種まく人から人々へと・ 命の器(いのちのうつわ)

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アンネ・フランクの詩は、1700万!

2018-05-17 21:42:08 | 文学・芸術
最近、明かされた「下品なジョーク」だけでなく、
アンネ・フランクには、啓発的な内容の詩(引用のようだが)もあり、
驚いたことに、直筆は1700万円もオークションでしたそうだ!
https://edition-m.cnn.com/2016/11/23/europe/netherlands-anne-frank-poem-auction/index.html

下の英文で分かるのだが、たったの8行だから、
1行あたり1700割る8で、1行、200万円以上する。
俗な、換算でなく、それだけ貴重な資料であり、
人の生き様を、単なる「下品なジョーク」では、
お金のようには、割り切れないのだから!

耳と心のある方々よ、ジョークで笑い飛ばすだけでなく
アンネの啓発的な表現の内容を通じて、貴重な時間=命について、
是非鑑賞してみて下さい!

https://www.google.co.jp/amp/www.afpbb.com/articles/amp/3108994

The eight-line poem, addressed to Cri-Cri is dated March 28, 1942 --
less than four months before the Frank family went into hiding.
A poem written by Anne Frank signed and dated Amsterdam,
March 28, 1942 sold at auction for 140,000 euros ($148,000).

The poem reads:

Dear *Cri-Cri,
親愛なるクリクリへ、

If you did not finish your work properly,
あなたの勉強(仕事)をきちんと終わらせないで、
And lost precious time,
貴重な時間を失ってしまうなら、
Then once again take up your task
それなら、再びもう一度、自分のやるべきことに取りかかり
And try harder than before.
前よりもいっそう励むべきだ。
If others have reproached you
あなたがしてしまったことが間違いだと
For what you have done wrong,
他人から咎められるなら、
Then be sure to amend your mistake.
それなら、自らの誤りを必ず正しなさい。
That is the best answer one can make.
それが人としてできる一番の答ですから。

In memory of Anne Frank
アンネ・フランクの記念に

https://www.google.co.jp/amp/s/www.pri.org/stories/2016-11-24/buyer-pays-nearly-150000-letter-anne-frank-wrote-12%3Famp

In March 1942, a schoolgirl in Amsterdam took out a pen and paper and began copying a poem encouraging her close friend to work hard. "Dear *Cri-Cri, if you do not finish your work properly and lose precious time, then once again take up your task and try harder than before ... "

Cri-Cri was a pet name for Christiane van Maarsen — and the girl who wrote to her was 12-year-old Anne Frank. Three months after writing to Cri-Cri, Anne and her family disappeared into hiding from the Nazis. She was eventually killed at Auschwitz.

On Wednesday, that single page of poetry in Anne's handwriting was sold at an auction in the Netherlands. Auctioneer Thijs Blankevoort told the BBC that the letter is a record of a period of relative normalcy for Anne, which was soon to end. "This was written by Anne Frank who was a free little girl. The Jews were being deported en masse to the camps — all the Jews in Amsterdam were in huge danger."


Cri-Cri was also Jewish, under Nazi law. Her sister Jacqueline is now 87 and was Anne's best friend. Cri-Cri died in 2006, according to the BBC. Speaking to the BBC's David Whitty, Jacqueline said she still remembers their friendship. "She was a very lively child — and that's what I liked, and I was just the opposite. She once said to me, "that's why we are so good together, because we are so different."

アンネ・フランク手書きの詩が競売に、「極めて希少」 オランダ
1942年3月28日に書かれたアンネ・フランクの手書きの詩
http://www.afpbb.com/articles/-/3106796?cx_amp=all&act=all

【11月4日 AFP】「アンネの日記(The Diary of a Young Girl)」で知られるユダヤ人少女アンネ・フランク(Anne Frank)がナチス(Nazis)から身を隠す直前に書いた直筆の詩がオークションに出品される。蘭競売会社ブブカイパー(Bubb Kuyper)が3日、明らかにした。「極めて希少」なもので予想落札価格は5万ユーロ(約570万円)に達する見込みだという。

 白紙に黒インクで書かれた詩はアンネの親友ジャクリーヌ・ファン・マールセン(Jacqueline van Maarsen)さんの姉が所有していたフレンドシップ・ブックに書きこまれたもの。1942年3月28日という日付とアンネの署名が記されているという。

 ブブカイパーによれば、アンネの署名は非常に希少で過去35年間に時たま出品されることがある程度。今回競売にかけられる詩については落札価格をは3万~5万ユーロ(約340万~570万円)と予想した。

出品される詩はフレンドシップ・ブックへの書き込みとしてはよく見られる啓発的なもので、最初の4行は1938年の定期刊行物からの引用とみられるが後半の4行は現在のところは出典を特定できていない。

 オランダ日刊紙NRCネクスト(NRC Next)によると、これまでにアンネの手書きの文書類がオークションに出品されたのは今回の詩を含めて4回だけだ。

 1988年には、アンネと姉のマルゴ(Margot Frank)が米国のペンフレンドたちと交わした手紙の束が16万5000ドル(約1700万円)で落札されたほか、今年5月には巻頭に姉妹の署名がはいった1925年版のグリム童話が米ニューヨーク(New York)で開かれたオークションで予想落札価格の2倍となる6万2500ドル(約645万円)で落札されている。

中村知二作品展(横浜SOGOそごう9Fにて)

2018-05-16 23:39:41 | 文学・芸術
知人の芸術展示が、
横浜SOGOのギャラリー ダダで
http://gallerydada.freya.weblife.me/guide/access.html
2018年
6月13日(水)ー6月19日(火)
上記の期間に開催されます!
終了しています!

中村知二作品展
http://tomoji.sa-suke.com/

内容は短歌、それに絵を添えて
https://ycag.yafjp.org/gallery/42/

〒220-0011
横浜市西区高島2-18-1
横浜新都市ビル(そごう)9F
http://www.gallerydada.co.jp/

開館時間10:00~20:00。最終日の閉館は16:00

呆亭さん、できましたら最終日の19日の午後に、新東京美術館の時のように、
SOGOの会場で再びお会いするのを楽しみにしています。
サンチョより

有島暁子と松の屋敷(遠藤周作への影響など)

2018-05-15 05:58:32 | 文学・芸術
二日三日 とどまることを 期してこし
松の屋敷に 松風ぞ吹く

亭にいで ひろき海をば 君のこと
許さるるなり 松の屋敷

と「松の屋敷」は与謝野晶子(松陰詠草)にも詠まれている。

有島 暁子
アリシマ アキコ
昭和期の女性 元・上智大女子学生厚生部長。 有島生馬の長女。
生年明治34(1901)年
没年昭和57(1982)年7月5日
出生地東京
学歴〔年〕雙葉中学校卒
経歴昭和46年秋の天皇、皇后両陛下のヨーロッパ親善ご訪問の侍従職御用掛を務めた。「有島暁子著作集」がある。
20世紀日本人名事典より

畏敬する大先輩から、有島生馬の海村と有島暁子の「松の屋敷」を勧められたので、松の屋敷を読み終えた。
後半に、遠藤周作の有島暁子さんとの関わりの文章があり、ネットでさらに関連を調べてみると、以下の情報がありました!遠藤周作は、戦後初期のフランスへの国費留学生であり、有島暁子さんからフランス語やダンスやマナーなどを事前に教わったようである。有島家と遠藤家は、家族ぐるみの交流があり、中でも有島暁子さんの影響は、遠藤周作さんの生涯にわたっているような記述がある。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~matu-emk/matuyas.html より

1982年に有島暁子が死去した時、遠藤周作は学生時代に有島生馬、暁子親子が住んでいた七里ガ浜の「松の屋敷」に土曜になると行って世話になったことを回想していた。生活にも苦しく将来の展望も開けなかった時代である。戦後間もないのにここには酒が十分にあった。それに室内には、セザンヌの絵やロダンの彫刻などが、あって鑑賞できたことは他では味あうことが出来ない体験であった。また有島暁子の紹介で、鎌倉在住の神西 清、中村光夫らの作家や評論家の面識をうることが出来るようになった。苦学生の遠藤周作にしてみれば、上流階級のサロンの雰囲気を体験した最初であった。遠藤周作によると、有島暁子は本当の意味のレデイ-であったと絶賛する。遠藤周作がフランスに留学する前に「松の屋敷」に足繁く通ったことは、渡仏後の生活に大いに勉強になった事であろう。留学から帰国後、作家になり、キリスト関係の小説「沈黙」を発表して宗教界に波紋を投げかけた時にも、精神的な支援を受けた。

遠藤周作は晩年、仏壇の前の母親、兄、有島暁子と在仏中に世話になったR夫人の遺影に水をあげることを欠かさなかった。肉親は別としていかにこの二人の女性が生涯の恩人であるかがわかる。有島暁子が晩年、当時小田急線沿線に住んでいた遠藤周作の家にやってくる。そして一晩泊めて欲しいと言う。その時にはすでに有島暁子はガンに冒されていて、余命いくばくもないことを知っていて最後の別れに来たのであろうという。有島暁子は篤い信仰の女性である。病魔を恐れることなく淡々とそれに立ち向かって動揺の色を顔に出さなかったことは、多くの手術を経験してきた遠藤周作をして兜を脱がした。

この「松の屋敷」に有島生馬夫妻と一人娘の暁子が、東京麹町の広大な武家屋敷から移住してきたのは、大正10年12月であった。その前半年ほどの間、近くにある新渡戸稲造の別荘(現 聖路加看護大学アリスの家)に滞在していた。この頃から東京の文化人、山下新太郎、石井柏亭 、与謝野夫妻、西村伊作、 河崎なつ、沖野岩三郎 、海老原喜之助などが有島家に集まるようになった。いわば多種済済 一種の芸術家のサロンである。

有島生馬は、新渡戸稲造の別荘から数軒先のイタリヤ人が所有していた屋敷the pines の屋敷内を偶々留守番の老人に案内されてすっかり気に入ってしまった。邸内には伸び放題の樹木の陰にベ-ジュに茶で縁取りしたコロニアル スタイルの家屋、文字通り廃屋である。

有島生馬は次のように書いている。「なぜか訳は分からないが、私は木の香りのぷんとするような真っ白い新築の家屋は嫌いだ。」(中略)「、、、、、しかし私はそれよりも、もっと古い家、いつからかもう人のすみ捨てたような家、壁が落ち軒が傾き、月が常住の灯火をかかげ、霧が不断の香りを焚くと謡われたような廃屋をみるのが好きだ。なぜか分からない。、、、、、、、」[四阿屋から木造の本館の全体が一目に見られた。総二階の殆ど四角いペンキ塗りの建物だった。南側に海と日光に向かって広いベランダをひろげていた。、、、、中略 、、、、、、、鎧戸がどの窓をも堅く閉じていた。一度はどの窓も目をあいていたにちがいない。見ていたにちがいない。主人が息を引き取ると総ての窓も自ら目を閉じて終わった、、、、、、、]

有島暁子はもしこの時点で父とこの廃屋の「松の屋敷」の出会いがなかったら、この家は昏々と眠り続け、永久に目を閉じたであろうと言っていたが有島生馬によって又目を開かれるようになった。

大正9年に東京にいた時に暁子は、疫痢にかかり九死に一生を得たのであるが、その後鎌倉に来てこの「松の屋敷」の生活は幸福そのものであった。母親はピアノのレッスン、父親なキャンバスに向かい疲れると、庭から七里ガ浜の砂浜に通じる渚を何の心配することもなく散策の日々といった生活を過ごしていた。生馬の作品の中に、この「松の屋敷」の門構えの風景が描かれているのがあるが、有島家の至福の時代を象徴すると言ってよい。

有島生馬が最初にこの「松の屋敷」を訪れた時に、留守番をしていた老人は、新しい主人の有島家の忠僕となった。、昔船のボ-イをしていた時の経験を生かし来客時には腕によりをかけて食事の支度をした。そして天涯孤独なこの老人は生馬の腕に抱かれてその生涯を終えた。もし生馬と出会わなかったら、愛犬と暮らしていたこの老人はどんな最期を迎えたであろう。

明治23年に建てられたこの屋敷の持ち主は、明治時代に来日したイタリヤ人で、日本で産をなしアメリカに帰化し、その頃すでに8年前にアメリカで死去していた。、遺産相続人がいなくて米国政府が管理していた物件であった。有島生馬は横浜のアメリカ領事館に交渉して買い取り、改造して住めるるようにしたのである。

戦時中は米軍が相模湾から上陸するという風聞があったので、有島家は信州の南佐久に疎開した。この時から有島家と信州との関係が生まれた。戦後になっても、信州が気に入り鎌倉に帰ってくるのが遅かった。勿論食料事情が悪かったこともあろうが居心地がよかったのである。鎌倉に帰って来てからも信州を往来した。

有島生馬が1974年に死去した後も暁子は住んでいたが、生前こよなく愛し続けて住んだ「松の屋敷」を何とか保存する道はないかと心にかけていた。生馬の遺志が生かせるなら、無償で提供するということを聞きつけた信州新町が候補地として名乗りを上げた。1980年夏に解体作業が始まり、信州新町の内外の人々による寄付によって移築され、有島記念館として存続するようになった。

「松の屋敷」が移築された後も暁子はその一隅に住み、大半は暁子ゆかりの上智大学の研修保養所になった。そして2年後の1982年にその責任を果たしたかのごとく暁子も永遠の眠りについた。こうして有島生馬 暁子親子二代に亙って思い出深い「松の屋敷」は、長らくその生命を持ち続けることになった。若き日にイタリヤに留学した有島生馬が、イタリヤ人の建てた明治の洋館に住んだことは不思議な因縁と言わざるを得ない。

Love thy neighbour as thyself.

有島生馬の海村から

2018-05-09 05:24:18 | 文学・芸術
さればぞ人は身を映す鏡の胸に飛び入りて、
眼に抱き腕にいだき、またある時は村肝(むらぎも)の
心もともに、はためきて、潮騒高く湧くならむ、
寄せてはかへす波の音の、物狂ほしき歎息(なげかひ)に。

上田敏訳のボードレールの「人と海」より

地域理解のために、某S先生から有島生馬の「海村」と有島暁子の「松の屋敷」を勧められた。
有島生馬の「海村」の始めに、ボードレールの詩の引用の一部がある。
引用先である悪の華の「Les Phares 灯台」は、芸術論の詩であるので、有島生馬の著作の始まりにはふさわしく思われる。
Comme l'air dans le ciel et la mer dans la mer

「空の大気の流れや、潮の満ち引きのように」
絶えずとどまらず命は移ろい流れゆく

まるで、鴨長明の方丈記の書き出しの様相である。

行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。

Les Phares
Rubens, fleuve d'oubli, jardin de la paresse,
Oreiller de chair fraîche où l'on ne peut aimer,
Mais où la vie afflue et s'agite sans cesse,
Comme l'air dans le ciel et la mer dans la mer;

The Beacons
Rubens, river of oblivion, garden of indolence,
Pillow of cool flesh where one cannot love,
But where life moves and whirls incessantly
Like the air in the sky and the tide in the sea;

上田敏の「海潮音」を彷彿とさせるので、
上田敏訳のボードレールの「人と海」の訳詩も以下に紹介し、
海村のイメージで、海と人、そして地域を有機的につないでみたい。
勿論それは、山、川や大地と遊離したものとしてではなく

人と海

こゝろ自由(まま)なる人間は、とはに賞づらむ大海を。
海こそ人の鏡なれ。灘の大波はてしなく、
水や天(そら)なるゆらゆらは、うつし心の姿にて、
底ひも知らぬ深海の潮の苦みも世といづれ。

さればぞ人は身を映す鏡の胸に飛び入りて、
眼に抱き腕にいだき、またある時は村肝(むらぎも)の
心もともに、はためきて、潮騒高く湧くならむ、
寄せてはかへす波の音の、物狂ほしき歎息(なげかひ)に。

海も爾(いまし)もひとしなみ、不思議をつゝむ陰なりや。
人よ、爾が心中の深淵探りしものやある。
海よ、爾が水底の富を敷へしものやある。
かくも妬げに秘事のさはにもあるか、海と人。

かくて劫初(ごうしょ)の昔より、かくて無数の歳月を
慈悲悔恨(じひかいこん)の弛(ゆるみ)無く、修羅の戦酣(たたかいたけなは)に、
げにも非命と殺戮と、なじかは、さまで好もしき、
噫、永遠のすもうどよ、噫、怨念のはらからよ。

L'homme et la mer

Homme libre, toujours tu chériras la mer !
La mer est ton miroir ; tu contemples ton âme
Dans le déroulement infini de sa lame,
Et ton esprit n'est pas un gouffre moins amer.

Tu te plais à plonger au sein de ton image ;
Tu l'embrasses des yeux et des bras, et ton coeur
Se distrait quelquefois de sa propre rumeur
Au bruit de cette plainte indomptable et sauvage.

Vous êtes tous les deux ténébreux et discrets :
Homme, nul n'a sondé le fond de tes abîmes ;
Ô mer, nul ne connaît tes richesses intimes,
Tant vous êtes jaloux de garder vos secrets !

Et cependant voilà des siècles innombrables
Que vous vous combattez sans pitié ni remord,
Tellement vous aimez le carnage et la mort,
Ô lutteurs éternels, ô frères implacables !

話を戻し、ここ「海村」から、地域理解も深めていきたい。
抽象的な芸術論でなく、地域と実際に関わりながら
決して忘却の川に流され、単なる懶惰の園とならぬように