はるばる秋田から来られた方々と神奈川県鎌倉市扇ガ谷にある『鎌倉歴史文化交流館』https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/annai/shisetsu/97_rekishibunka.html
を見学いたしました。
また扇ガ谷には、鎌倉駅西口から今小路に入ると土蔵造りの建物がある。大変に立派で珍しい、まさに『蔵の家』である。
正面左手に『民家再生奨励賞』のプレートがある。そこに、『明治21年(1888年)に建てられた秋田県湯沢市の酒蔵を平成16年(2004年)に移築したものであり、『結(ゆい)の蔵』と新たに命名されたと記載され、秋田県と鎌倉市の『結(ゆい)』、つまり結ばれた関係(絆)の象徴であり、さらに『湯沢市』でもあることが、まさに何かの縁(えにし)を強く感じます。
詳しくは、『結の蔵、民家移築再生はこうして行われた』http://www.o-sekkei.com/works/photos/04_yuinokura/yuinokura.html
このような形で、鎌倉と秋田は『結ばれている』のだが、話を『鎌倉歴史文化交流館』に戻すと、エントランスから建築物の荘厳な西洋建築の外観に、とても感銘を受けました。内部には和式建築があり、『和洋』の橋渡しとして内部で結ばれることに気づき、いっそう驚きました。
個別の展示物の感想などはさておいて(ぜひ実際に『鎌倉歴史文化交流館』に足を運ばれてください)、昼食を前にして、徒然草で鰹(かつお)が言及されている掲示が目を引いた。
鰹そのものの風物詩(歴史)は、以下の
『カツオのあれこれ - 神奈川県農林水産情報センター』に詳しい。以下、関連のある箇所の一部を抜粋。
・・・治承4(1180)年8月、源頼朝が伊豆で平家追討の兵をあげましたが、石橋山の戦いに破れ、真鶴岬から海路安房に逃れました。このとき、帆走している舟に1尾のカツオが跳ねて飛び込んできましたので、頼朝は縁起が良いと喜び、そばにあった硯を引き寄せ、その墨に5本の指をつけて、その魚の横腹にズーッと平行な5本の線を引いて逃がしたそうです。それ以後、カツオの横腹には5本の縞模様がつくようになったと伝えられ、鎌倉市腰越地区では、カツオは源氏の神魚(イオ)とされました。ちなみに、平清盛の逸話に登場してくるスズキは平家のイオといわれています。
(4)鎌倉時代
前代であれほど重要な魚であったカツオは、この時代になって朝廷や公家から見放されるようになってきます。これは、前代末期に出された肉食禁止令のためともいわれていますが、この時代になって下品な魚として取り扱われたためのようです。
この時代の主要な水産物を記した日本漁業史(昭和22年12月発行、山口和夫著)によると、蔭涼軒日録(永享8(1436)年~明応2(1493)年)や実隆公記(文明6(1474)年~天文4(1535)年)、御湯殿の上の日記(文明9(1477)年~天正(1586)年間)、多聞院日記(文明10(1478)年~天和4(1684)年)に記載された海産魚の回数は、タイが245回、スズキ164回、タラ77回、エイ15回、サメ10回、サバ・ブリ・ハモ・カツオが7回、サヨリ5回、ホウボウ4回、コチ・シビ・ボラ1回となっています。
延喜式であれほどたくさん各地から送られ重宝がられた堅魚がこれらの日記にはほとんどみられなくなっています。元徳2(1330)年に成立した徒然草(吉田兼好著)には次のように書かれています。
鎌倉の海にカツオという魚は、この境には変わりなきものにて、この頃もてなすものなり。それを鎌倉の年寄りの申し侍りしには、この魚おのれら若りし世までには、はかばかしき人の前に出づること侍らざりき。頭は下部も食わず、切り捨て侍らしものなりと申しき。かやうなものも、世の末なれば、上ざままでも入りたつわざこそ侍れ。
カツオは、昔食べなかった魚だが、この頃では幕府の上のものも食べるようになった、と兼好法師は話していますが、この話はカツオにたとえて幕府を誹謗している話とする説があります。いずれにしても、この頃には鎌倉武士が好んでカツオを食べ始めましたので、一時期衰退していたカツオ漁業が息を吹き返して再び盛んになってきました。
当時のカツオ漁業は、治承2(1178)年に原型ができあがった山家集(西行法師著)には、伊良湖崎に堅魚釣り舟並びて浮きてはやちの浪に浮かびてぞ寄る、と歌われていますので、この頃もカツオは釣りでとられていたことがわかります。http://www.agri-kanagawa.jp/suisoken/Sakana/Misc/Katsuo/より引用
江戸時代の俳人『山口素堂』(1642(寛永19)年~1716(享保元)年)の句、『目には青葉山ほととぎすはつ松魚(かつお)』やまた『松尾芭蕉』寛永21年(1644年) - 元禄7年1(1694年)の「鎌倉を生きて出でけむ初鰹」のように『カツオ』は高価で珍重されていた。
一方、なぜだか兼好法師(吉田兼好:鎌倉時代末期から南北朝時代)の徒然草の第119段にあるように「鰹は下種な魚」という見解もあるようだ。
鰹は『松魚』とも漢字で書き、まさに『松尾』芭蕉とつながる。まさに松竹梅と御目出度いことである。
まずは『徒然草』の第百十九番目を、以下の古文と現代語訳を対比しながら読んで、汲み取ってみましょう。
[古文] 鎌倉の海に、鰹と言ふ魚は、かの境ひには、さうなきものにて、この比もてなすものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、己れら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出づる事侍らざりき。頭は、下部も食はず、切りて捨て侍りしものなり」と申しき。
かやうの物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ候れ。
[現代語訳] 鎌倉の海で獲れるカツオという魚は、鎌倉辺りでは並ぶ物のない良いものだとして、もてはやされている魚だ。そのカツオは、鎌倉の老人が申し上げるには、『この魚は、わしらが若かった時分には、身分のある人が食べる物じゃありませんでした。カツオの頭など、手下どもでも食べずに切って捨てていたものです』という。
こんなものでも、世も末ならば、身分のある人の食卓にまで入り込んでくるようでございます。
「鎌倉あたりでは最近、鰹という魚が、二つとない結構な物になっている。だがそこの或る老人は『こんなもの(鰹)は上流階級の食膳にはのぼらなかった』。今じゃ身分の高い人も食べるという、あーなんと嘆かわしい」という。「鰹(かつお)は下種(げす)な魚との評価であります。
一方、『かつお』は「勝男」に通じ、鎌倉時代における武士たちが縁起をかついだと思われる。例えば、鎌倉武士は鎧の下にヒタタレを着用しましたが、その生地は身近に上総の望陀布(もうだのぬの)があるにかかわらず、遠方の飾磨(しかま)の褐染(かちぞめ)を用いました。それは褐(かち)が勝(かち)に通ずるからです。
蜻蛉が『勝ち虫』と呼ばれる由来
トンボは勝ち虫とよばれ縁起物であり、前にしか進まず退かないところから、「不転退(退くに転ぜず、決して退却をしない)」の精神を表すものとして、特に武士に喜ばれた。
戦国時代には兜や鎧、箙(えびら)刀の鍔(つば)などの武具、陣羽織や印籠の装飾に用いられた。
トンボを勝ち虫とする由来は、雄略天皇が狩に出かけた際に詠んだ歌
古語
み吉野の 袁牟漏が嶽に 猪鹿伏すと 誰ぞ 大前に奏す
やすみしし 我が大君の 猪鹿待つと 呉座に坐し
白栲の 衣手著具ふ 手腓に 虻かきつき その虻を 蜻蛉早咋い
かくの如 名に負はむと そらみつ 倭の国を 蜻蛉島とふ
現代語訳
吉野の 袁牟漏が嶽に 猪や鹿がたくさんいると
誰かが 大王に言上したのか
大王は 猪や鹿の現れるのを待って 呉座に座っていたところ
白い服の袖の上から 大王の腕に 虻が噛み付いた その虻を
蜻蛉(とんぼ)が素早くくわえて飛んでいった
このように 蜻蛉のその名を受けて この大和の国を蜻蛉島(あきつしま)と言う
上記の(古事記)が元になっている。
素早く飛び回り、前進するのみで後退しない姿から武士に好まれたともいわれる。このようにトンボの絵が多く描かれるのは、トンボに『勝虫』の異名があるからです。
こうした縁起をかつぐといったような背景的な知識や内なる『つながり(絆)』を知れば、鰹は下種(げす)なものではなく、松魚(かつお)はこうして、『勝男(かつお)』に転じ、特に鎌倉の武士階級からは『鰹』が重宝されてきたのです。
蔵と鎌倉歴史文化交流館、古代と現代、和式と洋式、秋田と鎌倉など、互いに遠く離れたことなども、『お互いを善く知る』ことで『鎌倉歴史文化交流館』や『結(ゆい)の蔵』のように、内なる処で深く結ばれていることを、ここに慶び(昆布)、お目出度い(鯛)『結び』の話しの、まさに『納(おさめ)』といたします。
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