種まく人から人々へと・ 命の器(いのちのうつわ)

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永瀬隆 『たった一人の戦後処理』とは

2016-08-13 22:31:19 | 市民国際交流協会
映画
『クワイ河に虹をかけた男』
たった一人の戦後処理。

https://www.ksb.co.jp/kuwaigawa_movie/sp.phpより

アジア太平洋戦争下、旧日本軍が建設した泰緬鉄道──
その死の鉄道」の贖罪と和解に生涯を捧げた永瀬隆・20年の記録

監督:満田 康弘
語り:森田 恵子、音楽:三好 麻友
CG:森 有香、編集:吉永 順平
MA:木村 信博、撮影:山田 寛、永澤 英人
制作:溝内 靖晃、黒田 雄二
配給:きろくびと
制作・著作:KSB瀬戸内海放送
2016年/日本/16:9/119分

イントロダクション

旧日本軍が建設した「死の鉄道」-。
その贖罪と和解に生涯を捧げた男がいた。
時に旧連合国捕虜や旧日本軍関係者の強い反発に遭いながら、彼は妻とともにその歩みを続けた。
元捕虜は彼を「握手できるただ一人の日本人」「レジェンド」と呼んだ。
一方、復員する日本軍12万人全員にタイ政府が「米と砂糖」を支給してくれた恩義に報いようと、学生らに奨学金を贈り続けた。
93年の生涯でタイへの巡礼は実に135回に及んだ。
これはその男の晩年を約20年間にわたって取材し続けた地元放送記者による記録である。

ストーリー

アジア太平洋戦争の最中の1942年7月、旧日本軍はタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設に着手した。ビルマ・インド方面への陸上補給路を確保するのが目的である。建設工事にはイギリス・オーストラリア・オランダなどの連合国捕虜6万人余と25万人以上の現地アジア人労務者を動員。20世紀初頭にイギリスが「10年はかかる」として断念した415kmのルートをわずか1年3カ月余りで完成させた。だが、食糧・薬品不足の中の長時間労働に加え、コレラ、赤痢などの伝染病が蔓延。捕虜約1万3千人、労務者推定数万人の犠牲を出した。

 永瀬隆は陸軍通訳として、タイ側の鉄道建設の拠点カンチャナブリ憲兵分隊に勤務するが、戦後まもなく連合軍が派遣した墓地捜索隊に同行し、悲劇の全容を目の当たりにする。この経験が永瀬を鉄道建設の犠牲者の慰霊に駆り立てた。一般日本人の海外渡航が自由化された1964年以来、妻の佳子さんと二人三脚で巡礼を開始。タイ訪問は生涯で135回を数えた。1976年にはクワイ河鉄橋で元捕虜と旧日本軍関係者の和解の再会事業を成功させ、旧連合国でもその名を知られる存在となった。

 もうひとつの活動の柱はタイへの恩返しだ。終戦後、タイ政府は復員する12万人の日本軍将兵全員に飯ごう1杯の米と中蓋1杯の砂糖を支給してくれた。連合軍側に内密に施された恩義に報いるため、1965年から自宅にタイ人留学生を受け入れ、1986年にはクワイ河平和基金を設立。学生に奨学金を贈り続けた。

 本作品では1994年2月の永瀬さん82回目のタイ巡礼を皮切りに永瀬さんの活動を追う。永瀬さんが元捕虜や元アジア人労務者、タイの元留学生や奨学生と築いた絆。戦後処理を放置してきた日本政府への怒り。戦中派としての複雑な心情と次世代へのメッセージ。様々な葛藤を抱えながらたどり着いた長い旅路の果てに永瀬さんが見たものとは?

上映劇場

東京都中野区
ポレポレ東中野
http://www.mmjp.or.jp/pole2/

★『クワイ河に虹をかけた男』 上映決定!

公開初日~上映最終日 8/27 ~ ~ ~ 9/16
作品データ 2016/日本/119分/16:9
タイムテーブル
12:30
料金
当日 : 一般 1700円 / 大学専門 1400円 / シニア 1100円
      高中 1100円 / 小学生以下 無料
前売 : 1300円(Pコード:466-860) 2016.8.27(土)公開
03-3371-0088

岡山県岡山市
シネマ・クレール岡山
2016.7.9(土)より先行上映
086-231-0019

監督プロフィール

満田 康弘 (みつだ やすひろ)

1961年香川県生まれ。1984年KSB瀬戸内海放送入社。主に報道・制作部門でニュース取材や番組制作に携わる。
現在、報道クリエイティブユニット岡山本社所属。
これまでに制作したドキュメンタリー番組

(永瀬さん関連)
1994年 テレメンタリー '94 たったひとりの戦後処理 ~もうひとつの“戦場にかける橋”物語~
1995年 終戦50周年記念特番 死の鉄道を超えて ~元陸軍通訳の50年~
2000年 55年目の恩返し ~メガネがつなぐ日タイ友好のきずな~
同 テレメンタリー2000 ナガセからの伝言 ~戦争のない世紀のために~

2001年 特別番組 僕の知らない戦争があった ~駆け出し俳優と元陸軍通訳の二人旅~

2008年 テレメンタリー2008 最後の巡礼 ~元陸軍通訳の終わらない戦後~

2009年 テレメンタリー2009 45年目のハネムーン ~病室からタイへ…覚悟の巡礼~

2011年 テレメンタリー2011 クワイ河に虹をかけた男 ~最終章・たったひとりの戦後処理~

永瀬さん年表

1918年(大正7年)
岡山県福田村(現岡山市南区福田)で出生
1941年(昭和16年)
青山学院文学部英語科を繰り上げ卒業
陸軍省に通訳として採用 南方へ出征
1943年(昭和17年)
カンチャナブリ憲兵分隊に勤務 泰緬鉄道に関わる
1945年(昭和20年)
連合軍の墓地捜索隊に同行
1946年(昭和21年)
タイから復員
岡山県進駐英印軍・米軍軍政部の通訳となる
1949年(昭和24年)
千葉県立佐原女子高校教諭となる(~53年)
1955年(昭和30年)
倉敷市で英語塾を開設
1962年(昭和37年)
佳子さんと結婚
1964年(昭和39年)
戦後初めてのタイ巡礼 以後毎年巡礼を続ける
1965年(昭和40年)
タイからの留学生受け入れ開始
1976年(昭和51年)
クワイ河鉄橋で連合軍元捕虜と和解の再会
1980年(昭和55年)
元アジア人労務者を探し当てる
1986年(昭和61年)
クワイ河平和寺院建立 クワイ河平和基金設立
1989年(平成元年)
初めてカウラ訪問
1992年(平成4年)
カンチャナブリ県名誉県民 岡山県三木記念賞受賞
1993年(平成5年)
エリック・ロマックス氏と再会
1994年(平成6年)
クワイ河平和基金の第1回看護学生奨学金授与式
1995年(平成7年)
クワイ河鉄橋で元捕虜と2回目の和解の再会
横浜市の英連邦戦死者墓地で追悼礼拝を開始
1997年(平成9年)
カンチャナブリ県の無医村で移動診療開始
2002年(平成14年)
英国政府から特別感謝状授与
2006年(平成18年)
タイに銅像が完成
2009年(平成21年)
タイに135回目最後の巡礼の旅 佳子さん死去
2011年(平成23年)
6月21日 93歳で死去

天皇陛下お言葉 象徴としてのお務めについて (全文)

2016-08-08 17:00:26 | 地域情報
天皇陛下お言葉
象徴としてのお務めについて
(全文)

 戦後七十年という大きな節目を過ぎ、二年後には、平成三十年を迎えます。

 私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。

 本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。

 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

 そのような中、何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

 私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ二ヶ月にわたって続き、その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

 始めにも述べましたように、憲法の下(もと)、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。

 国民の理解を得られることを、切に願っています。

杉原千畝氏 没後30年の命日7月31日

2016-08-02 19:51:26 | 市民国際交流協会

杉原千畝氏の命日を鎌倉霊園に没後30年ということもあり、息子を連れてお墓参りをしました。

杉原千畝氏の遺族関係の祭礼は、先日7月30日には、すでに行われていました。真新しい複数の献花や千羽鶴もともにお供えされていました。

昨今は、自らと異なるものを排除しようとするヘイトである憎しみやテロが拡がりつつある風潮の中で、聖書の一節にある、「隣人を自分のように愛しなさい」をまさに杉原千畝氏は実践しました。
「異なる民族にも愛を施しなさいという教え」を杉原千畝氏のありかたや行いを思い出しながら、愛の反対は、憎しみだけでなく、その根に無関心や無視といった社会的なネグレクトがあり、相模原市の事件でも象徴されているように、現在でもさらなる問題を引き起こしていることも認識いたしました。

下記の記事も参考にしてください❗

http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201607/CK2016073102000143.html

【神奈川】
「命のビザ」杉原千畝氏
没後30年 鎌倉で遺族ら祭礼

2016年7月31日

杉原千畝の没後30年の祭礼

第二次世界大戦中、のちに「命のビザ」と呼ばれる日本通過ビザを独断で大量発給して、ユダヤ難民をナチスドイツの迫害から救った外交官、杉原千畝(一九〇〇~八六年)の没後三十年となる三十一日を前に、遺族らによる祭礼が三十日、鎌倉市の鎌倉霊園で行われた。
 この日は千畝の長男、故弘樹さんの没後十五年の祭礼とあわせて行われた。弘樹さんの妻、美智さん、長女で千畝の孫まどかさんら遺族六人と、千畝の故郷、岐阜県八百津町の金子政則町長ら、約五十人が参列した。
参列者は、千畝の墓所前で祈りをささげたあと、祭場に移動。千畝と弘樹さんの遺影を飾った祭壇を前に、キリスト教式の祭礼が行われた。
 対中秀行司祭は「隣人を自分のように愛しなさい」などとする聖書の一節に触れ、「異なる民族にも愛を施しなさいという教えを実践した」と千畝の業績をたたえた。