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ベトナムの小学校に新校舎をプレゼント

2018-04-21 08:12:41 | 地域情報
中高一貫校「鎌倉学園」(鎌倉市山ノ内)の生徒が集めた資金を元にした新校舎が先月、ベトナムの小学校に完成した。ベトナムを訪ねる研修旅行をきっかけに「現地の役に立ちたい」と始まった取り組みで、今後は現地の子どもたちや地域の人との交流を深めていきたいという。 (北爪三記)
 同校は二〇一五年から、中学三年~高校二年の希望者を対象にベトナムなどへの研修旅行を実施している。学校設備が十分に整っていないベトナムの地方を目の当たりにした一回目の参加生徒から、帰国後「何か役に立てないか」と声が上がり、有志による募金活動が始まった。
 当初、募金の具体的な目的は決まっていなかったが、同国中部のクアンナム省にあるホアンヴァントゥ小学校が、水害と老朽化に悩み、高台への新校舎建設を願っていることを知った。そこで昨年一月、新校舎建設を目指す募金活動と交流を進める「バンタンプロジェクト」を発足させた。「バンタン」はベトナム語で「親友」を意味する。
 文化祭などでの募金を通じ、生徒や教職員、来校した保護者らの協力を得て約四百五十万円を集めた。先月二十七日に現地であった式典には、研修旅行の生徒六十三人が参加。高校二年の榊原慧(さとる)さん(16)は「代表の小学生が『夢にまで見た新校舎をありがとう』とあいさつしたのが印象深かった」と振り返る。
 これまでの研修旅行と同様に、運動会や折り紙など、小学生と触れ合う催しも生徒たちが企画した。高校一年の杉本遥哉(はるや)さん(15)は「一緒に食事をした時、子どもたちが現地の食べ方を教えてくれた。言葉は分からなくても通じるんだ、とうれしかった」と話す。
 かつて研修旅行でベトナムを訪ね、募金活動に取り組んできた高校三年の尾崎雄飛(ゆうひ)さん(17)と相川慧斗(けいと)さん(17)は「自分たちがやってきたことを後輩たちが続けてくれる。校舎が完成して本当にうれしい」と口をそろえた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/list/201804/CK2018041502000142.html より

親鸞聖人のご生誕および、文学作品関連など

2018-04-01 11:49:16 | 文学・芸術
吾々は知りつつ生きまた生きつつないし生きることによって何ものかを知る(「宗教哲学序論」)
私も、かつては分からないながらも、★波多野精一氏の宗教哲学に心奪われたこともありました!

アマゾンの書評には、以下のように書かれている、
はじめから日本哲学を構築しようとした西田幾多郎に対し波多野の業績はあまり注目されていないように思う。
 波多野の業績はおそらく日本哲学界の学術レベルで世界レベルに引き上げたことである。彼は24歳で哲学史を著し、また徹底的なテキストを分析する風土を根付かせ(もともと日本では経典研究が盛んだったという側面はあるが)今日に至る日本の学術体制を築いた。西田と波多野の二人なくして今日の日本哲学界の隆盛はなかったであろう。
 さて本書には「宗教哲学三部作」の最終編『時と永遠』と「三部作」の導入編ともいうべき『宗教哲学の本質及其根本問題』が収録されている。これらの作品で描かれた波多野の時間論・他者論そして文化論は宗教哲学関係者だけでなく一般の人々にも興味深いものだと思う。文庫化を機会に再び『時と永遠』を読み返したのだが波多野の学識と思索・信仰の深さには感動してしまう。生前波多野は西田に対し「西田君の哲学は一晩でできるけど僕のはそうはいかないよ」とうそぶいたそうだが、波多野の著作を読む者は誰もが波多野の言葉に納得してしまうのではないだろうか(もちろん西田哲学も一朝一夕で理解できるものではない)。ぜひ同文庫の『』ともに読んでほしい。波多野の学識・思索に触れることが波多野哲学を学ぶ一番の方法と考える。

まさに同感であり、氏の『時と永遠』を読んだ際の『これだ!』という感慨は、西洋哲学には感じられない全体感がありました!

★波多野精一
ブリタニカ国際大百科事典より
波多野精一
はたのせいいち

[生]1877.7.21. 松本
[没]1950.1.17. 東京
宗教哲学者,哲学史家。 1899年東京大学哲学科卒業。同大学院でケーベルの指導を受け,1904年から2年間ドイツに留学,当時の神学界で革新的な宗教史学派であった A.ハルナック,E.トレルチらの影響を受けた。 17年京都大学教授となり宗教学講座を担当。三木清をはじめ多くの弟子を育て,37年に退官,49年には玉川大学学長に就任している。彼の宗教哲学の特徴は,宗教の対象 (神) を哲学的に考察するのではなく,宗教的信仰の体験を考察の対象とすることで,批判哲学の立場から宗教そのものの本質を反省するところにある。著書には,『西洋哲学史要』 (1901) ,『基督教の起源』 (09) ,『宗教哲学の本質及び其の根本問題』 (20) ,波多野宗教哲学の3部作といわれる『宗教哲学』 (35) ,『宗教哲学序説』 (40) ,『時と永遠』 (43) などがある。


いずれにせよ、本日は四月一日なので、誕生日とされている親鸞(しんらん)1173~1262
浄土真宗を開いた、鎌倉時代の僧などについて言及してみたい。

現在、西本願寺などでは明治6年(1873年)に明治政府によって暦制が改正されたときに太陽暦(新暦)に換算されると、旧暦4月1日生まれとされている親鸞聖人は太陽暦だと5月21日に該当するとされました。

そのため西本願寺などでは5月21日が親鸞聖人の誕生日だと定め、明治7年5月21日の降誕会(誕生日を祝う法要)以降はこの5月21日が親鸞聖人の誕生日だと広く認識されるようになりました。

今でも各ご本山では5月21日前後に「親鸞聖人降誕会」や「宗祖降誕祭」といった名称で法要が営まれています。

日野有範(ありのり)の子として京都に生まれました。9歳の時、青蓮院の慈円について出家して、20年間比叡山で修行したのち、山を下って法然(ほうねん)について教えを受け念仏に励みましたが、おりから奈良や比叡山の僧たちの反対にあって、建永二年(1207年)の念仏停止の際、法然は土佐(高知県)に、親鸞は越後(新潟県)に流されてしまいました。

この流罪の地で恵信尼と結婚し、日本で初めて公然と結婚した僧となりました。2人の間には善鸞・覚信尼が生まれています。

のち、ゆるされて浄土真宗を開き、関東で教えを広めました。「南無阿弥陀仏」と、念仏をとなえることによって極楽往生ができると説き、人々の心の救いに大きな力となりました。

その教えは、貧しく苦しい生活をしている農民の間に、ますますひろがりました。晩年に京都へ帰り、京都で亡くなりました。門下に真仏・性信・唯円など。

又、「教行信証」「浄土文類聚鈔」「愚禿鈔」「唯信鈔文意」などの多くの著書があります。なかでも「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。」という、有名な言葉は親鸞の思想をよくあらわしています。
浄土真宗
浄土宗の分派で、親鸞の創始。阿弥陀仏の本願他力の回向(えこう)によって往生すると説くもので、法然が念仏を根本とするのに対して信心のみで往生できるとする。親鸞の没後、本願寺派・大谷派・高田派・仏光寺派・興正派・木辺派・三門徒派・山元派・誠照寺派・出雲路派の一〇派に分かれた。また、僧は妻帯を許された。真宗。一向宗。門徒宗。

南無阿弥陀仏
梵語の音訳で、「帰命無量光覚」と訳す。仏語。阿弥陀仏に帰依することを表すことば。浄土の信仰者は等しくこれを称えて極楽浄土を願う。真宗ではこれを六字名号といい、仏名とし、これを本尊とする。

善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや。
「善人でさえも阿弥陀浄土に往生できる。悪人は最も救済が必要なものである故に、阿弥陀如来様の本願からすれば、まっさきに阿弥陀浄土に往生できる存在である。」彼は阿弥陀様が真っ先に救うのは徳を積んだ修行者よりもむしろ迷いの多い者であるとした悪人正機説も唱えています。
親鸞は、抗争に明け暮れる比叡山の姿に失望し、山を降りて29歳の時、京都六角堂に篭り百日の参篭をします。そして、この95日目に彼は夢を見ます。彼の夢記にはこう書かれています。

六角堂の救世大菩薩、顔容端政の僧形を示現して、白柄の御袈裟を服著せしめて、広大の白蓮に端座して、善信(親鸞の当時の名前)に告命して言はく。行者宿報にて設ひ女犯すとも我れ玉女の身となりて犯せられむ。一生の間、能く荘厳して、臨終に引導して極楽に生ぜしめむ。

この夢が後の親鸞の性に関する思想のベースになったとされます。

その後、流罪の地で彼は恵信尼と結婚し、日本で初めて公然と結婚した僧となります。それまでも事実上結婚している僧は多かったのですが、親鸞においてはそれは正しいという理論的な背景をもとに公然と断行したことが評価されています。そして親鸞にとって恵信尼は六角堂の夢で見た観音様の化身に等しい存在であったともいわれています。
親鸞の弟子たちも全国各地で活動を行いますが、やがて室町時代に上述蓮如が出て本願寺を真宗の中心にし、現在まで至る真宗教団の基礎的な組織作りを行います。やがてこの強大な教団はその力を恐れた信長や家康らに弾圧され、東西本願寺の分割などの宗派分断策にあうことになります。現在真宗は本願寺派・大谷派・高田派・仏光寺派・木辺派・興正派・出雲路派・山元派・誠照寺派・三門徒派の10派に分かれています。むろんその中でも多くの信者を抱えているのは、東本願寺を本山とする大谷派と西本願寺を本山とする本願寺派です。

親鸞に関連した作品と余波

http://blogyang1954.blog.fc2.com/blog-entry-558.htmlより
**三木清
親鸞
2014/11/0608:54 0 0
三木清はマルクス主義的哲学者のイメージがあるが、実は宗教哲学者ではないかと思う。パスカルで始まり、親鸞で終っているからである。また、三木清はその名のごとくには清くない。女人を愛し、権力を愛した俗物であったという。親鸞同様、豊かな情操をもっていたがゆえに人間的であったということだろう。

三木清は1926年、29歳のとき、岩波書店から『パスカルに於ける人間の研究』を出版し、哲学者として華々しくデビューした。そして、1945年3月、48歳のとき、警視庁に検挙され、同年9月、巣鴨の東京拘置所で獄死した。検挙されたとき、『親鸞』を執筆中であった。

「・・・本願は弥陀の本願として特殊のものである。しかしながらこの仏は単に自己のみが成仏することを志願したのではなく、弘く世と共に救われんことを誓ったのである。弥陀の本願はこの仏[以下欠]」

このように、原稿は突然ぶった切られているのだ。親鸞が明らかにした真実の教と行と信と証とがいかなるものであり、また相互にいかなる関係にあるかについて述べていく、その前に、一般に真実というものが何を意味するかについて論じておこう、として、真実について語り始めたところだったのである。

“浄土真宗には帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし“

親鸞は、釈迦が死んで久しく、弥勒が未だ現れていないこの末法の世の中で、悩み、苦しんでいる。末法の真の教えは『大無量寿経』にあることを、固く信じてはいるが、真理とは程遠い自分の現実に懺悔の日々を送っている。三木清は、こういう親鸞の人間性に焦点を合わせて論じようとしていた。もし本論文が完成したならば、『親鸞に於ける人間の研究』とでも名付けたのではなかろうか。

日本大百科全書より
**三木清
みききよし
(1897―1945)

哲学者。明治30年1月5日、兵庫県揖保(いぼ)郡平井(ひらい)村(現、たつの市)の富裕な農家の長男として生まれる。1914年(大正3)第一高等学校に入学、西田幾多郎(にしだきたろう)の『善の研究』を読んで感動し、1917年京都帝国大学哲学科に入り西田に師事した。卒論は「批判哲学と歴史哲学」。新カント派の影響が強く示されているが、末尾で「普遍妥当的な価値は如何(いか)にして個性のうちに実現されるか、これが我々の根本課題である」と記し、早くもそれを超えていく姿勢がみられる。
 1922年から1925年までドイツ、フランスに留学、リッケルト、ハイデッガーに学んだ。留学中から発表していた論稿をまとめて『パスカルに於(お)ける人間の研究』(1926)を処女出版。「意識」に与えられた人間ではなく「絶対に具体的なる現実」としての人間を、「哲学の体系」としてではなく「生」そのものにおいて理解しようとしており、ハイデッガーの影響とともに、三木独自の人間学の出発点が示されている。1927年(昭和2)法政大学教授となるが、このころから「人間学のマルクス的形態」をはじめ多くのマルクス研究を発表、一躍論壇のスターとなった。これは、マルクス主義の理論家福本和夫(ふくもとかずお)の華々しいデビューに刺激された面もあるが、自らの人間学に物質的な基礎を与えようとする意図を秘めていた。それらは、固定した公式として客観的な法則として理解されがちだったマルクスの思想を、「社会に於(おい)て生産しつつある人間」から出発して「発展の過程にある現実的なる理論」として主体化しようとする試みであった。しかし、正統派左翼からは「観念論の粉飾形態」として厳しく断罪された。
 1930年、日本共産党に資金を提供したかどで治安維持法違反に問われて検挙され、以後公職を退き、マルクス主義からもしだいに距離を置くようになった。『観念形態論』(1931)、『歴史哲学』(1932)、『人間学的文学論』(1934)などを公刊する一方、雑誌や講座の執筆、編集に精力的に活動した。また、ヒューマニズムの立場にたって、ナチスへの抗議、京大滝川事件への抗議、天皇機関説問題への警告など、社会的にも活発に動いた。1937年「構想力の論理」第1回「神話」を発表し、以後「制度」「技術」と書き継いで、『構想力の論理 第一』(1939)をまとめた。さらに「経験」を書き、「言語」を予告したが未完に終わった。これは、スタイルのうえでは体系的な叙述になっていないが、同時期に並行して発表した『哲学ノート』とともに、自らの思索に一定の形を与えようとする三木の試みであった。
 三木の思想のもっともまとまった叙述は『哲学入門』(1940)にみられる。ここには、終生の師である西田の影響とともに、マルクス体験も刻印されている。現実を「対象」としてではなく、「そこで働き、そこで考え、そこに死ぬる」「基底」とし、「主観的・客観的なもの」としての人間に着目し、世界を創造することによって自己を形成する「技術」の哲学を展開している。この間、近衛文麿(このえふみまろ)内閣の政策集団「昭和研究会」に参画、理論的主柱となる「新日本の思想原理」(1939)を書き、「東亜協同体論」を提起した。しかし、時代への抵抗は、しだいに絶望感から虚無感へと変化し、親鸞(しんらん)の末法思想へと傾いていく。1945年(昭和20)3月、友人タカクラ・テルをかくまったかどでふたたび治安維持法違反に問われ、戦後も釈放されないまま、同年9月26日東京の豊多摩拘置所で獄死した。1964年故郷のたつの市白鷺山公園(しらさぎやまこうえん)内に三木清哲学碑が建立された。[渡辺和靖]
『『三木清全集』全19巻(1966~1968・岩波書店) ▽『人生論ノート』(新潮文庫) ▽『哲学入門』(岩波新書) ▽三木清著『哲学と人生』(講談社文庫) ▽唐木順三著『三木清』(1950・筑摩書房) ▽宮川透著『三木清』(1958/新装版・2007・東京大学出版会) ▽荒川幾男著『三木清』(紀伊國屋新書)』



http://abetomoji.sakura.ne.jp/sakuhin/hoshu_1.htm より


*阿部知二『捕囚』    (河出書房新社版『阿部知二全集』第9巻に収録)

[初出・初刊本]  昭和46年8月~48年5月、昭和48年7月河出書房新社刊

[作品の位置]筆者の死に至るまで書き続けられ、中絶のまま遺作となった畢生の作。

三木清をモデルに、自らの戦争体験を織り交ぜながら語られる、知二の戦後の総決算

となるべき長編小説。
本文より
   戦争が終わって五年たったころ一つのふしぎな文章があらわれた。よく知られぬ小評論雑誌の片隅に匿名の筆者によって書かれたものだったが、たちまち多くの人をさわがせるという結果を生んだ。
そのようなことになったのは、それが園伸一という高名な人物のことを書いていたからにちがいなかった。彼は二十年ほどにわたって、この国の主として知識人・青年たちのあいだにきわめて大きな影響をあたえた哲学者・評論家だったが、戦争の末期に、ひそかに共産運動に同情してそれを助けたという理由で検挙投獄され、戦争が終わっても一月あまりもそこに置かれたまま病死したのであった。そのことが当時の社会を衝撃しないはずはなかった。園伸一の死という事件は、ただ知識人や学生などの間だけではなく、はるかに広い層にまで強い響きをもってつたわっていった。はげしい悲しみと憤激の声がわきおこった。彼は理不尽で残酷な戦争によって、ありもせぬ言いがかりを官憲によってつけられて獄死するにいたったところの、もっとも痛ましく良心的な殉教者であるとする声が圧倒的だった。この死によって、戦後まだ牢獄に置かれていた多くの政治犯の釈放が促進された。あらためて彼の学識や思想についての関心と尊敬とが高まり、彼の本は、代表的論文はもとより、小さな感想集のようなものにいたるまで争って読まれた。その獄死後一年もたつと、きわめて困難な出版事情にもかかわらず、有力な出版社によって完璧を期した全集が刊行されることにもなった。また、彼の心が複雑で深かったことや、彼の教養がゆたかで人柄が高邁であったことなどについて、生前に彼を知っていた多くの人びとが書き、それを多くのものが熱心に読んだ。こうして園伸一は、神格化されたというのは誇張の言だとしても、この近代の日本が生んだもっとも重大な人間像の一つとして歴史に残ってゆくであろうということに疑いは持たれなかった。
ところで、あの小雑誌に出た一文章は、そのような崇敬の感情・思想の熱狂的ともいうべき燃えあがりにたいしてさらに一つの力を加えた、というのではなかった。それが社会の多くのものをさわがせたというのは、逆に、きわめて冷やかに一石をその熱狂のただ中に投げこんだからであった。つまりその文章は、薗の死をいたみ思想と業績とをたたえつつ軍国主義にいきどおりを発した人びとが考えたようなものとは、まったく正反対の性質をもった人間像を、まちがいもなく園の真実の姿だとしてしめしたのであった。それによるならば、彼は高貴悲壮な殉教者どころではなかった。まったく醜悪な男であり、それどころか邪悪な男であったともいえそうであり、よしんば一歩しりぞいて同情をもって見たとしても、まったくあわれむべき、奇怪で滑稽ですらある矛盾だらけの男ということが語られていた。(後略)
梗概(黒田大河氏)
  哲学者園伸一が敗戦後に獄中死した事件は、人々に大きな衝撃を与え、彼の書物は争って読まれた。しかし、「良心的な殉教者」として人々の心に残った彼の真実の姿は、全く反対のものであるとする「一つのふしぎな文章」があらわれた。従軍中の矛盾に満ちた言動をあげつらったこの匿名の文章は、果たして誹謗中傷にすぎないのか、それとも真実なのだろうか・・・。(この文章は今日出海「三木清における人間の研究」〈「新潮」昭和25年2月〉をモデルとしている。)

 「わたくし」園伸一は政治犯「ナの一一八号」として獄中に囚われている。しだいに健康が衰えていく中で、夢現のうちに「わたくし」は過去を回想し、また様々な人物の幻の訪問を受ける。物語は戦争の終結を予感しながらも「捕囚」としての自分の運命は人間全体の運命でもあると感じている、獄中の肉体に縛られた「わたくし」と、意識の流れの中でかつての園伸一を追体験する「わたくし」とで構成されている。京都で大北先生(モデルは西田幾多郎)の下で学んだ頃のこと、日中戦争が始まった頃抵抗を底に秘めた「刃わたり」のような演説を行ったこと、と回想は続く。徴用先のジャワ(インドネシア)でドクトル・Lと語り合ったこと(モデルである三木清はフィリピンに赴いたので、この部分は知二自身の経験を下敷きにしている)。日本軍政下で「Gefangen」(とらわれ人)としての自分の運命を痛感すると語るドク
トル・Lに、人間の状態そのものが「捕囚」なのだと「わたくし」は悟るのだった。「非国民」「自由主義者」「アカ」と獄吏に罵られながら、「わたくし」の意識は次第に朦朧となり、白昼夢の中でかつての弟子である日野孝吉、「旧師」でありまた貧しい書肆でもある老人多治宗太郎、論敵である花木など様々な幻と出会うようになる。「わたくし」は教えを請う日野に向って、ドイツ留学時代、マルクス主義への接近、二・二六事件、K公爵(モデルは近江文麿)の「現代政治研究会」への加盟などを語り続ける。獄吏からはついに発狂したかと思われながら、園伸一の抵抗とも後退ともつかない内面の葛藤を「わたくし」はたどって行く。
やがて奇妙な静けさの中で、敗戦が近いことを「わたくし」は予感する。だが、この獄から放たれても先には「空漠の世界」が広がっていると感じる。中絶した最終章、現在の「わたくし」は作品の背後へと後退し、ジャワへと徴用された園伸一の内面の軌跡が描かれていく。命尽きようとする現在の「わたくし」と園伸一、そして知二自身が重なり合いながら、「捕囚」としての人間の運命が辿られていく。戦中の知識人の典型として三木清の運命をなぞりながら、知二は自らの戦中・戦後を振り返っているのである。

*阿部知二
https://www.kobe-np.co.jp/column/seihei/201711/sp/0010708188.shtml より

姫路ゆかりの作家、阿部知二の書斎が城近くの住宅街に残っている。2階の窓辺から、お壕(ほり)の水面と濃緑の木立が見える。城の姿を求めて木々の合間に目を凝らす◆1936(昭和11)年に出した『冬の宿』が、戦争に向かう不安な時代の知識層に支持され、有名作家になった。戦後は国際ペンクラブ大会に出席し、日本戦没学生記念会(わだつみ会)の理事長を務め、ベトナム反戦も訴えた◆「激動期、知識人として発言を続けた歩みを再評価すべき」。結成25周年を迎えた「阿部知二研究会」の事務局長森本穫(おさむ)さんは言う◆知二は10代の多感な時期を姫路で過ごした。終戦を挟んで、帰郷した40代の5年間に『城-田舎からの手紙-』を書く。揺れ動く時代、自らの立ち位置を確かめるように思索する日々を描いた◆「疾風(しっぷう)と轟音(ごうおん)とがうず巻く真中に、城は、その白い甍(いらか)と壁とを火の色に染められながら、昼間にみるよりもけざやかに空にきらめきながら立っていた」。空襲に遭いながら焼失を免れた城から生命力を感じ取り、戦後を生きる力にしたのだろうか◆遺作は、たつの市出身の哲学者で獄死した三木清をモデルにした『捕囚(ほしゅう)』である。73年に知二が亡くなった後、未完のまま刊行された。播磨の作家の集大成だと感じ入る。2017・11・6
阿部知二 あべ・ともじ(1903—1973)            


http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/SAKKA/a/abetomoji.html より

明治36年6月26日—昭和48年4月23日 
享年69歳 
神奈川県川崎市多摩区南生田8丁目1–1 春秋苑墓地中6区6–19 

小説家・評論家・英文学者。岡山県生。東京帝国大学卒。昭和11年長編小説『冬の宿』で好評を得る。次いで『幸福』『北京』『街』『風雪』などを発表。29年発表の『人工庭園』は『女の園』として木下恵介監督で映画化された。『黒い影』『日月の窓』などがある。

...汽車が昼過ぎに東京駅を出て、横浜をすぎ、相模の方までくると、私の眼にぱっと映ったものは春の季節の色だった。この薄曇りさえ、春のやわらかさであった。野には麦が青々と萌え、松の樹々もまだ芽吹かぬまでも、どことなく明るい緑の色調を持って若やいでいた。竹藪にはこまかな光がうるんでいたし、その傍には、白や淡紅色の梅の花が咲き盛ってかがやいていた。曇った空は底の方から、たまらなくやわらかな徴光を発してうるんでいた。光が、空にも、地上にも、しずがに流れながら次第に溢れてこようとしていた。「なあんだ。」と、窓に顔を寄せていた私は呟いた。昨日まで、いや、今が今まで、厳しい、冷たい蒼白な冬の真ん中にちぢこまって生きていたと思ったのに、もう外の世界は暖かな光であふれていたのだ。冷酷な冬は、あの一軒の家にばかり、爪を立てたように居残っていたばかりなのだ。そこから解き放たれたことは事実だ。----それからしばらくして、「おや、不思議だ。」とひりひりするこめかみのみみず脹れを撫でながらつぶやいた。...(冬の宿)

 戦前は反プロレタリア文学の立ち位置にいたのだが、陸軍報道班員としてジャワ(インドネシア)に送られ、図書館や個人蔵書などから日本に有用なものを探し、また敵性に捗るものを没収したりする仕事の体験をした。戦後は、一転して進歩派として左傾化していった。世界ペンクラブ代表として渡欧してからは、より顕著に平和運動に関わっていくようになる。
 昭和46年11月、国立がん研究センター中央病院に入院。食道がんに侵されていた。翌年4月に退院するが、5月から三木清を題材にした『捕囚』は口述筆記になった。48年4月12日に再入院、4月23日、その口は永遠に閉ざされ『捕囚』は未完になってしまった。


 戦後の阿部知二は進歩派の代弁者として行動し、東京帝国大学の学生同人誌『朱門』の同志であった舟橋聖一は〈阿部君は終始一貫、人気をひけらかすような作家ではなかった〉と記している。
 生田丘陵にあるこの霊園の周辺は明治大学や専修大学などもある文教地区であるが、若い学生たちはともかくも体力の衰え著しいわが身には駅からの上り坂は相当に堪えるのだった。
 漆黒に磨かれた「阿部家」墓碑は、写真で見る作家の上品で柔和な眼差しと微笑みをたたえた口元に比して、碑面に写り込む風景をきっぱりと跳ね返して厳粛に座している。白御影の延べ壇に、つい先ほど植え込みから切り落とされたばかりの枯れ枝が散乱して、あわただしい夕景が横切っていこうとしていた。


合掌