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種まく人から人々へと・ 命の器(いのちのうつわ)

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あなたの耳大丈夫? 第2回「あなたの耳の労わり方」 耳年齢測定・音楽療法的音楽会 付き

2020-07-04 21:23:33 | NPO 命・地球

あなたの耳大丈夫?

第2回「あなたの耳の労わり方」

耳年齢測定・音楽療法的音楽会 付き

令和2年8月19日(水)14:00~15:30

​深沢生涯学習センター 3階ホール

​定員50名(200名収容場所ですが、安全衛生確保の為、申込み先着順50名程度とさせて頂きます。)

〇 内 容 〇

1)ミニ講義(予定14:00~14:30)

  難聴の原理を説明し、昨年度結果報告と耳の聴こえのミニ実験をします。

  講師:菱田博俊

2)耳年齢測定(予定14:30~15:00)

  皆様の耳年齢を測定します。昨年の結果をお持ちの方は、お持ちください。

3)ミニ音楽会(予定15:00~15:30)耳に優しいピアノ演奏をお聴き下さい。

  演奏:菱田啓子

  曲目:ドビュッシー 亜麻色の髪の乙女

     ショパン 別れの曲

     ハーライン 星に願いを(JAZZバージョン)

     ベートーヴェン ピアノ奏鳴曲第8番「悲愴」第二楽章

付録)質疑討論会(事後30分程度?)皆様からのご質問にお答えします。

​  アンケートで皆さんの疑問や不安を共有したいとの声がありましたので、質疑討論会を行います。

〇 申 込 み 方 法 〇

・電子メールで、「ご氏名」「人数」「ご連絡先メールアドレス」をお知らせください。

 結果は折り返し返信させて頂きます<object height="0">grosshundi13@yahoo.co.jp</object>

 

・往復葉書で、お申込み下さい。

 送信葉書裏面に「ご氏名」「人数」「ご連絡先住所」を明記してください。

 間違い防止の観点から、お手数ですが返信葉書表面に返送先住所氏名をお書きください。

〒<object height="0"></object>248-0027 鎌倉市笛田2-37-7 菱田博俊

〇 そ の 他 〇

​    今回、公の広報を活用できませんので、ご家族様、ご友人様にも、幅広く本イベントのご案内を広めて頂ければ幸いです。特に、スマホを使う未成人の子供さんにも是非お勧めください。

​ 筆記用具をお持ちください。(昨年はご用意していましたが、感染対策として中止します。)

 状況如何で、中止になる事があります。申込みされた方には、その旨連絡を致します。

・問い合わせ先:上記メールアドレス、<object height="0"></object>090-8300-5871、    K子の音楽室


宮脇昭🌳木を植え続けている🌲森のリアル守護神

2020-01-05 03:01:00 | NPO 命・地球
2020年、早くも令和二年の新年を迎え、十二支考の南方熊楠のことを考えていたら、
宮脇昭氏のことも思い出しました。
ご存知の方も多いと思いますが、現在まて、4000万本の木を植えた宮脇昭氏は、
まさに南方熊楠から鎮守の森の守護神を引き継いでいる人物と考えます!

*木を植えた男と言うと、フランスの絵本やアニメを思い出しすかもしれませんね!

*「木を植えた男」という絵本があります。
http://www.study-mirai.org/views/020.htm より転載
二度の世界大戦をはさむ40年近くにわたって、フランス南部の荒れ野に、人知れず独りで数十万本、あるいは数百万本もの木を植え、広大な森を作った男の話です。原作者ジャン・ジオノが創造した主人公エルゼアール・ブフィエという人物の魅力と、絵の美しさで、私の大好きな絵本の一つです。カナダのアニメ作家、フレデリック・パックがアニメ化した作品は、1987年のアカデミー賞で短編アニメ賞を受賞しています。

 絵本の「木を植えた男」はあくまでもお話なのですが、実は最近ある本に出会い、日本には現実に3,000万本もの木を植えた人が実在していることを知りました。本の題名は「魂の森を行け」(一志治夫著)。描かれているのは日本の「木を植えた男」、いや「植え続けている男」、植物学者の宮脇昭先生です。

 宮脇先生は1928年生まれ、広島文理科大学や横浜国立大学、そして本場ドイツで植物学を学び、日本中の本来の植物の在りよう、「潜在自然植生」の調査に尽力、70年代からは、日本に本当の森を甦らせるための植樹活動を精力的に進めてきた方です。植樹活動に取り組むきっかけになったのは71年、環境問題への対応を考えはじめた新日本製鉄の依頼で、同社の工場の周りに森を作る仕事を引き受けたこと。その後、さまざまな企業や役所、自治体を巻き込んで、日本のいたるところ、さらには東南アジアや中国、南米にまで出掛けて、地元の人たちと一緒に木を植えていきます。

 先生が、そうやって多くの人々を巻き込んでいけたのは、森を作るための知識や技術の確かさが認められたのはもちろんですが、やはり、先生の情熱と人柄抜きには考えられなかったことだろうと思います。私自身は、本で読んだのとテレビで拝見しただけですが、本当に魅力的な方だと感じました。そのあたりは、この「魂の森を行け」をお読みいただければご理解いただけるでしょう。

 ジオノの「木を植えた男」に惹かれるのは、長い年月、たった独りで一つのことをやり続けたブフィエの、いわば「孤高」の気高さといったようなもののためだと思います。それと対照的に、宮脇先生はとにかく大勢の人を仕事に巻き込んでいきます。現実の宮脇先生と、お話のブフィエとを比べても意味はないのでしょうけれども、私が一番すごいなあと思ったのは、実はこの点でした。

 宮脇先生と一緒になって木を植えた人たちは、森の再生について、さらには環境の問題全般について、先生と認識を共有することになります。そのなかには、現時点で企業や役所を動かしている即戦力の人たちもいれば、未来の日本、未来の世界を背負う子供たちもいます。ここでも、先生の森作りの持論である「混ぜる、混ぜる、混ぜる」が実践されています。先生の活動は、森を甦らせるとともに、「人材の森」を育てることにもなっているのです。

 この本と宮脇先生のことを私に教えてくれたのも、先生と一緒にマレーシアに出掛けていって木を植えてきた女性です。20人ほどのボランティアツアーで旅費は自腹、有給休暇を取っての参加だったそうですが、彼女もやはり、先生が育てた人材の森の一本と言えるでしょう。彼女の人生において、宮脇先生との出会いは貴重な宝物になるのだと思いますが、私たちみんなの未来にとっては、先生を取り巻く彼女たちの存在こそが、たいへん大きな財産になっていくのではないでしょうか。

追記
2020年.オリンピックの年になり、オリンピック・スタジアムなど「木をふんだんに使っている」ことをアピールしている訳ですから、宮脇昭先生のような、植林や自然の再生についても考えて、行動したいものです!

追加情報
https://www.rinya.maff.go.jp/j/kikaku/hakusyo/27hakusyo/pdf/4topics.pdf より一部転載
2. 東京オリンピック・パラリンピック競技大会における木材利用
平成 32(2020)年に「2020 年東京オリンピック・パラリンピック競技大会」が開催されます。オリンピッ ク・パラリンピック競技大会は、世界の多くの方々から注目を集める4年に1度のスポーツの祭典です。こ のため、関連施設の建設資材や内装等に木材を利用することにより、木との触れ合いや木の良さ、木の文化 の伝統を保つ日本の素晴らしさや技術力を実感する機会を幅広く提供することや、木材の利用の促進につい ての理解の醸成を効果的に図ることが期待できます。これまでも、平成 10(1998)年に開催された長野オリ ンピック・パラリンピック冬季競技大会においては、世界最大級の木造の吊り屋根構造を用いたスケート競 技場である「エムウェーブ」が建設され、屋根の部分に地元産である信州カラマツの集成材(材積 2,800 m³) が使用されました。平成 27(2015)年には、国、東京都、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織 委員会で構成する木材利用に関するワーキングチームを開催するなど、施設等への木材利用の促進に向けた 取組が進められてきています。
このような中、「2020 年東京オリンピック・パラリンピック競技大会」の主要施設となる新国立競技場に ついては、平成 27(2015)年8月に「新国立競技場の整備計画」が決定されました。その際、特に配慮する べき事項として「木材の活用を図る」ことが盛り込まれました。同 12 月には、新国立競技場整備事業の事業 者に関する優先交渉権者(事業者)が決定され、平成 28(2016)年1月には、この事業者と基本設計及び実 施設計に関する契約が締結されました。
もり 選定された事業者の技術提案書において、新国立競技場は、「杜のスタジアム」として「広く市民に開かれ
た“木と緑のスタジアム”」、「臨場感と見やすさ、競技者の力を引き出す“皆のスタジアム”」、「持続的な森を 形成する大地に近い“環境共生型スタジアム”」、「コスト・工期を縮減する“シンプルな同断面の構成”」との 基本的考え方の下に、平成 28(2016)年 12 月から平成 31(2019)年 11 月末を工期として整備を進めるこ ととなっています。この技術提案書においては、スギ・カラマツといった木材と鉄のハイブリッド屋根構造 を採用するとともに、内装等において CLT(直交集成板)* 1 を活用することとなっており、屋根部分における 木材の利用量は約 1,800 m³とされています。
今後は、有明アリーナなど東京都が整備する競技会場や、選手村内の生活関連施設など東京オリンピック・ パラリンピック競技大会組織委員会が整備する仮設施設の整備も進められます。これらの施設においても木 材利用を推進していくことが重要です。

追加情報
東京オリンピック・パラリンピック競技大会における木材利用など
https://www.zennichiren.com/keijiban/kiji/181114.pdf


以下
https://www.inochi-no-mori.com/profile.htmlより転載

(*宮脇昭さんは)2015年に体調を崩した宮脇昭も大分回復し、今日では本の出版と「世界のスポーツの祭典」に向け、いのちの森づくりを世界に発信することに意欲を燃やしている。
本の出版については、宮脇昭が命を懸けてつくった日本植生誌10巻を再読しながら構想を練っているところである。また、「宮脇昭 わが人生」の出版を予定している。

4年に一度訪れるスポーツの祭典に、日本が神代の昔より続けてきた、木を植え森をつくる文化を世界に発信する事。人類が未来を健全に生き延びるために、国境を越え、民族・宗教など様々な枠を越えて、今すぐみんなが木を植え、森をつくる事。今まで世界で4000万本の木を植え続けてきた宮脇昭の実践を「いのちの森づくり草の根運動」として、この世界のスポーツの祭典にて広めて行くべく、多くの人に呼びかけている。

*宮脇昭
1928 年岡山県生まれ。
広島文理科大学生物学科卒業。
理学博士。

ドイツ国立植生研究所研究員、横浜国立大学教授、国際生態学会会長を経て、現在は横浜 国立大学名誉教授、公益財団法人地球環境戦略研究機関国際生態学センター長。 紫綬褒章、勲二等瑞宝章、第 15 回ブループラネット賞、1990 年度朝日章、日経地球環境 技術大賞、ゴールデンブルーメ章、チュクセン章等数々の賞を受賞し、今に至るまで森づ くりを続けている”4千万本の木を植えた男”。

以下
いのちの森づくり運動より
https://www.inochi-no-mori.com/concept.htmlより
いのちの森づくり2020

4年に一度のスポーツの祭典
世界のスポーツの祭典が 2020 年に東京で開催されます。
日本人は神代の昔より木を植え鎮守の森をつくり、守ってきました。

明治神宮100年
大正9年(1920)明治神宮が代々木の地に造営されました。境内の造成にあたっては全国各地から延べ 11 万人にも上る青年たちの真心こもる勤労奉仕が行われ、全国から 10 万本の樹木が奉献され、「市民の力」で環境風土に適した常緑広葉樹を主たる樹種に選定し「千年万年」と続く鎮守の森がつくられました。

2020年は、日本書紀1300年
日本書紀に、須佐之男命と息子の五十猛神が日本中に種を蒔いて あらゆる山が青々しい山になった話が記述されています。
すでに日本人は神代の昔より、植樹を行い環境を大切に守ってきた世界に誇る文化を持っています。

そこで、
今までに国内外1700ヶ所で4000万本以上の植樹を行ってきた宮脇昭のいのちの森づくり、そのプロセスと成果を世界に発信する 「2020年 宮脇昭の鎮守の森を世界に いのちの森づくり」を市民による草の根運動として展開していく企画を立ち上げていきたいと思っております。

2015年1月に体調を崩された先生も だいぶ回復され植樹ができるようになりました。

いのちの森づくりは、日本人が太古より続けてきた、森を守り、広げ、育ててきた“Chinju-no-Mori”、そのプロセスと成果を世界に発信することのできる未来志向の企画です。四年に一度訪れるスポーツの祭典に世界中のすべての地球市民が植樹をする、一人ひとりがあなた自身と、あなたの愛する人、あなたの隣人、人類を支えているすべての野生生物が共に生き延びるため世界中の地球市民のいのちを守るために土地本来の森をつくることは最低限の生態系(エコシステム)をローカルから地球規模で維持し、人類がこの緑の惑星地球で未来に向かって生き延び着実に発展するもっとも的確で正攻法の手段であることを理解していただく、宮脇昭と 1700か所で 4000 万本以上の植樹を行ったすべての企業、団体、個人に呼びかけ、自ら企画、運営して共に東京 2020 年に足下から額に汗し、手を大地に接して、小さな苗を植えていく。その成果とノウハウを東京 2020 オリンピック・パラリンピックで日本から世界に発信していく。
宮脇昭、いのちの森づくり運動です。

宮脇 昭

日本一多くの木を植えた男・宮脇昭
https://r5.quicca.com/~steiner/novalisnova/book/bookmark2004/nature/nature1.html より
2005.5.28.
■日本一多くの木を植えた男・宮脇昭
NHK放送出版協会2005.6.1.発行)
 
イオンショッピングセンターでの植樹祭というのは今や名物化しているが、
その陰には、この宮脇昭という人の働きがあった。
もちろんこの人は企業サイドの人ではないし、
ショッピングセンターでのこの仕事が主でももちろんない。
生物学・生態学のいわばタタキアゲである。
 
現在77歳(2005年時)
日本全国で1220カ所、世界中で1500カ以上の森づくりを、
ドングリなどから苗をつくりその土地にあった樹種を混植・密植する
「宮脇メソッド」という植樹法で行ってきている。
 
この「宮脇メソッド」のもとになっている考え方は
「潜在自然植生」というものであり、
これは宮脇さんがドイツ国立植生図研究所所長のチュクセン教授のもとで
まさに「現場」の積み重ねによって学んできたものだという。
 
日本でその「潜在自然植生」に近いのはいわゆる「鎮守の森」。
南方熊楠が守ろうとした神社の森である。
南方熊楠は鎮守の森を守ろうとしたが、
この宮脇昭という人は、その失われてきた植生を
復活させるためのエポックメーキングな活動を続けている。
 
宮脇昭ののこした大きな仕事のひとつに
『日本植生誌』全10巻という希有のものがあるが、
それによると、「今私たちの周りにある日本の照葉樹林は、
本来あるべき潜在自然植生域の、なんと0.06%にすぎない」という。
それが意味するものは、かぎりなく重い。
 
ぼく自身にもいえることだが、
森を歩いても、識別できる樹木はほんのわずかに限られている。
植生についてなどは推して知るべしである。
知らない、気づかないということは悲しいことである。
 
環境問題云々を語る以前に必要なのは、
身近にあるそうした植生などについても
意識的になるということなのだということもよくわかる。

クリスマスの鐘(I heard the bells on Christmas day)& Carol Of The Bells

2019-12-24 05:07:25 | NPO 命・地球

世紀末のクリスマスは、南米ペルーのアレキパの友人たちと過ごしていた!
あれから20年、
Feliz Navidad ‼︎ フェリス・ナビダ!

Feliz Navidad
Feliz Navidad
Feliz Navidad
Prospero año y Felicidad.

メリークリスマス
メリークリスマス
メリークリスマス
良い年と幸せが訪れますように


I heard the bells on Christmas day         クリスマスのなつかしい鐘は鳴る 

Their old familiar carols play,
And wild and sweet the words repeat

Of peace on earth, good will to men.        地に平和,人に安きあれとうたう


I thought how, as the day had come,        その日は来たるとすべての鐘鳴り

The belfries of all Christendom

Had rolled along th’unbroken song

Of peace on earth, good will to men.        地に平和,人に安きあれとうたう


And in despair I bowed my head:          平和の歌は空しく響けども

“There is no peace on earth,” I said,         

“For hate is strong and mocks the song

Of peace on earth, good will to men.”        地には望みもなくうなだれてあり


Then pealed the bells more loud and deep:     そのとき,さらに鐘は響きわたる

“God is not dead, nor doth he sleep;        「神は生きたもう,地に安きあれ」と

The wrong shall fail, the right prevail,

With peace on earth, good will to men.”


Till, ringing, singing, on its way,            歌声,鐘の音,夜,昼響きて

The world revolved from night to day,

A voice, a chime, a chant sublime,          

Of peace on earth, good will to men!         地に平和,人に安きあれとうたう

アメリカの詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローは1861年の夏、妻フランシスを大やけどで亡くしました。その年のクリスマス、彼は日記に「この時期は言葉にできないほど悲しい」と記し、翌年には「メリークリスマスと子どもたちは言うけれど、そういう気にはなれない」と記しました。南北戦争が長引いていた1863年、息子は彼の意に反して戦地に赴き、重傷を負いました。その年のクリスマス、教会の鐘が鳴り、辛い日の訪れを告げました。ロングフェローはペンを取り、「クリスマスの日、私は鐘の音を聞いた」と詩を書き始めました。

この詩は叙情的に始まりますが、途中で暗転します。特に大砲が轟音(ごうおん)を立てるという暴力的なイメージが描かれた第4節は、クリスマスキャロルには不釣り合いで、平和のメッセージをあざ笑うかのようです。彼の悲しみは、第5節と第6節で極まります。地震が全てを崩してしまったかのように「私は絶望して、うなだれ、『地に平和は無い』と言った」と記します。

しかし、その殺伐としたクリスマスの当日、抑えられない希望の響きを聞いて、詩人は最終節を書きました。「そのとき、鐘の音が鳴り響いた。ずっと深く、ずっと大きく。『神は死なない、眠ってもいない!悪は滅び、義は勝つ。地の上に平和が、み心にかなう人々にあるように』と。」

https://japanese-odb.org/2015/12/19/%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%AF%80/
より一部転載

*ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー
(1807年2月27日~1882年3月24日)は、アメリカ合衆国の詩人。

ダンテの「神曲」をアメリカで初めて翻訳した詩人です。

ロングフェローは存命中からアメリカで賞賛された詩人で、1877年の彼の70歳の誕生日はパレードや講演会、彼の詩の朗読会が行われたそうです。ロングフェローの作品は広い人気を集め、その詩は親しみやすく、分かりやすい題材を扱い、平明で、流麗な言葉を用いています。




Carol Of The Bells
music by Mykola Leontovych(1914)/ lyrics by Peter Wilhousky(1936)
「ウクライナの司祭であったミコラ・レオントヴィチによって1914年に作曲された楽曲。1936年にウクライナ人作曲家ピーター・ウィルウフスキーによって歌詞が作詞された」

Hark how the bells,
Sweet silver bells,
All seem to say,
Throw cares away

聴け 鐘の響きを
美しき銀の鐘
その音はまるで
慈愛を放つかのように

Christmas is here,
Bringing good cheer,
To young and old,
Meek and the bold.

聖なる夜がここに
素晴らしい喝采をもたらす
若き者や老いた者へ
慎ましき者や大胆な者へ

Ding dong ding dong
That is their song
With joyful ring
All caroling.

ディンドン ディンドン
これが鐘の歌
歓びの輪とともに
聖歌を奏でる

One seems to hear
Words of good cheer
From everywhere
Filling the air.

聴こえるようだ
元気づける言葉が
辺り一面から響き出し
空気を満たしている

Oh how they pound,
Raising the sound,
O'er hill and dale,
Telling their tale.

なんという震動
大きく鳴り響く音は
高い丘から深い谷へと
物語を伝える

Gaily they ring
While people sing
Songs of good cheer,
Christmas is here.

陽気に鐘は鳴る
人々が歌うあいだじゅう
歓喜の歌を
聖なる夜がここに

Merry, Merry, Merry, Merry Christmas,
Merry, Merry, Merry, Merry Christmas.

メリークリスマス
メリークリスマス

On on they send,
On without end,
Their joyful tone
To every home.

鐘は響き続ける
終わることのない
歓びの音色を
全ての家々へと

Ding dong ding dong
Ding dong ding dong

ディンドン ディンドン
ディンドン ディンドン






市民健康セミナー「あなたの耳 大丈夫?」鎌倉市

2019-08-22 07:03:39 | NPO 命・地球
市民健康セミナー「あなたの耳 大丈夫?」鎌倉市
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kouhou/kamakura/19/t190715-7.html より転載

かまくらヘルシーポイント対象イベント。
難聴発生のメカニズムの解説や耳年齢測定、ピアノ演奏など。
出演は菱田博俊さん、菱田啓子さん。各先着50人程度。
時間は10時00分~11時20分。小学4年以下は保護者同伴。

8月22日(木曜日)…深沢学習センター
8月24日(土曜日)…第一小学校

【問い合わせ】音楽で健康を考える会 0467-67-4325

「無数の叫びがあなたたちの助けを求めている 。」 M.ジュノー著「第三の兵士」より」

2019-08-15 10:52:21 | NPO 命・地球
マルセル・ジュノー博士へ、戦後74年の終戦記念日に

ジュノー医師が、かつて言った言葉です。
「ミッション(使命)の無い人生は人生ではない」

私の言霊です、「よろしければ、献血にでも行きませんか?小さなミッション(使命)です!」
ジュノー博士の顰にならう!

https://www.cool-susan.com/2015/10/20/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AB-%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8E%E3%83%BC%E5%8D%9A%E5%A3%AB/ より転載

マルセル・ジュノー博士 昭和20年(1945年)

 昭和20年8月9日、国際赤十字委員会から駐日主席代表に任命されたスイス人医師、マルセル・ジュノー博士(1904〜61)が、戦火を避けながら満州から飛行機で羽田に到着した。この日は日本が無条件降伏する6日前のことで、ちょうど2発目の原爆が長崎に投下された当日のことである。

 エチオピア戦争、スペイン内乱などを経験しているジュノー博士の任務は、日本における連合国捕虜の待遇を視察し調査することであった。ジュノー博士は東京で終戦を迎えると、ただちに連合軍捕虜3万4000人の解放に奔走した。米軍捕虜の待遇が彼の仕事であったが、最大の関心事は、むしろ原爆を受けた広島、長崎の惨状についてであった。

 原爆については厳重な箝口令が敷かれ、米軍から情報は得られなかった。しかし広島から東京に逃げてきた人たちの話しから、原爆被害の惨状を知ることができた。外務省から被爆地の写真を得たジュノー博士は、その写真をマッカーサーに突き付け、緊急援助を申し出て、医療物質の取り付けに成功しすると広島に向かった。

 9月7日、ジュノー博士は飛行機に15トンの救急医薬品を携え岩国飛行場に降り立ち、翌日、壊滅状態の広島に到着した。ジュノー博士はこれまで戦争の惨状を各地で見てきたが、原爆がもたらした広島の惨禍に大きな衝撃を受け、広島の原爆を「悪魔の仕業」と表現した。

 ジュノー博士は広島に救護所をつくり、外国人として初めて被爆者の治療に乗り出した。しかしジュノー博士の人道支援を遮るように、GHQ(連合軍総司令部)は原爆の機密保持と残虐性を隠すため、わずか4日間の滞在許可しか与えなかった。

 ジュノー博士は4日間の短い滞在中、被害調査という当初の目的を越え、救援作業に奔走し献身的に治療に当たった。15トンの救急医薬品にはペニシリン、サルファ剤、DDT、乾燥血漿など大量の医薬品や医療材料が含まれ、苦しみの極限にあった広島市民の命を救った。

 広島市内の病院や救護所では、生き残った医師や看護婦が被爆者の治療に全力を尽くしていが、医薬品が絶対的に不足し底をついていた。当時の広島には包帯もなく、浴衣を裂いて包帯代わりに使っていた。そのときジュノー博士が真っ白な包帯や乾燥血漿などの医薬品15トンを届けてくれたのである。これは1万人が1か月間治療できる量であった。まさに「干天の慈雨」である。地獄絵のごとき広島に一明の光を投げかけてくれた。

 ジュノー博士は昭和21年2月にジュネーブの赤十字本部に帰ると、直ちにアメリカ軍の原爆投下を糾弾するアピールを発表した。原爆の非人道性を告発し、核戦争防止の重要性を唱えた。ジュノー博士は、昭和34年に北朝鮮帰還問題で再来日したが、翌々年の36年6月16日、スイスで心臓発作のため急死、57歳であった。

 日本ではジュノー博士が広島の恩人であることを知るものは少なく、彼の功績は歴史の中に埋もれていた。昭和54年になって、広島県医師会が埋もれていたジュノー博士の人道的な業績を掘り起こし、広島市平和記念公園に記念碑を建立することになった。

 ジュノー博士の記念碑には、「1945年8月9日、赤十字国際委員会の駐日首席代表として来日。広島の原爆被災の惨状を聞くや、直ちに占領軍総司令部へ行き、ヒロシマ救援を強く要請。9月8日、調達した15トンの医薬品と共に廃墟の市街へ入り惨禍の実状を踏査、自らも被爆市民の治療に当る。博士の尽力でもたらされた医薬品は市内各救護所に配布され数知れぬ被爆者を救う。博士の人道的行為に感謝し、国際赤十字のヒューマニズムをたたえ永く記念してこれを建てる。ジュノー博士記念碑建立会」との献辞が彫られている。

 碑の裏面にはジュノー博士の著作「第三の兵士」の一文「無数の叫びが、あなたたちの助けを求めている」、が刻まれている。

 ジュノー博士記念碑が建てられた後、博士の遺徳を慕う人々は記念行事を企画。平成2年よりジュノー博士の命日に合わせ、 毎年6月16日に広島県医師会は「ジュノー記念祭」を行っている。

 ジュノー博士の記念碑は、博士の人道的行為に感謝して広島赤十字・原爆病院の玄関入り口にも建立されている。またジュノー博士の功績は、「世界の平和を求めて生きたドクター・ジュノー」の題名で、日本の中学3年の国語の教科書にも取り上げられた。広島の人たちにとってジュノー博士は忘れることのできない命の恩人である。ジュノー博士の持ち込んだ医薬品のケースなどは、広島平和記念資料館で見ることができる。

 ジュノー博士の半生は、回想録「ドクター・ジュノーの戦い」(昭和56年・勁草書房)、「ドクター・ジュノー武器なき勇者」(昭和54年・新潮社)につづられている。さらにジュノー博士を主人公とした映画「第三の兵士」が平成6年に完成している。

「無数の叫びがあなたたちの助けを求めている」
M.ジュノー著「第三の兵士」より」
武器なき勇者、マルセル・ジュノー博士

以下、日本赤十字のホームページより
2018年8月9日
http://www.jrc.or.jp/activity/international/news/180809_005375.html

1945年8月、世界で初めて核兵器が広島と長崎に投下され、多くの人々が犠牲となりました。原爆投下の影響を確かめるべく外国人医師として初めて広島入りしたのは、「ヒロシマの恩人」として今も慕われるマルセル・ジュノー博士でした。