種まく人から人々へと・ 命の器(いのちのうつわ)

身近な地域から世界へ
貢献する活動や情報など

「かまくら国際交流フェスティバル2019」開催のお知らせ 2019年11月10日(日)

2019-10-31 20:24:04 | 市民国際交流協会
「かまくら国際交流フェスティバル2019」開催のお知らせ

https://kotoku-in.jp/site/#post-237より転載

高徳院境内において『かまくら国際交流フェスティバル2019』が開催されます。鎌倉市と同フェスティバル実行委員会が主催するこの催しは、民間レベルでの国際交流・異文化理解の促進を図ることを目的に1995年に開始され、早25回目を迎えるに至りました。
当日はそれぞれの模擬店が出店されるほか、一部団体による舞台公演も行われる予定です。当山の秋の恒例行事でもある同フェスティバルに、皆様お誘い合わせの上おでかけください。

日 時:2018年11月10日(日)10:00~15:00
場 所:高徳院境内
主 催:かまくら国際交流フェスティバル2019実行委員会、鎌倉市
来る2019年11月10日(日)、高徳院境内において『かまくら国際交流フェスティバル2019』が開催されます。鎌倉市と同フェスティバル実行委員会が主催するこの催しは、民間レベルでの国際交流・異文化理解の促進を図ることを目的に1995年に開始され、早25回目を迎えるに至りました。
当日はそれぞれの模擬店が出店されるほか、一部団体による舞台公演も行われる予定です。当山の秋の恒例行事でもある同フェスティバルに、皆様お誘い合わせの上おでかけください。

日 時:2018年11月10日(日)10:00~15:00
場 所:高徳院境内
主 催:かまくら国際交流フェスティバル2019実行委員会、鎌倉市

【概要】
鎌倉市と同フェスティバル実行委員会が主催するこの催しは、民間レベルでの国際交流・異文化理解の促進を図ることを目的に1995年に開始されました。

【内容】
お茶席、琉球舞踊、バリ舞踊、カントリーラインダンス、剣舞、和太鼓 演奏、アルプホルン演奏、南京玉すだれ


追加情報
NPOセンターからのお知らせ
http://npo-kama.sakura.ne.jp/ce/news.html より転載

フェスティバル開催 (2019・11・3, 4)
掲載日2019・10・19
第21回かまくら市民活動フェスティバルを11月3日、4日に たまなわ交流センター(NPOセンター大船)で開催します。 今回のテーマは「対話と変容」。多様なセクターをつなぐ機会を多数用意しています。
詳細はイベント情報をご覧ください。
フェステバル開催
チャリティーオープンマイク
災害ボランティアって、何?
市民対話 おかわり三杯目
企業・NPO・市民のパートナーシップミーティングin鎌倉
しゃべくりCafe
貿易ゲーム
鎌倉市まちづくりプランコンテストその後

緒方貞子さんへのオマージュ

2019-10-29 20:45:45 | 市民国際交流協会
あの緒方貞子さんが亡くなられた。かなり以前にJICAの講演会に知人と参加して、緒方貞子さんのオール・イングリッシュの素晴らしい講演に耳を傾けた。
テーマは、「人間の安全保障」であったと記憶している。

・・・人間の安全保障という概念規定の中に大きく言っ ているトップダウンとボトムアップの両方でいかなければ、本当に人々の安全を確保する ことはできない、支援の注目点はその二つを結ぶところにあるのだろうと思うのです。中 央政府だけ助けてもだめ、下だけ助けてもだめで、その両方がいろいろな形で、例えば州 レベルの政府であるとか、あるいは NGO にしても、上と下と両方つなげるような形で組織 を強化していく、そういうことが必要だろうと思います。・・・

ボトムアップによる草の根的な活動が身を結ぶのだと、さらに、安全保障はトップダウン(上から)だけは、十分ではなく、ボトムアップ(下から)も必要であり、トップダウン、ボトムアップの両方から力をつけていくことが、人間の安全保障となりうる。

緒方貞子さんの並外れた交渉力や、紛争の敵対勢力と向き合う能力は、国連職員や各国首脳から尊敬され、「 身長5フィート(約150センチ)の巨人 」と称賛された。後に、お札の肖像画にもなるような偉大なる人物である。まさに巨星落つの感を深くしております!

First female UN refugee chief and '5ft giant' dies
https://www.msn.com/en-za/news/world/first-female-un-refugee-chief-and-5ft-giant-dies/ar-AAJvrGb
A Japanese academic and diplomat who became the first female to be appointed UN High Commissioner for Refugees has died aged 92.

緒方貞子氏は、学者、外交官、執筆者で、現在は組織の理事を務めつつ、上智大学名誉教授でもあります。1991年から2000年まで国連難民高等弁務官、2003年から2012年まで独立行政法人国際協力機構(JICA)の理事長を務めました。現在はJICAの特別顧問および外務省顧問(2012年~)を務めています。

1953年にジョージタウン大学で国際関係論修士号、1963年にカリフォルニア大学バークレー校で政治学博士号を取得。1965年から1979年まで国際基督教大学で国際関係論の講師を務め、1974年から1976年には外交史と国際関係論の准教授も務めました。また、国連日本政府代表部特命全権公使(1976〜1979年)も務めました。

緒方氏がこれまで、多くの大学や専門機関で果たしてきた重要な役割の一部として以下があげられます。ユニセフ執行理事会議長(1978~1979年)、上智大学国際関係研究所教授(1980~1987年)、同研究所所長(1987~1988年)、国連人権委員会ビルマ人権状況専門官(1990年)、脅威、挑戦および変革に関する国連ハイレベルパネルメンバー(2003~2004年)、アフガニスタン支援日本政府特別代表(2001~2004年)。

以下のような国際的に高く評価されている委員会や理事会で多くの役割を果たしています。アジア社会政策研究所(ASPI:Asia Society Policy Institute)名誉顧問、世界経済フォーラム日本議長(2012年4月~)、人間の安全保障諮問委員会名誉議長(2012年~)、アフリカのためのグローバル連合共同議長(2004年4月~)、国際救済委員会(IRC)理事、ハーバード大学ケネディ行政大学院視察委員会委員。

Sadako Ogata
Sadako Ogata serves as co‐chair of the Commission on Human Security. She was UN High Commissioner for Refugees from 1991 to 2000 and co‐chaired the International Conference on Reconstruction Assistance to Afghanistan in Tokyo in 2000. A native of Japan, she is a scholar in residence at the Ford Foundation.

https://www.jica.go.jp/english/news/press/jica_archive/2006/060920_1.html

Press Releases

September 20, 2006Sadako Ogata Explains JICA's "Human Security" Approach towards Mindanao
JICA President Sadako Ogata said Wednesday (September 20) her agency was ready to take part in an international effort to accelerate the peace process in the troubled Philippine island of Mindanao.

After visiting the region earlier in the week, Ogata delivered the keynote address to a seminar on Peace, Development, and Human Security in Mindanao in which she underlined JICA's commitment to helping the island recover from decades of conflict and spelled out that the recently developed concept of "human security" would play a key role in future assistance efforts.

"The international community seems genuinely ready to take appropriate measures, together with local actors, to accelerate the peace process," Ogata said in remarks prepared for the seminar.

"As a strong supporter to the peace process in Mindanao, the Japanese government has decided to join the Malaysia-led International Monitoring Team (IMT)," she added. "An experienced JICA staff will be joining the IMT with the special assignment to strengthen social, economic development support. I expect that the 'human security' of the people of Mindanao will be more firmly assured by the IMT."

The southern island of Mindanao has been plagued for three decades by conflict between government forces and Islamic and communist insurgencies during which an estimated 120,000 people were reportedly killed. The Moro Islamic Liberation Front (MILF) reached a ceasefire with the government in 2003 and the two sides are continuing talks to try to reach a final settlement.

For several years JICA has been mainstreaming into its projects the concept of "human security" and Ogata explained the origins and the philosophy behind this approach which first emerged in the 1990s.

Globalization had "transformed relationships between and within states…bringing both positive developments and negative results to peoples lives" and necessitating new approaches to old problems.

Until recent years, governments had focused security thinking on the state…protecting boundaries, people, institutions and values, from external aggression, but, she said, "What is now needed is a 'paradigm shift' from state-centered security thinking to one that focuses more directly on the security of people and community—the concept of human security."

As co-chairperson of a Japanese-inspired independent Commission on Human Security, she helped develop a framework incorporating two approaches: "bottom-up and top-down. The 'bottom-up' approach concentrates on empowering people," she said, "guaranteeing them education, jobs, access to information, health care, and provision of a social safety net—human security. The 'top-down' approach emphasizes the importance of protecting people, their safety, basic rights and freedoms."

She added, "The 'bottom-up' formula leads to the empowerment of people to better govern themselves. The top-down formula advances and assures the security of people." The aim of the commission had been to 'bring together the 'bottom-up' socio-economic development programs with the strengthened 'top-down' protection inputs by the state."

After visiting several projects in Mindanao and talking to key players on all sides, the JICA president told the seminar: "Although different groups envisage different agendas for peace and development, I have received one strong and clear message…All the stakeholders are eager to bring sustainable peace to Mindanao."

She ends her visit to the Philippines, which coincided with the 50th anniversary of the normalization of diplomatic relations between the two countries, with a news conference in Manila on Thursday.

人間の安全保障を求めて
https://www.unic.or.jp/activities/international_observances/un70/un_chronicle/ogata/ より転載
緒方貞子


私は1991年2月、初の女性、初の日本人、そして初の学識者として、国連難民高等弁務官(UNHCR)に就任しました。世界はその当時、硬直した冷戦構造を脱したところでした。私がジュネーブに着任した数週間後には、200万人近いクルド系イラク人が湾岸戦争を避け、イランとトルコに避難していました。それは2000年に離任するまで、私の10年間にわたる高等弁務官としての多難な任期の幕開けを告げるものでした。

1991年の湾岸戦争は、1990年代という冷戦後の時代を特徴づける多国間外交と人道対応の前進に向けた分水嶺となりました。難民流出の規模とスピードは前例を見ないものでしたが、その帰還のペースもまた急速でした。多国籍軍は安全保障理事会決議688(1991)を根拠に介入し、イラク北部に安全な避難所を設けてクルド人難民の帰還を促しました。私たちはすぐに、イラク北部に初めて活動の拠点を設け、多国籍軍との密接な連携により、難民と国内避難民への支援に努めました。その後数年間は、特に旧ユーゴスラビアとアフリカの大湖地域で、保護、援助、解決の戦略を考え直すという課題にさらされました。

難民保護の根拠は法にありましたが、この保護の確保はますます戦略的、実践的かつ実地的な活動となってゆきました。UNHCRはしばしば戦闘地域で、また孤立無援で前線に立つことになりました。特に、難民の帰還を支援する場合に、難民流出国で以前より積極的な役割を果たすようになりました。庇護に対する革新的な対応が要求されることもありました。私たちは、ボスニア・ヘルツェゴビナ難民に対する一時的保護の推進、コソボ難民に対する「人道的避難プログラム」の実施等、新たな領域へと踏み出し、多くの人命を救いました。1994年から1997年にかけて、アフリカ大湖地域で起きた悲劇的な事件の後、難民キャンプの治安と中立を確保する方法の確立に向けた提案を求める事務総長の要請を受け、私たちは、基本的な「プレゼンスによる保護」から、訓練と状況に応じた代替策である「段階的」オプション(選択肢)を開発しました。

冷戦が終結した時、人々は楽天的に、新しい世界秩序の到来を語りました。環境の変化を反映し、1990年前半には中米やカンボジア、南アフリカその他の地域で和平合意が成立しました。これらの地域では、難民の帰還がUNHCRの主要な活動となりました。しかし、その後の現実は、私たちの楽観を裏切るものでした。冷戦時代の予見可能だった国際関係に代わり、不透明かつ不安定な時期が訪れたからです。大国間の対立と代理戦争は、国内の民族紛争へと姿を変えました。新たなパターンの紛争によって、避難民の動きは以前よりもさらに流動化、複雑化しました。多くの人々が国境を越え、国際的な保護を受けられる難民となりましたが、さらに多くの人々が国内避難民として留まり、自国からの保護を受けられない状況にありました。難民と国内避難民が混じり合い、しかも人間の移動の速さと規模が拡大したことは、私の高等弁務官としての任期を特徴づける現象となりました。この動向はその後も続き、今日では全世界の強制避難民の数が5,100万人と、戦後初めて5,000万人の大台を超え、国内避難民の数は難民の2倍に上る状況となっています。

紛争が大量の避難民発生の主たる要因となることは避けられませんが、これまでにも増して、避難民の発生と戦争は密接に絡み合うようになりました。旧ユーゴスラビアで暴力が発生し、数百万人が避難を余儀なくされた1992年、私は初めて安全保障理事会で報告(ブリーフィング)を行いました。私にとって、それは人道活動の一線を踏み越えるに等しいことでした。人道援助関係者は、古くから堅持されてきた中立と公平の原則を、政治的関与から明確な距離を置くという意味に解釈するのが一般的でした。それまで、人道機関の責任者が安全保障理事会で発言することはありませんでした。

「人道問題に人道的解決策はない」という私の発言を引用する傾向が多くあります。私が当時、強調したかったのは、難民問題の発端は本質的に政治であるため、それには政治的対応を通じて取り組まねばならないということでした。人道的対応で政治的対応の余地がつくられることはありますが、今日のシリアの悲劇的な例が示しているとおり、人道的対応だけで政治的対応に代えることはできません。問題の解決には、世界的、地域的な大国または安全保障理事会による断固とした介入が必要です。私はこの確信から、国連で最も強力な政治的機関である安全保障理事会で12回にわたり、進んで発言しました。政治の担い手に対し、人道危機の解決に本腰を入れるよう強く促すことは、骨の折れる作業でした。

高等弁務官としての責任を果たすうえで、私は常に、難民に安全と、より幸福な生活を送れる機会を提供することに関心を払いました。従来、安全保障の問題は、国家とその境界線、国民、制度および価値を外部からの攻撃から守るという「国家の安全保障」の文脈で検討されていました。人々の安全は、国家による保護を通じて保障されると考えられていたのです。しかし、冷戦後の時代は、外部からの侵略も、領土的一体性や国家主権に対する脅威がなくても、人々は民族的、宗教的、社会的集団間の歴史的な対立や反目に起因する国内的暴力に直面しました。国民の保護者であるべき国家は「恐怖からの自由」と「欠乏からの自由」を実際上保障できないことが多くありました。対立する個人、集団またはコミュニティ間の平和的関係を維持または発展させることが、安全保障上の中心的課題となったのです。

私は何度となく、今日の中心的な安全保障問題、すなわち人々の安全保障をどのように確保すべきかを問いかけてきました。そして、人々により直接的に目を向けることで、保護を提供し、安全を強化する方法が見つけられることを学びました。こうした人間中心型安全保障の概念の追求が、従来の「国家安全保障」のパラダイムシフトとして、「人間の安全保障」を取り上げるきっかけとなりました。私がUNHCRを離れた後、2001年、国連と日本政府の発議により、人間の安全保障委員会が設置されたのも、今日の安全保障の課題に対処する新たな方法が模索された結果でした。私はノーベル賞を受賞した経済学者アマルティア・セン氏とともに、委員会の共同議長を務める光栄に浴しました。2003年の委員会報告書「いまこそ人間の安全保障を(Human Security Now)」は、2年間にわたる調査、現地訪問、公聴会を基に、人間の安全保障に対する重大な脅威に取り組む革新的な行動枠組を提案するものとなりました。

「国連人間の安全保障基金」の設立により、抽象的な概念が具体化され、幅広い領域にわたって社会的弱者の保護とエンパワーメントを図るとともに、人道支援から開発支援へのスムーズな移行を可能にする手段が整いました。私が2003年から2012年にかけて理事長を務めた独立行政法人国際協力機構(JICA)は、人道支援と開発作業の間のギャップを埋めることをねらい、人道支援の担い手との積極的な連携を図りました。JICAは、紛争から立ち直りつつあるコミュニティのためだけでなく、貧困や失業、気候変動といった様々な障壁を克服する目的でも、人間の安全保障のアプローチを採用しました。

人々に、自分たちの生活とコミュニティをより安全にする役割を果たす能力を与えることをねらいとした「人間の安全保障」には、保護とエンパワーメントという2つの側面が備わっています。 「人間の安全保障」は単独で達成できるものではありません。それは共通のプラットフォームとして機能し、政府や国連機関から、様々なドナー、市民社会、現地住民に至るまで、すべてのパートナーのニーズを定義し、共通の目標を定め、専門能力を動員することで、包摂的かつ総合的なアプローチを提供します。「人間の安全保障」はまた、幅広い領域を見渡して相互に関連する問題に取り組むという、大所高所の見地も提供します。この連続体の中で、コミュニティは多種多様な不安に取り組む積極的なメカニズムを構築できるようになるのです。

現在では、総会決議290(2012)の採択により、「人間の安全保障」のアプローチが政府や実務者の間で幅広いコンセンサスを生んでいます。2013年5月、ニューヨークの国連経済社会理事会議場で行われた「人間の安全保障」に関するハイレベル・イベントで発言できたことは、私にとって大きな励みになりました。

しかし、生活や尊厳が危険にさらされている人々のために行動を起こすという政府やリーダーの政治的意志を持続させ、同情心を政治的行動へと具体化するためには、どうしたらよいかという問題が残っています。国際テロや暴力的過激主義という形で、新たな脅威が生まれている時代に、その答えを見つけることは、さらに難しくなっています。「イラクおよびレバントのイスラム国(ISIL)」は圧倒的な速度で国境を越え、活動を拡大しています。グローバリゼーションは富や機会を作り出すだけでなく、格差も広げ、安全管理をさらに困難にしています。情報技術の急成長と、ソーシャルネットワーク・サイトを通じたコミュニケーションの進歩は、容易かつ急速に分裂と両極化を生み、不満を抱える青少年を過激なテロリストに変えてしまう危険性をはらんでいます。気候変動と地球温暖化の加速は大規模災害や重病の流行、さらには紛争さえも誘発し、すでに脆弱な環境で暮らす人々に不当に大きな影響を及ぼしています。連帯によって、暮らしやすい地球を将来の世代に引き継いでゆけるのかどうか、私たちの能力が試されているのです。

国連の創設以来、大きな進歩が見られてきました。国連憲章が批准された時、アジアとアフリカの諸国はほとんど、ヨーロッパの植民地でした。51の加盟国でスタートした国連は、この70年で大きく拡大し、今日では193の加盟国を抱えるまでになりました。国連の試金石となる脅威や課題は、この進歩を上回る速さで進化を遂げた可能性もあります。憲章はその第1条で、世界機関である国連の主たるねらいは「国際の平和および安全を維持すること」にあると宣言しています。安全の意味が、殺されたり、迫害を受けたり、虐待されたりしないこと、屈辱感と自己卑下につながる極端な貧困に陥らないこと、そして自由に選択できることにあるとすれば、あまりにも多くの人々が、今でも安全を手にしていないことになります。

「開発から平和、さらには人権に至るまで、国連はこれまで以上に目的に適った存在とならねばなりません」潘基文(パン・ギムン)事務総長は2015年1月、総会に対するブリーフィングで、節目の年に向けた抱負をこのように語りました。私は、拡大の一途をたどる人道ニーズと利用できる資源とのギャップを解消するという継続的課題への対応を模索するため、事務総長がハイレベル・パネルを任命するイニシアチブを発動したことを歓迎します。2016年にイスタンブールで開催される世界人道サミットを前に、また、国連がその任務を全うするための取り組みの一環として、私は国家でなく人々に対し、主役を演じるよう呼びかけたいと思います。

私は、難民問題の解決には時間がかかるという教訓を得ました。人々の意識を変えるためには、時間が必要です。戦火を交えてきた人々の間に信頼を築き上げるのにも、時間がかかります。しかし、その実現は不可能ではありません。人間自身に注目し、その利己心に繰り返し訴えることは、回り道のように見えるかもしれませんが、紛争の予防と恒久的解決策を求めるならば、これこそが最も効果的なアプローチなのです。

結局のところ、一番大事なのは人間です。私はよく、元気の源は何かと聞かれることがあります。私はしばしば、キャンプや村々、一時収容施設、スラム街などで出会った多くの難民のことを考えます。私がここまで続けてこられたのは、私たちの集団的な努力で、避難生活の恐怖や苦痛を、家族や友人の安全と結束に変えられると確信しているからだと思います。国連の活動はこれまでも、そして今後も、世界各地のすべての人々の未来と幸福にとって、価値のある取り組みでなければなりません。

著者について

元国連難民高等弁務官の緒方貞子氏は、国連児童基金(UNICEF)執行理事会議長、独立行政法人国際協力機構理事長、上智大学外国語学部長も歴任しています。

激動の時代をくぐり抜けてこられた緒方貞子さんへ、ここにオマージュを捧げたい!

追加情報

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/bunya/security/pdfs/smp_061206g.pdf

https://www2.jiia.or.jp/pdf/conference/040224_ogata.pdf

鎌倉事件、1864年、元治元年10月22日

2019-10-22 13:54:56 | 地域情報
The Geba Incident
The Kamakura Murders of 1864
(Major Baldwin and Lieutenant Bird)

At the end of the Tokugawa shogunate there were several incidents involving violence against foreigners, the most famous of which is the Namamugi incident. In 1864 two Britons were slashed to death at this intersection by some Japanese men.

On November 22, 1864 British cartoonist Charles Wirgman and photographer Felice Beato were in Enoshima near Fujisawa, where they met Major Baldwin and Lieutenant Bird of the British garrison in Yokohama.Wirgman invited the two men to join them, but they declined because they wanted to go and see the Kamakura Daibutsu. On November 22 the two men were sketching near Wakamiya Ōji when they were stopped and murdered by some samurai.Three men were arrested and executed for the crime, and the head of their leader was publicly displayed in Yokohama.Baldwin and Bird were laid to rest in Yokohama's Foreign Cemetery.

鎌倉事件
鎌倉でも起きていた英国士官殺傷事件
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kankou/korearata-geba51200.html より部分転載

・・・元治元年(1864年)10月22日、鎌倉において外国人の殺傷事件が起こります。殺傷されたのは、横浜から遠乗りで鎌倉見物に来ていた、横浜駐屯のイギリス陸軍第二〇連隊二大隊の、ボールドウィン少佐とバード中尉の2名で、前者は即死し後者はその晩まで生きていたと記録が残っています。彼らは8月の下関砲撃事件の緊張から解放され、休暇が取れて秋の金沢、江ノ島、鎌倉見物に訪れたのではないでしょうか。

この時の二人の様子については、次のように記録されています。

幕末・明治の日本を撮った写真家F.ベアトと画家ワーグマンが江ノ島でこの二人に会って、写真を見せたり会話もしていたようです。彼らは、まだ大仏を見ていないのでと言ってベアトと別れました。(The Daily Japan Herald. Nov. 24,1864,p.626)
その後訪れた大仏の老僧の証言には、午後2時頃二人の外国人が来て、静かに大仏を見物していたとあります。(Rutherford Alcock to Earl Russell, Nov. 29,1864)
彼らが大仏を出て、金沢へ向かおうと、馬に乗って六地蔵を通り過ぎ八幡宮に通じる松並木に差しかかったとき、事件が起きます。イギリス外交文書に残っている図面(R.Alcock’s.No.98.of 1864)が『鎌倉市史 近世通史編』P694に掲載されていますが、現在の下馬四つ角北西隅の家の前に小さく二つの死体らしきものが書かれており、この二つがこの事件の被害者、二人の英国士官と考えられます。
この辺りは、八幡宮寺(Temple of Hachiman)境内の段葛が海へ続く若宮大路沿いで、当時は鎌倉10ヵ村の内大町村に属しており、偶然この場面に遭遇した11歳の子供の証言や名主や近辺の住民の調書が残っています。

少年は、二人の侍が、馬に乗ってゆっくり進んで来た最初の外国人を下から斬り付け、すごい叫び声とともに落馬するのを目の当たりにして、あまりの驚きと恐怖で、二日間食事がのどを通らなかったようです。また、午後3時半頃仕事から帰ってきた大町村の百姓が二人の外国人が倒れているのを見つけて、近くの家の者に知らせ、まだ生きている人の手当をしたと証言しており、大町村の漢方医錦織三益も呼ばれて手当をしたと証言しています。

この事件は、鶴岡八幡宮の社役人の指示で大町村の名主と年寄が相談し、年寄が夜道を歩き通して、その日の午後9時過ぎ、横浜の神奈川奉行所に伝え、翌午前1時過ぎにイギリス横浜領事に知らされました。さらに上官のイギリス公使オールコックに急報するとともに、まだ重傷の士官は生きているとの報に外科医2名、騎馬報兵隊25名、通訳を鎌倉へ派遣しました。しかし、彼らが夜明けに鎌倉に着いたときには、重傷だった士官も亡くなり、二人の遺体はムシロをかけられて横たわっていたようです。
二人の遺体は、金沢から海路横浜に運ばれ、盛大な葬儀がいとなまれ、軍艦や陸上部隊の分遣隊、非番の全士官、横浜居留民全部、数多くの日本人高官が臨席しています。日本に駐留していた外国人たちはこの事件を聞き、恐怖につつまれました。

彼ら二人は、横浜山手の外国人墓地に葬られ、今も眠っています。

山手外国人墓地二一区三五番 GEO.W.BALDWIN

同      二一区三六番 ROBERT.N.BI

三木清の読書遍歴と徳冨蘆花

2019-10-06 17:24:42 | 文学・芸術
「田家の煙」徳冨蘆花

『あまり多く果実をつくるのは枝は折る。』

余は煙を愛す。

田家の煙を愛す。

高きにきよして、遠村近落の煙の、相呼び相応じつつ、

悠々として天に上り行くを見る毎に、心乃ち楽しむ。

然れども、市井の濁波今やとうとうとして村落に及び、

田家淳樸の風次第に地を掃はむとし、

賭博、淫風、奢侈、遊惰、争利のバチルルス

殆んど戸毎に侵入せんとするを思へば、

寧ろ一炬其家と其人と焚きつくすの優れるなきかを疑ふ。

否、寧ろ教へて而して之をくわせんのみ。

ああ若し吾力能くせば、

余は遍く此の三個の進物を全国の村落に贈らむものを。

三個とは、

良醤、良教師、而して良牧師。

良好なる小学校、良好なる食堂、良好なる診療所、

此三は健全なる村を造る三要素。

而して健全なる村は、健全なる国を造るの大基本。

あまり多く果実をつくるのは枝は折る。

富めるのみなる其の国はほろぶるなり。

国民をして天を仰がせしめよ。

田家の煙のいぶせき藁屋より出でで然も天に上るを見ずや。



三木清『読書遍歴』

     一

 今日の子供が学校へも上らない前からすでにたくさんの読み物を与えられていることを幸福と考えてよいのかどうか、私にはわかない[#「わかない」はママ]。私自身は、小学校にいる間、中学へ入ってからも初めの一、二年の間は、教科書よりほかの物はほとんど何も見ないで過ぎてきた。学校から帰ると、包を放り出して、近所の子供と遊ぶか、家の手伝いをするというのがつねであった。私の生まれた所は池一つ越すと竜野の町になるのであるが、私は村の小学校に通い、その頃の普通の農家の子供と同じように読み物は何も与えられないで暮らしてきた。父の代になってからは商売はやめてしまったが、今でも私の生家は村でも「米屋」と呼ばれているように、その時分はまだ祖父が在世していて、米の仲買をやり小売を兼ね、またいくらか田を作ってもいた。村の人々と同じに暮らして目立たないことが家の生活方針であり、私も近所の子供と変らないようにしつけられた。中学に通うことになってからも、私はつとめて村の青年と交わり、なるべく目立たないように心掛けた。私は商売よりも耕作の手伝いが好きであった。つまり私は百姓の子供として育ったのである。雑誌というものを初めて見たのは六年生の時であったと思う。中学の受験準備のための補習の時間に一緒になった村の医者の子供が博文館の『日本少年』を持ってきたので、それを見せてもらったわけである。私はそんな雑誌の存在さえも知らないといった全くの田舎の子供であった。町へ使いに行くことは多かったが、本屋は注意に入らないで過ぎてきた。今少年時代を回顧しても、私の眼に映ってくるのは、郷里の自然とさまざまの人間であって、書物というものは何ひとつない。ただあの時の『日本少年』だけが妙に深く印象に残っている。その頃広く読まれていた巌谷小波の童話のごときも、私は中学に入ってから初めて手にしたのであった。田舎の子供には作られた夢はいらない。土が彼の心のうちに夢を育ててくれる。
 かような私がそれでも文芸というものを比較的早く知ったのは、一人のやや無法な教師のおかげである。やはり小学六年のことであったと記憶する、受持の先生に竜野の町から教えに来ておられた多田という人があった。この先生はホトトギス派の俳人であったらしく、教室で私ども百姓の子供をとらえてよく俳句の講釈を始め、ついには作文の時間に生徒に俳句を作らせるほど熱心であった。ある時私の出した句が秀逸であるというので、黒板に書いて皆の者に示し、そして高浜虚子が私と同じ名の清だから、私も虚子をまねて「怯詩」と号するがよいといって、おだてられた。号というものを付けてもらったのはこれが初めでまた終りでもあるので、今も覚えている。この先生によって私は子規や蕪村や芭蕉の名を知り、その若干の句を教えられた。『ホトトギス』という雑誌は、中学の時、いわゆる写生文を学ぶつもりでしばらく見たことがある。

      二

 私がほんとに読書に興味をもつようになったのは、現在満洲国で教科書編纂の主任をしておられる寺田喜治郎先生の影響である。この先生に会ったことは私の一生の幸福であった。たしか中学三年の時であったと思う、先生は東京高師を出て初めて私どもの竜野中学に国語の教師として赴任して来られた。何でも以前文学を志して島崎藤村に師事されたことがあるという噂であった。当時すでに先生は国語教育についてずいぶん新しい意見を持っておられたようである。私どもは教科書のほかに副読本として徳富蘆花の『自然と人生』を与えられ、それを学校でも読み、家へ帰ってからも読んだ。先生は字句の解釈などはいっさい教えないで、ただ幾度も繰り返りして読むように命ぜられた。私は蘆花が好きになり、この本のいくつかの文章は暗誦することができた。そして自分でさらに『青山白雲』とか『青蘆集』とかを求めて、同じように熱心に読んだ。冬の夜、炬燵こたつの中で、暗いランプの光で、母にいぶかられながら夜を徹して、『思い出の記』を読みふけったことがあるが、これが小説というものを読んだ初めである。かようにして私は蘆花から最初の大きな影響を受けることになったのである。
 私が蘆花から影響されたのは、それがその時までほとんど本らしいものを読んだことのなかった私の初めて接したものであること、そして当時一年ほどの間はほとんどただ蘆花だけを繰り返して読んでいたという事情によるところが多い。このような読書の仕方は、かつて先ず四書五経の素読から学問に入るという一般的な慣習が廃すたれて以後、今日では稀なことになってしまった。今日の子供の多くは容易に種々の本を見ることができる幸福をもっているのであるが、そのために自然、手当り次第のものを読んで捨ててゆくという習慣になり易い弊がある。これは不幸なことであると思う。もちろん教科書だけに止まるのはよくない。教科書というものは、どのような教科書でも、何らか功利的に出来ている。教科書だけを勉強してきた人間は、そのことだけからも、功利主義者になってしまう。
 もし読書における邂逅かいこうというものがあるなら、私にとって蘆花はひとつの邂逅であった。私の郷里の竜野は近年は阪神地方からの遊覧者も多い山水明媚の地であるが、その風物は武蔵野などとはまるで違っている。その土地で大きくなった私が武蔵野を愛するようになったのは、蘆花の影響である。一高時代、私はほとんど毎日曜日、寮の弁当を持って、ところ定めず武蔵野を歩き廻ったことがある。それはその頃読んでいた芭蕉などに対する青年らしい憧憬でもあったが、根本はやはり『奥の細道』でなくて『自然と人生』であった。蘆花を訪ねたことはついになかったが、彼が住んでいた粕谷のあたりをさまよったことは一再ではない。利根川べりの息栖とか小見川とかの名も蘆花を通して記憶していて、その土地を探ねて旅したこともある。彼によってまず私は自然と人生に対する眼を開かれた。もし私がヒューマニストであるなら、それは早く蘆花の影響で知らず識らずの間に私のうちに育ったものである。彼のヒューマニズムが染み込んだのは、田舎者であった私にとって自然のことであった。今も私の心を惹くのは土である。名所としての自然でなくて土としての自然である。それは風景としての自然でさえない。芭蕉でさえも私には風流に過ぎる。風流の伝統よりも農民の伝統を私は尊いものに考えるのである。もっとも、蘆花の文学は農民の文学とはいえないであろう。私は今彼を読み直してみようとは思わない。昔深く影響されたもので、その思い出を完全にしておくために、後に再び読んでみることを欲しないような本があるものである。

後略

かつて龍野を散策し、三木清の生家跡を訪れたことが懐かしく思い出される!
生家跡には、柿の木だけが、ぽつねんと一本残されていた!

徳冨蘆花「自然と人生」

・・・良好なる小学校、良好なる食堂、良好なる診療所、
此三は健全なる村を造る三要素。
而して健全なる村は、健全なる国を造るの大基本。
あまり多く果実をつくるのは枝は折る。
富めるのみなる其の国はほろぶるなり。国民をして天を仰がせしめよ。・・・