダリオ生誕150年 再生への詩作(思索)

2017-05-28 02:45:28 | 文学・芸術
ニカラグア詩人のルベン・ダリオ(1867-1916)は、奇しくも夏目漱石と生没年が夏目漱石と同じである。
そこで、ルベン・ダリオ「夜曲」三篇
日本語訳を、優れた論考である、以下の、棚瀬 あずさ氏の『存在の不確かさの彼方へ
ルベン・ダリオ「夜曲」における生と死』

https://www.google.co.jp/url?sa=t&source=web&rct=j&url=http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/54187&ved=0ahUKEwjE-dfOyJDUAhXDU7wKHUgtC_QQFggcMAA&usg=AFQjCNHvG1njDUjhCHElhcRZs1VWiUT83g
から一部を引用しながら紹介したい。

夜曲(『生命と希望の歌』その他の詩篇 5/第一夜曲)

わたしの苦しみを詩に表そう、その詩は語るだろう、
廃された、薔薇と夢のわが青春のこと、
そして莫大な痛みと心配りの小ささから
苦くも花を摘み取られたわが人生のことを。
それから、かすかに見える船で行くおぼろな東方への旅と、
冒瀆の花を咲かせた祈祷の穀粒と、
水たまりのあいだで迷う白鳥の狼狽と、
望まぬボヘミアンの、作りものの夜の青のことを。
遠くのクラビコードよ、きみは沈黙と忘却の中にいて
決して夢に崇高なソナタを与えてくれはしなかった。
みなしごの船、名高い樹木、
夜が銀色の甘さでやわらかにつつむ暗がりの巣……
みずみずしい草の香りをたたえた希望、
春の朝の小夜啼鳥のさえずり、
不幸な宿命によってへし折られた白百合、
幸せの探索、悪の追求……
一生にわたる内なる責め苦をなすであろう
神聖な毒を収めた不吉な壺、
わたしたち人間という泥がもつ恐ろしい意識と
みずからをつかの間の存在だと感じることの恐怖、絶え間ない
おののきを覚えながら、避けられない未知へと向かって
手探りで進むことの恐怖、そしてこの
号泣に満ちた眠りが見せる残虐な悪夢、
わたしたちをこの悪夢から覚ますのは〈彼女〉しかいない!


夜曲(『生命と希望の歌』その他の詩篇 32/第二夜曲)

夜の心音を聴診器でとらえた者たちよ、
執拗な不眠のさなかで聞いた者たちよ、
扉が閉じる音を、遠くの車の
唸りを、あいまいな響きを、かすかなざわめきを……
謎めいた静けさのひととき、
忘れ去られた人々が監獄から現れ出るころ、
死者たちの時刻、休息の時刻に、
きみたちは苦しみのしみとおったこの詩句を理解することだろう……
グラスへ注ぐようにして、わたしはその中に注ぎこむ、
遠い記憶と不吉な悲運の痛みを、
花に酔い痴れた魂の悲しいノスタルジアを、
祭りの悲しみに憑かれた心の疼きを。
そして、あるべき自分ではなくなったことの嘆き、
わたしのために存在していた王国を失ったこと、
一瞬の差で生まれなかったかもしれないという思い、
それから、生まれて以来のわが生である夢を!
これらはすべて、深い静けさの間に訪れる。
静けさの中、夜が地上の幻影を包みこむ。
そしてわたしは感じるのだ、おのれの心臓を貫き動かす
世界の心臓が鼓動するようだと。


夜曲(『放浪の歌』/第三夜曲)

夜の静けさ、夜、満ちわたる
痛いほどの静けさ…… 魂はなぜこんなふうに震えるのだろう?
聞こえる、ざらざらと、自分の血の流れるのが。
わたしの頭蓋の中を、静かな嵐が過ぎてゆく。
不眠! それは眠れないこと、そしてそれなのに
夢を見ること。みずからの精神を断片に
解剖してゆく、わたしというハムレット!
わが悲しみを
夜のワインへ、
闇の驚くべき結晶へ、溶かしこむこと。
そして独語する。———夜明けは何時に来るだろう?
扉が閉じられた……
誰かが通り過ぎた……
時計は十三時を打った……〈彼女〉だろうか!

Ⅰ 序
19 世紀末のイスパノアメリカに起こった文学運動モデルニスモ 1
は、その中核的役割を担っていた詩人ルベン・ダリオ(1867-1916)が 1899 年初めにブエノスアイレスからマドリードへ移住したことに促されて、スペインへと波及する。ダリオは大西洋の両岸で文学的名声を得た一方で、精神的な平穏からは遠ざかっていったらしい。酒に溺れ、金を使い果たしては友人に借金を乞いながら、各地をさまよい暮らす悲劇的な詩人———晩年の彼には、こんなイメージがまといついている。
ダリオが活動の拠点をスペインに移した時期は、彼の作風が変化する時期と重なる。ブエノスアイレスで活動した 1890 年代のダリオの詩には、神話や異国のモチーフを多用しながら、視覚や聴覚にとっての心地よさ、官能的な快楽など、いわば感覚的な美を讃えるものが多いが、1900 年代以降の彼の詩は、内的な思索へと向かった。
「夜曲」“Nocturno”と題された三篇の詩は、そのような内省の詩を代表する作品である。
うち二篇は詩集『生命と希望の歌』Cantos de vida y esperanza(1905)に、一篇は詩集『放
浪の歌』El canto errante(1907)に収められている。三篇の「夜曲」において、詩人は夜を舞台に、みずからの過去を回顧し、人生を嘆く。同じような嘆きは『生命と希望の歌』以降のダリオの他の詩にも見られるが、なかでも「夜曲」は「わたしの苦しみを詩に表そう」“Quiero expresar mi angustia en versos …”というような、きわだって直接的な表現による苦しみの告白が印象深い。本稿では、『生命と希望の歌』の二篇を第一夜曲(「わたしの苦しみを詩に表そう」)、第二夜曲(「夜の心音を聴診器でとらえた者たちよ」“Los que auscultasteis el corazón de la noche, …”)、『放浪の歌』の一篇を第三夜曲(「夜の静けさ」
“Silencio de la noche, …”)と呼ぶこととしよう。夜という題材は、とりわけロマン派の詩人に好まれた。主観を重視し、自己にとっての真実を探求しようとする彼らにとって、世界が闇に包まれる夜は、内面へと向かう思索のための格好の舞台だったのである。このような感性は、モデルニスモ期のスペイン語圏にも浸透して夜の詩を多く生み、詩人たちはそれらに好んで「夜曲」という題を付けた。
当時、ダリオ以前にも、フリアン・デル・カサル、ホセ・アスンシオン・シルバ、フアン・ラモン・ヒメネスなどが、「夜曲」の題を持つ詩を発表している。「夜曲」という語を作品の題に用いることは、もともとは音楽の領域で始まったことから、おそらく語がもたらす音楽への連想が、詩の音楽性を重視するモデルニスモの詩人たちの気に入ったのだろう。ダリオの「夜曲」は、したがってまさに当時の流行に則った作品だと言える。しかし、これから確認するように、夜という舞台はダリオの「夜曲」において、詩の主題との間に分かちがたい関係を結びながら、固有の詩的表現を生み出しており、このことがダリオの「夜曲」を、モデルニスモの詩人たちによる「夜曲」の中でも、またダリオの数ある作品の中でも、忘れがたいものにしている。
本稿において着目するのは、ダリオの三篇の「夜曲」が分かち合う共通の比喩の構造、すなわち、生と死に対応する、眠りと目覚めである。三篇は、不眠の夜という状況設定だけでなく、この構造が支える一貫した主題によって結び合った、一種の連作と捉えることができるのである。


鰹売りいかなる人を酔はすらん(芭蕉)330年前貞享4年(1687年)初夏

2017-05-21 03:42:47 | 地域情報

はるばる秋田から来られた方々と神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある『鎌倉歴史文化交流館』https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/annai/shisetsu/97_rekishibunka.html
を見学いたしました。

また扇ガ谷には、鎌倉駅西口から今小路に入ると土蔵造りの建物がある。大変に立派で珍しい、まさに『蔵の家』である。
 正面左手に『民家再生奨励賞』のプレートがある。そこに、『明治21年(1888年)に建てられた秋田県湯沢市の酒蔵を平成16年(2004年)に移築したものであり、『結(ゆい)の蔵』と新たに命名されたと記載され、秋田県と鎌倉市の『結(ゆい)』、つまり結ばれた関係(絆)の象徴であり、さらに『湯沢市』でもあることが、まさに何かの縁(えにし)を強く感じます。

詳しくは、『結の蔵、民家移築再生はこうして行われた』http://www.o-sekkei.com/works/photos/04_yuinokura/yuinokura.html

このような形で、鎌倉と秋田は『結ばれている』のだが、話を『鎌倉歴史文化交流館』に戻すと、エントランスから建築物の荘厳な西洋建築の外観に、とても感銘を受けました。内部には和式建築があり、『和洋』の橋渡しとして内部で結ばれることに気づき、いっそう驚きました。

個別の展示物の感想などはさておいて(ぜひ実際に『鎌倉歴史文化交流館』に足を運ばれてください)、昼食を前にして、徒然草で鰹(かつお)が言及されている掲示が目を引いた。

鰹そのものの風物詩(歴史)は、以下の
『カツオのあれこれ - 神奈川県農林水産情報センター』に詳しい。以下、関連のある箇所の一部を抜粋。

・・・治承4(1180)年8月、源頼朝が伊豆で平家追討の兵をあげましたが、石橋山の戦いに破れ、真鶴岬から海路安房に逃れました。このとき、帆走している舟に1尾のカツオが跳ねて飛び込んできましたので、頼朝は縁起が良いと喜び、そばにあった硯を引き寄せ、その墨に5本の指をつけて、その魚の横腹にズーッと平行な5本の線を引いて逃がしたそうです。それ以後、カツオの横腹には5本の縞模様がつくようになったと伝えられ、鎌倉市腰越地区では、カツオは源氏の神魚(イオ)とされました。ちなみに、平清盛の逸話に登場してくるスズキは平家のイオといわれています。

(4)鎌倉時代
 前代であれほど重要な魚であったカツオは、この時代になって朝廷や公家から見放されるようになってきます。これは、前代末期に出された肉食禁止令のためともいわれていますが、この時代になって下品な魚として取り扱われたためのようです。
 この時代の主要な水産物を記した日本漁業史(昭和22年12月発行、山口和夫著)によると、蔭涼軒日録(永享8(1436)年~明応2(1493)年)や実隆公記(文明6(1474)年~天文4(1535)年)、御湯殿の上の日記(文明9(1477)年~天正(1586)年間)、多聞院日記(文明10(1478)年~天和4(1684)年)に記載された海産魚の回数は、タイが245回、スズキ164回、タラ77回、エイ15回、サメ10回、サバ・ブリ・ハモ・カツオが7回、サヨリ5回、ホウボウ4回、コチ・シビ・ボラ1回となっています。
 延喜式であれほどたくさん各地から送られ重宝がられた堅魚がこれらの日記にはほとんどみられなくなっています。元徳2(1330)年に成立した徒然草(吉田兼好著)には次のように書かれています。
 鎌倉の海にカツオという魚は、この境には変わりなきものにて、この頃もてなすものなり。それを鎌倉の年寄りの申し侍りしには、この魚おのれら若りし世までには、はかばかしき人の前に出づること侍らざりき。頭は下部も食わず、切り捨て侍らしものなりと申しき。かやうなものも、世の末なれば、上ざままでも入りたつわざこそ侍れ。
 カツオは、昔食べなかった魚だが、この頃では幕府の上のものも食べるようになった、と兼好法師は話していますが、この話はカツオにたとえて幕府を誹謗している話とする説があります。いずれにしても、この頃には鎌倉武士が好んでカツオを食べ始めましたので、一時期衰退していたカツオ漁業が息を吹き返して再び盛んになってきました。
 当時のカツオ漁業は、治承2(1178)年に原型ができあがった山家集(西行法師著)には、伊良湖崎に堅魚釣り舟並びて浮きてはやちの浪に浮かびてぞ寄る、と歌われていますので、この頃もカツオは釣りでとられていたことがわかります。http://www.agri-kanagawa.jp/suisoken/Sakana/Misc/Katsuo/より引用

江戸時代の俳人『山口素堂』(1642(寛永19)年~1716(享保元)年)の句、『目には青葉山ほととぎすはつ松魚(かつお)』やまた『松尾芭蕉』寛永21年(1644年) - 元禄7年1(1694年)の「鎌倉を生きて出でけむ初鰹」のように『カツオ』は高価で珍重されていた。
一方、なぜだか兼好法師(吉田兼好:鎌倉時代末期から南北朝時代)の徒然草の第119段にあるように「鰹は下種な魚」という見解もあるようだ。
鰹は『松魚』とも漢字で書き、まさに『松尾』芭蕉とつながる。まさに松竹梅と御目出度いことである。

まずは『徒然草』の第百十九番目を、以下の古文と現代語訳を対比しながら読んで、汲み取ってみましょう。

[古文] 鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。
かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ候れ。

[現代語訳] 鎌倉の海で獲れるカツオという魚は、鎌倉辺りでは並ぶ物のない良いものだとして、もてはやされている魚だ。そのカツオは、鎌倉の老人が申し上げるには、『この魚は、わしらが若かった時分には、身分のある人が食べる物じゃありませんでした。カツオの頭など、手下どもでも食べずに切って捨てていたものです』という。
こんなものでも、世も末ならば、身分のある人の食卓にまで入り込んでくるようでございます。


「鎌倉あたりでは最近、鰹という魚が、二つとない結構な物になっている。だがそこの或る老人は『こんなもの(鰹)は上流階級の食膳にはのぼらなかった』。今じゃ身分の高い人も食べるという、あーなんと嘆かわしい」という。「鰹(かつお)は下種(げす)な魚との評価であります。

一方、『かつお』は「勝男」に通じ、鎌倉時代における武士たちが縁起をかついだと思われる。例えば、鎌倉武士は鎧の下にヒタタレを着用しましたが、その生地は身近に上総の望陀布(もうだのぬの)があるにかかわらず、遠方の飾磨(しかま)の褐染(かちぞめ)を用いました。それは褐(かち)が勝(かち)に通ずるからです。

蜻蛉が『勝ち虫』と呼ばれる由来

トンボは勝ち虫とよばれ縁起物であり、前にしか進まず退かないところから、「不転退(退くに転ぜず、決して退却をしない)」の精神を表すものとして、特に武士に喜ばれた。
戦国時代には兜や鎧、箙(えびら)刀の鍔(つば)などの武具、陣羽織や印籠の装飾に用いられた。

トンボを勝ち虫とする由来は、雄略天皇が狩に出かけた際に詠んだ歌

古語

み吉野の 袁牟漏が嶽に 猪鹿伏すと 誰ぞ 大前に奏す
やすみしし 我が大君の 猪鹿待つと 呉座に坐し
白栲の 衣手著具ふ 手腓に 虻かきつき その虻を 蜻蛉早咋い
かくの如 名に負はむと そらみつ 倭の国を 蜻蛉島とふ

現代語訳

吉野の 袁牟漏が嶽に 猪や鹿がたくさんいると
誰かが 大王に言上したのか
大王は 猪や鹿の現れるのを待って 呉座に座っていたところ
白い服の袖の上から 大王の腕に 虻が噛み付いた その虻を
蜻蛉(とんぼ)が素早くくわえて飛んでいった
このように 蜻蛉のその名を受けて この大和の国を蜻蛉島(あきつしま)と言う

上記の(古事記)が元になっている。

素早く飛び回り、前進するのみで後退しない姿から武士に好まれたともいわれる。このようにトンボの絵が多く描かれるのは、トンボに『勝虫』の異名があるからです。

こうした縁起をかつぐといったような背景的な知識や内なる『つながり(絆)』を知れば、鰹は下種(げす)なものではなく、松魚(かつお)はこうして、『勝男(かつお)』に転じ、特に鎌倉の武士階級からは『鰹』が重宝されてきたのです。

蔵と鎌倉歴史文化交流館、古代と現代、和式と洋式、秋田と鎌倉など、互いに遠く離れたことなども、『お互いを善く知る』ことで『鎌倉歴史文化交流館』や『結(ゆい)の蔵』のように、内なる処で深く結ばれていることを、ここに慶び(昆布)、お目出度い(鯛)『結び』の話しの、まさに『納(おさめ)』といたします。

海外詩の影響とその紹介など

2017-05-16 23:20:09 | 文学・芸術

文芸関係の知人から、現代詩手帳が送られてきました。知人はベトナム詩を共訳されていました。
かつて、世界詩人会議で、ベトナム詩人とも交流があり、海外の詩人から、『あれだけ戦争で痛めつけられたのに、アメリカで(歯科医)として成功しているのはすごい』と評価されていました❗

国際色豊かな批評や解釈ができる複数の知人(世界の詩人)がいることは、今後とも励みになります❗

今年は、モンゴルでも世界詩人会議があります。http://www.mend-ooyo.mn/news/370.html

The 37th World Congress of Poets will be held in Mongolia
In Prague, the Boards of the WAAC announced Mongolia as the host country to organize the 37th World Congress of Poets (WCP) in August of 2017.

Mongolian poet G.Mend-Ooyo was elected as the president of the congress.
It was in 2006 when the WCP was last held in Mongolia. We are honored and delighted to host this international event once again, after a period of 11 years.
Since 1969, the WCP has taken place in many countries and has become a podium for poets from around the world to make their voices heard for world peace.The 37th WCP is themed "The mind of nature and the nature of the mind".
The multilingual poetry festival will take place in Ulaanbaatar and the Gobi desert, and the program will introduce you to Mongolian history, culture, nomadic life, and ancient and contemporary literature. We dedicate the event to the friends, scholars, and translators of poetry from the five continents.

共訳されていた『ベトナム詩』は、正直言いますと数回読んだだけでは、直接すぐには解釈しきれませんが、訳詩の付記にある背景的な解釈にて、何か腑に落ちる感がありました。

共訳者のお一方はかなり以前に恩師から、紹介されお会いしたことがありました。
直々に、今後はこのような方が次世代の詩の世界をリードしていくのだと仰っていました。
こうした詩の世界の交流を通じて、現世的な狭い世界を乗り越えていけることに心から感謝いたします。

知人の一人は、今年度はボリビアに行かれるそうです。ボリビアは、あのチェ・ゲバラがちょうど今から50年前に没した国でもあります!ゲバラ関連の著作では、『ロシナンテの肋』を書かれた『戸井十月』氏も良いですね❗戸井十月氏は資料中心の解釈ではなく、まさに旅の体験を通じて現地での邂逅が『人間観』や『世界観』を深めてくれます❗

またボリビアと言えば、シモン・ボリバルのリベルタドールの国、 あの民族詩人のホセ=マルティ、彼らの『人間の解放への魂』が、革命家たちの原動力、またネルーダなど複数の詩人たちの創作の源泉になったことは、間違いないと信じます。

ボリビアの語源ともなるシモン・ボリバルの思想は、パン=アメリカ主義ともいわれ南・北・カリブ海地方を含めたアメリカ大陸を一つの国家として独立させることが究極目標ですが、そこまで行く前段階として同じアメリカ(大陸)人が、いがみ合うことなく連帯しようという思想です。
提唱者はシモン=ボリーバル。南米ベネズエラ出身のリベルタドール(解放者=独立運動指導者)です。彼の考え方は19世紀末以降、モンロー主義(ヨーロッパからの孤立主義)をとるアメリカ合衆国によって利用され、アメリカ合衆国を盟主とするアメリカ諸国の団結にすり替えられます。1889年ワシントンで開催されたパン=アメリカ会議がその舞台です。
それに対し、本来の意味のパン=アメリカ主義として、南北アメリカ大陸民衆の連帯と団結を呼びかけたのが、19世紀末キューバのスペインからの独立を求めて戦った民族詩人のホセ=マルティでした。
しかし米西戦争後アメリカ合衆国の保護国となり、植民地状態が続いたキューバやその他のラテンアメリカの「真の独立」を求めて、戦った革命家がアルゼンチン出身のエルネスト=チェ=ゲバラであったわけです。

チリのガブリエラ・ミストラルやパブロ・ネルーダなど中南米詩では、『田村さと子先生』の訳詩が素晴らしい。アルゼンチンのチェ・ゲバラの故郷であるロサリオの詩祭にアルゼンチンの詩人にかつて誘われた。そこでの田村さと子教授のスペイン語でのスピーチに対する満場の拍手が強く印象に残っている。

最後に、今年度2017年、生誕150年になりますニカラグア詩人の『ルベン・ダリオ』の詩を贈ります。

最後のスタンザがとても響きます❗

Beheld the Cross uplifted and, before
That sacred Conqueror,
The fallen Sphinx, a corpse already cold.

by Ruben Dario

En La Muerte De Un Poeta
(With English Translation)

El pensador llegó a la barca negra:
y le vieron hundirse
en las brumas del lago del Misterio,
los ojos de los Cisnes.

Su manto de poeta
reconocieron los ilustres lises,
y el laurel y la espina entremezclados
sobre la frente triste.

A lo lejos alzábanse los muros
de la ciudad teológica en que vive
la sempiterna Paz. La negra barca
llegó a la ansiada costa y el sublime
espíritu gozó la suma gracia:
y vió la cruz erguirse,
y halló al pie de la sacra Vencedora
el helado cadáver de la Esfinge.


English Translation

On the Death of a Poet

Only the Swans that day
Saw the high maker of our thoughts embark
And on the Lake Mysterious fade away
In the black ship that crosses to the dark.

The poet's robe was his,
Embroidered with illustrious fleurs-de-lys;
And laurel leaf and thorn
His sad prefigured forehead did adorn.

Afar God's City rose,
Where everlasting Peace her throne has reared
Above the poppy-meadows of repose;
And as the coat of his desire he neared,
He proved divine delight, knew grace untold,
Beheld the Cross uplifted and, before
That sacred Conqueror,
The fallen Sphinx, a corpse already cold.

by Ruben Dario


歴史文化交流館 鎌倉に新名所誕生(平成29年5月15日から公開)

2017-05-16 05:27:08 | 地域情報

鎌倉市が同市扇ガ谷(おうぎがやつ)に整備を進めていた「鎌倉歴史文化交流館」が完成し、十二日に開館式と関係者向けの内覧会が行われた。一般公開は(五月)十五日から始まる。市は年間六万人の入館を見込んでおり、鎌倉の新名所になりそう。 (草間俊介)
 同館は、いずれも鉄筋コンクリート造りの本館(二階建て、延べ約千百四十平方メートル)と別館(平屋、約二百七十平方メートル)があり、鎌倉の古代から現代までの歴史を約二百五十点の出土品やジオラマ映像などで紹介する。第二次世界大戦中にユダヤ人を救い「日本のシンドラー」と称され、晩年を同市で過ごした外交官の杉原千畝(ちうね)氏の展示もある。
 交流館の場所は、以前は旺文社創業者で、英単語本の出版で知られる赤尾好夫氏の邸宅だった。同氏の死去後、土地は同氏が設立した財団、不動産管理会社、親族の所有となり、親族らが本館と別館の建物を建て、二〇〇四年に完成した。市によると、設計は英国の著名な建築家*ノーマン・フォスター氏が手掛けた。

*建築家ノーマン・フォスター氏の受賞歴
RIBAゴールドメダル(1983年)
AIAゴールドメダル(1994年)
プリツカー賞(1999年)
高松宮殿下記念世界文化賞(2002年)
スターリング賞(1998年、2004年)
アストゥリアス皇太子賞芸術部門
(2009年)

鎌倉市は一三年、親族所有分を市が三億円余で買い取る条件で、財団と管理会社から施設改修費十五億円と土地、建物の寄付を受け、全体を取得した。
 市は当時、鎌倉が世界文化遺産に登録される見通しに立って、ガイダンス施設を計画していたが、登録は成らず用途を再検討した。
 本館はもともと住宅として建てられており、市は十一億円余をかけ元の設計に配慮しながら展示施設に改装。本館内部は壁に仕切られ、奥へ進むにつれ外部風景を取り込み暗から明へ移行するというフォスター氏が設計した造りがそのまま残されている。
 青木豊館長は開館式で「多くの皆さまの協力で開館にこぎ着けた」などと感謝の言葉を述べた。
 日曜・休日は休館。午前十時〜午後四時(入館三時半まで)。入館料三百円(小中学生百円)。
東京新聞WEBより転載
https://www.google.co.jp/amp/amp.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201705/CK2017051302000158.html?espv=1

詳細は、以下の鎌倉市のホームページで
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/rekibun/koryukan-open.html

小林よしのり氏、国会で「共謀罪」に危機感表明

2017-05-13 04:34:16 | 教育 子育て

小林よしのり氏、国会でオウム事件・薬害エイズ事件の体験語り「共謀罪」に危機感表明
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170425-00010003-abema-soci&p=1

4月25日午前、
共謀罪の構成要件を改め、「テロ等準備罪」を新設する法案を審議している衆議院法務委員会に漫画家の小林よしのり氏が参考人として出席。オウム真理教事件で命の危険に晒された同氏だが、薬害エイズ事件の運動に関わった経験、漫画家としての立場から、「日本を北朝鮮のような国にしてはだめですよ!」などと訴え、法案への危機感を表明した。

 以下、小林氏の意見陳述ですが、前半の2/3は省略しています。

前略・・・

結局、わしのような人間っていうのは、基本的に権力を持っているわけじゃないですから。一市民ですよそりゃ。それで「物言う市民」です。わしはね。ほとんどの人は「物言わぬ市民」です。だから普段、自分たちがまさかね、そういう切羽詰まった状況に追いやられてね、何かやらなきゃいけないようなぐらいの感覚になるとは誰も思ってませんよ。ほとんどの人間がね、自分たちはただ安全に暮らしていくだけだから、たとえ監視されていたって、安全な方がいい、と思っているでしょう。

 けれどもね、「物言わぬ市民」は、あるとき「物言う市民」に変わってしまうことがあるんです。それはやっぱり、子どもが被害に遭うとかね、いろんな切羽詰まった状況になれば、物言わざるを得なくなるんですよ。そういう「物言う市民」をどう守るかっていうのはね、これは民主主義の要諦ですよ。これがなかったら民主主義は成立しませんよ。そうでしょう。だからわしは民主主義を守るためにもね、わしは自分のような「物言う市民」が必要だと思ってます。この世の中に必要だと思ってます。そういう人たちはですね、自分の言論を萎縮させるというようなことがあると、非常に困る。健全でない。

 わしは、自分は「保守」という立場だと思ってます。「保守」という立場は、決して権力を守るための存在ではありません。「公」を守るための存在だと思ってます。権力と公というのは、合致している時はとても良いんです。公を達成するために権力がちゃんと政策を実行していってくれれば。そうすると、わしも大変助かるんです。

 けれども、往々にして権力と公というのは分離して、ずれていくんですね、そういう時にですね、わしは権力と公、どっちにつくかっていうと公につきます。それで世の中の最大多数の人々がなるべく幸福になるような方法というものを見つけて、そのために闘わなければなりません。わしは今後も闘いますよ。これは宣言しておきますけど。この権力を自民党が握ろうと、民進党が握ろうと、共産党が握ったらもっと闘うかもしんないんですけど。(会場から笑い)

 とにもかくにも、権力に対してわしはなびくことはない。従順になることはない。公のためならば闘う。こういう、わし自身の宣言をしてるわけですから。そのためには、けっこうラジカルな手法もとるかもしれませんよ。こういうことを宣言するんだから、今から公安はわしのことを盗聴したり、メールを調べたりしますか?

 “組織ナントカ“というのは、わしも『ゴー宣道場』という、組織という風に見てしまえばそういうものになるようなのを経営してますから。ここで誰かと相談していたって大きく網をかけて、この組織の中で共謀しているのかって言われればね、なんだかんだでわしの情報が盗まれてしまうこともあるでしょう。

 大体、オウム真理教ほどのテロなんて、もう起こりませんよ。あれほど壮大なものはね。結局、オウム真理教問題でサリン等禁止令みたいな法律がもう出来ているわけでしょう?そういう部分でもかなり封じられている。日本国内で中核派がやるしょぼいテロなんて、火炎瓶吹っ飛ばすくらいなもんでしょう。大体、テロなんてものは海外から入ってくるもんですよ。そしたら水際で止めないとならないでしょう。本当だったら飛行場を民間の管理だけに任せていていいのかとか、国家がそこ管理しなければいけないんじゃないかとか。わしもしょっちゅうハワイとかに行きますけど、ものすごく入国のときの管理が厳しくなってしまいましたね。あれ、国家がやるようになったからでしょう。

 それよりも、共謀罪の非常に危険なところっていうのは、「物言う市民」というのが萎縮してしまって、民主主義が健全に成り立たなくなるんじゃないかっていうことなわけです。わしはその事を、自分自身が監視されないかっていうことを非常に危惧しております。

 一般国民は気づかないでしょう。「物言わぬ市民」である限りは、権力に対して従順な羊でいるかもしれません。だけどそのくらいエスカレートして、自分の情念がほとばしってしまうことはありますよ。それで権力と闘わなければいけないこともあるわけです。

 だから、そういう権力と闘う「物言う市民」を守ること自体が民主主義です。それを、今現在の短期的なことだけ考えたってだめ。政治家というのは、将来ずっと先にわたってこの国の民主主義が健全に発展するかどうかを考えて決断してほしい。ということをお願いして、わしの発言を終了します。
以上です