種まく人から人々へと・ 命の器(いのちのうつわ)

身近な地域から世界へ
貢献する活動や情報など

がん免疫療法の誕生 科学者25人の物語

2019-03-29 06:57:09 | 命・地球 NPO
以前、*NPO「命・地球」の招聘により、ご講演いただきました河本宏先生(京都大学ウイルス・再生医科学研究所副所長、再生組織構築研究部門再生免疫学分野教授〕の新たな翻訳書が出版されました!
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8C%E3%82%93%E5%85%8D%E7%96%AB%E7%99%82%E6%B3%95%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F-%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%8525%E4%BA%BA%E3%81%AE%E7%89%A9%E8%AA%9E-Neil-Canavan/dp/4815701415/ref=mp_s_a_1_3?_encoding=UTF8&imageClass=hi-res&keywords=%E6%B2%B3%E6%9C%AC%E5%AE%8F&phoneCarrier=wifi&phoneType=iPhone&qid=1553810123&rd=1&s=gateway&sr=8-3&view=Touch9

内容紹介
2018年にノーベル生理学・医学賞を受賞した本庶佑氏やジェームズ・アリソン氏をはじめとする、がん免疫療法の基礎・臨床研究のパイオニア25人をジャーナリストが取材。それぞれの研究内容に加え、重要な発見に至るまでの苦難と成功を具体的に描く。研究者直筆のイラスト、生い立ちや人となりもあわせて紹介し、難解ながん免疫療法の全体像を最後まで興味深く知ることができる。
出版社からのコメント
祝・ノーベル賞受賞! がんの「第4の治療法」の原点

本書は研究者へのインタビューのみにもとづいて執筆された、がん免疫学の開拓者たちの物語だ。失敗と復活、救済と成功―発見と、直観と、狡智の物語だ。地球上で最も才能に恵まれた医学者たちの人生と思考を垣間見るものだ。がん免疫療法を実現するために人生を捧げてきた、生きて、息をして、考える、魅力的で、傲慢で、愉快で、頑固で、執念深く、喜びにあふれ、飲みすぎの、あるいは一滴も飲まない、一流の人間の物語だ。(「序論」より)


目次

セクション 1 
CTLA-4(第1章 ジェームズ・アリソン―CTLA-4を発見:免疫チェックポイント阻害薬の開拓者;第2章 ジェド・ウォルコック―イピリムマブ臨床試験を先導;第3章 アクセル・フース―がん免疫療法における治療効果判定法の見直しを提唱)
セクション 2 
PD-1(第4章 本庶佑―PD-1を発見;第5章 ゴードン・フリーマン―PD-1のリガンド,PD-L1を発見;第6章 スザンヌ・L・トパリアン―抗PD-1抗体の臨床試験を先導)
セクション 3 
免疫監視機構(第7章 ロバート・シュライバー―免疫監視機構の存在を証明)
セクション 4 
ワクチン(第8章 ドルー・パードル―GVAX:がん細胞を用いたがんのワクチンを開発;第9章 エリザベス・ジャフィー―GVAXで膵臓がんに挑戦)
セクション 5 
基礎的な発見,概念実証(第10章 ラルフ・スタインマン―樹状細胞を発見;第11章 タック・マック―T細胞受容体を発見;第12章 フィリップ・グリーンバーグ―養子免疫療法の開発;第13章 スティーヴン・ローゼンバーグ―養子免疫療法の元祖)
セクション 6 
キメラ抗原受容体発現T細胞(CAR-T細胞)(第14章 ジーリグ・エシュハー―CAR-T細胞の創始者;第15章 パトリック・フー―CAR-T療法の固形がんへの応用に挑戦;第16章 カール・ジューン―CAR-T療法で白血病を治療;第17章 ミシェル・サデライン―臨床応用に向けたCAR-T療法の技術開発)
セクション 7 
ビジネス・アット・ザ・ベンチ:1個のタンパク質,1個のウイルス(第18章 パトリック・バウエル―二重特異性抗体の開発;第19章 ロバート・コフィン―腫瘍溶解性ウイルス療法の開発)
セクション 8 
制御性T細胞(Treg)(第20章 ★坂口志文―制御性T細胞を発見;第21章 ジェフ・ブルーストン―制御性T細胞を用いた細胞療法を開発)
セクション 9 
細胞とシグナル:良くも悪くも(第22章 デヴィッド・マン―IDOの免疫系での作用を解明;第23章 ドミトリー・ガブリロヴィッチ―骨髄由来抑制細胞(MDSC)の発見
第24章 トム・ガジュースキー―インターフェロン遺伝子刺激因子(STING)をがん免疫療法に応用
第25章 ロランス・ジトヴォーゲル―マイクロバイオーム(腸内細菌叢)を用いてがん免疫療法を強化)
著者について

:Neil Canavan
キャナヴァン,ニール
科学・医学分野を20年以上にわたり取材してきた経歴をもつベテランジャーナリスト。この5年間は特に抗がん剤開発に関するテーマに強い関心を寄せている

河本/宏
京都大学ウイルス・再生医科学研究所副所長、再生組織構築研究部門再生免疫学分野教授。血液内科医から免疫学研究者に転向。2012年より現職。造血過程の研究と再生T細胞を用いたがん免疫細胞療法の開発研究を進めている

三枝/小夜子
東京大学理学部物理学科卒業。翻訳家(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

★坂口志文先生の医療と哲学の関連性が大変興味深い
ゆらぐ自己と非自己―制御性T細胞の発見
http://brh.co.jp/s_library/interview/89/


*NPO「命・地球」の講演会のお知らせ
(修了しました。ご来場の方々に感謝いたします。)

(Life Saves the Earth LSE JAPAN)

テーマ:
「 命とiPS細胞の未来(白血病と癌をたたく) 」

内容
~京都大学再生医療研究所の河本教授の講演と病気体験者談~

(日時・場所・参加)

日時2016年10月2日(日)
講演会は1時~3時30分

場所
「あーすぷらざ」
神奈川県立地球市民かながわプラザ

 横浜市JR本郷駅より徒歩2分
(根岸線 JR横浜駅より25分
 JR大船駅より3分)

テーマ:「 命とiPS細胞の未来(白血病と癌をたたく) 」
~病気体験者談の紹介と京都大学再生医療研究所の河本教授の講演~

会場 「映像ホール」 125名収容

時程 司会 NPO「命・地球」(常任理事)

・NPO「命・地球」代表挨拶
 13:00
 
・講演 河本宏教授 
京都大学再生医療研究所
(再生免疫学分野)

再生免疫学
河本 宏 教授の取組
Hiroshi Kawamoto, M.D., Ph.D, Professor

http://www.med.kyoto-u.ac.jp/organization-staff/research/doctoral_course/r-089/ より

造血においては多能造血幹細胞から順次分化能が限定されていき、いろいろの系列の単能前駆細胞が生成する。我々の研究室が目標としていることは,この分化能限定過程において,前駆細胞の運命を振り分ける分子機構を解析することである。造血過程の全体を研究対象としているが,中でもT細胞に至る過程に比重を置いて研究を進めている。
また、再生免疫細胞を用いたがんの免疫細胞療法の開発にも取り組んでいる。

 13:05~13:50
「命とiPS細胞の未来(白血病と癌をたたく)」前半

(休憩)

「命とiPS細胞の未来(白血病と癌をたたく)」後半 
 14:00~14:45

・作文朗読 小学生
(命・地球会員) 
 14:45~14:55

・講話、パネルディスカッション
 14:55~15:30

闘病の体験談(白血病体験者) 

サポート代表(命・地球常任理事)

闘病体験談(癌体験者) 
 ~15:30終了

聴講やご参加を心より期待しております。それでは、当日、お待ちしております。
                     
本会:NPO[命・地球]は、特定の党派・宗教・思想はもちません。

○講演に至る経緯です。
「 子供まだ中学生、働き盛りだった二人の父親に突然の病気が襲いかかります。告知されたのは「急性骨髄性白血病」と「ガン(リンパ)」でした。その時から長い闘病生活が始まります。あわせて妻や子の戦いも始まり、家族は献身的な日々を送ります。
 そのような中、病室で出会い多くありました。それがきっかけで、同じ病気などで戦う者と家族との励まし合い、若者の姿もありました。妻は夫の病気の回復を祈りつつ、皆の就学・就労を願って、NPOを立ち上げました。そこには、ドクターや看護士、友人、知人の励ましや協力がありました。
 難治性の高い病気経験中で、一筋の光が見えたのは、河本教授のiPS細胞研究の記事でした。闘病中に脳出血や再発を起こしてしまった夫の願い=(将来のiPS細胞で白血病やガンから患者を救う)を込めてiPS細胞研究の河本先生に直接お話を伺い、研究所(チーム)を訪問しました。
 今回の講演は、闘病の体験(社会復帰を目指す)と現在の医療(治療)・最先端医療の現状などを内容としてNPO「命・地球」の主催で講演会を企画しました。
 小学1年生だった夫は1964年の東京オリンピック(平和の祭典)に感動し、小学生3年生の1966年の(今井正アワー 主演 松村 達雄「がんかて笑って死ねるんや」)を見て、初めてガンの恐ろしさを痛感したと言います。時を経て、この2つが頭の中をよぎっています。2つのことは共に「命の大切さ」を考えるテーマ(夢の実現)として、将来2つの願いが叶えられることを願うばかりです。」
                *尚、NPO「命・地球」の詳細につきましては、「鎌倉のNPO(市民活動団体)紹介」をご参照下さい。
http://www.kcn-net.org/npo/641.html

www.npo-kama.sakura.ne.jp › partpdf

また、河本宏教授(チ-ム)に関しては、
以下⬇ホームページをご覧下さい。
http://kawamoto.frontier.kyoto-u.ac.jp/
以上、よろしくお願いいたします。

参考情報
「トムソン・ロイター引用栄誉賞」(ノーベル賞予測)2016年、日本からの受賞者は3名の、
ノーベル賞候補者の受賞理由が、以下のように、「がん免疫療法やがん治療」の分野に集中しています。

ノーベル賞発表前に、とてもタイムリーな講演会、11月2日午後1時より(あーすぷらざ)ができますこと、まさにすばらしいことです。

河本宏教授も本庶佑(Tasuku Honjo)氏も京都大学医学部で、お互いにお知り合いですね。
↓下記の資料を参考にしてください。

2015年10月6日(火)-7日(水)
http://kawamoto.frontier.kyoto-u.ac.jp/labNews/labNews2015.html 
第2回IFOM-京都大学合同シンポジウム「がん生物学の展望」

「がん免疫の業界ではPD1抗体がいろいろながんに奏効するというのが大きな話題になっているが、PD1は元々は本庶先生がクローニングしたということで、がん免疫分野での活躍が多くなってきている。」河本教授HPより

 
ノーベル財団は、今年のノーベル賞の発表日程を公表した。

10月3日の医学生理学賞を皮切りに
4日に物理学賞、
5日に化学賞、
7日に平和賞、
10日に経済学賞が発表される。

文学賞の発表日は、慣例により後日明らかにされる。授賞式は、創設者アルフレッド・ノーベルの命日に当たる12月10日に行われる。
 平和賞を選考するノルウェーのノーベル賞委員会は、今年の平和賞候補として過去最多となる計376の個人・団体の推薦を受けたとしている。(共同通信より)


「本庶 佑(Tasuku Honjo)氏 <医学・生理学> 京都大学名誉教授

「プログラム細胞死1 ( PD - 1 )およびその経路の解明により、がん免疫療法の発展に貢献」

松村 保広(Yasuhiro Matsumura)氏<化学>

国立がん研究センター先端医療開発センター新薬開発分野 分野長
「がん治療における高分子薬物の血管透過性・滞留性亢進(EPR)効果の発見」

前田 浩(Hiroshi Maeda)氏<化学>

崇城大学DDS研究所 特任教授
熊本大学 名誉教授
「がん治療における高分子薬物の血管透過性・滞留性亢進(EPR)効果の発見」

http://ip-science.thomsonreuters.jp/press/release/2016/nobel-laureates/

「トムソン・ロイター引用栄誉賞」(ノーベル賞予測)2016年、日本からの受賞者は3名


世界的な情報サービス企業であるトムソン・ロイター(本社米国ニューヨーク、日本オフィス:東京都港区)は、2016年の「トムソン・ロイター引用栄誉賞」を発表いたしました。2002年より毎年9月の発表が恒例化されている本賞は、学術論文の引用データ分析から、ノーベル賞クラスと目される研究者を選出し、その卓越した研究業績を讃える目的で発表されるものです。15回目となる本年は、日本人研究者3名を含む合計24名が受賞しました。このうちハーバード大学のStuart L. Schreiber氏は2度目の受賞となりました。本賞で二度の受賞を果たしたのは、過去には理化学研究所の十倉好紀氏のみで、異なる研究トピックにおいても非常に卓越した業績が讃えられています。

日本からは、化学分野において2名、医学・生理学分野から1名が選出されました。崇城大学DDS研究所特任教授・熊本大学名誉教授の前田浩氏と、国立がん研究センター先端医療開発センター新薬開発分野分野長の松村保広氏は、ともに「がん治療における高分子薬物の血管透過性・滞留性亢進(EPR)効果の発見」において今回の受賞となりました。また、京都大学客員教授の本庶佑氏は、「プログラム細胞死1 ( PD - 1 )およびその経路の解明により、がん免疫療法の発展に貢献」による受賞となりました。

■ 受賞コメント
『この賞に選ばれましたことは誠に光栄なことと存じます。ありがとうございます。わたしたちの研究がガン治療に役立ち人の命を救えたという事が何よりの喜びです。』


前田 浩(Hiroshi Maeda)氏<化学>

崇城大学DDS研究所 特任教授
熊本大学 名誉教授
「がん治療における高分子薬物の血管透過性・滞留性亢進(EPR)効果の発見」

■ 受賞コメント
『癌に薬剤をピンポイントにターゲッティングするEPR効果発見から30年を経て、それがようやく世界に広く浸透し、この度、トムソン・ロイターによって評価されましたことに対し研究者としてこの上ない喜びを感じております。この受賞により、EPR効果の原理を充分に理解した癌治療法の臨床への応用に広く関心を持っていただけることと思います。このような名誉ある賞を頂けましたことは、今後の研究の励みになります。誠にありがとうございます。』


松村 保広(Yasuhiro Matsumura)氏<化学>

国立がん研究センター先端医療開発センター新薬開発分野 分野長
「がん治療における高分子薬物の血管透過性・滞留性亢進(EPR)効果の発見」

■ 受賞コメント

『30年以上前、がんによる血液凝固に端を発する、腫瘍血管透過性亢進により、抗体などの高分子蛋白が腫瘍に集まりやすいというEPR効果を見出して以来、血液凝固系分子抗体を作り、CAST (Cancer Stromal Targeting) 療法を提唱しました。また、種々のがん特異抗体も作りました。今回の受賞を誇りとし、私どもの抗体医薬が患者さんの役に立つことを証明するまで、研究開発に全力を尽くします。』


<トムソン・ロイター引用栄誉賞とは>

トムソン・ ロイター引用栄誉賞は、トムソン・ロイターのデータベースを用いた論文・引用分析において、ノーベル賞クラスと目される研究者を発表するものです。世界 トップクラスの研究者の功績を讃え広めることで、科学がより身近なものとして認知されることを目的に、2002年からノーベル賞に先駆けた発表を恒例化しており、本年が第15回目となります。 ノーベル賞の科学系4賞(医学・生理学、物理学、化学、経済学)と同カテゴリで構成されており、これまでに39名が実際にノーベル賞を受賞しています。


<トムソン・ロイター引用栄誉賞の選考基準>

トムソン・ロイター引用栄誉賞は、過去20年以上にわたる学術論文の被引用数に基き、各分野の上位0.1パーセントにランクする研究者の中から選ばれていま す。主なノーベル賞の分野における総被引用数とハイインパクト論文(各分野において最も引用されたトップ200論文)から、ノーベル委員会が注目すると考 えられるカテゴリ(医学・生理学、物理学、化学、経済学)に振り分け、各分野で特に注目すべき研究領域のリーダーと目される候補者を決定します。 本賞は引用分析から「近い将来ノーベル賞を受賞する可能性の高い研究者」を発表することを目的としており、その年のノーベル賞受賞者を予測するものではありません。


<選出に使用するデータベース>

本賞は、世界最高水準の学術文献引用データベース「Web of Science® Core Collection 」 を用いて、医学・生理学、物理学、化学、経済学のノーベル賞4分野において最も影響力があった研究者を分析・発表しています。当社の過去30年以上にわた る分析から、学術論文の被引用数と同分野における研究者間での高評価には、強い相関関係があることが分かっており、論文の引用頻度が高いことは、学術分野 における影響度の大きさを示しています。

<過去の日本人受賞者>

過去に本賞を受賞した22名の日本人研究者については以下のサイトをご覧ください(理化学研究所の十倉好紀氏は異なるトピックにより2回受賞)。

2002-2016の日本人受賞者一覧

22名の受賞者のうち、山中伸弥氏は2012年にノーベル医学・生理学賞を、
中村修二氏は2014年にノーベル物理学賞をそれぞれ受賞しています。

http://ip-science.thomsonreuters.jp/press/release/2016/nobel-laureates/ より


ノーベル賞有力候補に本庶、前田、松村氏を予想 トムソン・ロイター社
http://scienceportal.jst.go.jp/news/newsflash_review/newsflash/2016/09/20160923_01.html# より

国際情報企業のトムソン・ロイター社は21日、今年あるいは近い将来ノーベル賞を受賞する可能性が高いと予想する研究者24人を発表した。日本人では、医学生理学賞候補に本庶佑(ほんじょ たすく)京都大学名誉教授(74)、化学賞候補に前田浩(まえだ ひろし)崇城大学特任教授(熊本大学名誉教授)(77)と松村保広(まつむら やすひろ)国立がん研究センター分野長(61)の3人を挙げている。

本庶氏は、日本の分子免疫学の権威で数々の業績を残して2013年には文化勲章を受章している。今回同社がノーベル賞候補に挙げた業績は「プログラム細胞死1(PD1)およびその経路の解明により、がん免疫法の発展に貢献」。免疫に重要な役割を持つタンパク質「PD1」を発見して免疫にブレーキをかける役割を解明、全く新しいメカニズムのがん免疫療法に道を開いた。この成果を基にPD1に作用する新薬「オプジーボ」が開発され皮膚がんや肺がんなどに使用されている。

前田氏と松村氏は、腫瘍には高分子薬物が集まりやすく、蓄積しやすいという「EPR効果」を発見。この成果を基に高分子型の抗がん剤開発に結び付けた。

トムソン・ロイター社は、2002年から毎年、学術論文の引用データなどを分析して独自に候補者を予想、発表している。日本人はこれまでに延べ22人が選ばれ、このうち山中伸弥(やまなか しんや)京都大学教授が医学生理学賞を、中村修二(なかむら しゅうじ)米カリフォルニア大学サンタバーバラ校教授が物理学賞を受賞している。

今年のノーベル賞は10月3日に医学生理学賞が、4日に物理学賞が、5日に化学賞がそれぞれ発表される。


本庶佑博士がPD-1でノーベル生理医学賞候補に!プロフや経歴は? [ニュース]
http://masakichi0628.blog.so-net.ne.jp/honjo-tasuku

本庶佑(ほんじょたすく)博士がPD-1で2016年のノーベル生理医学賞の候補に選ばれています。

今回は、大学進学時に外交官か弁護士か医者の三択で悩んだという本庶佑博士についてまとめてみました。

本庶佑博士がPD-1でノーベル生理医学賞候補に!

出典 ttp://www.taiwanngo.tw/files/16-1000-25234.php?Lang=zh-tw


2016年ノーベル賞の生理医学賞の候補として、本庶佑博士の名前が挙げられています。

もし受賞することになれば、アメリカのジェームズ・アリソン博士との共同受賞になるそうです。

本庶佑博士の研究テーマは、「プログラム細胞死1(PD-1)およびその経路の解明により、がん免疫療法の発展に貢献」です。

うーん、研究テーマからすでに難解ですね。

なるべく分かりやすいように解説しますが、もし間違いがあっても多少の間違いならご容赦ください。

人間には免疫機能という、免疫細胞が病原菌など身体に有害なものを攻撃して排除する仕組みがあります。

しかし健康な細胞まで攻撃して排除しないように免疫細胞にはブレーキがついていて、そのブレーキは「PD-1分子」と呼ばれています。

ガン細胞も有害な「異物」なので、もちろん攻撃の対象になるのですが、ガン細胞は自分達を攻撃しようとする免疫細胞のブレーキ「PD-1分子」を操作して、免疫細胞の活動を止めることがあるそうです。

このブレーキの仕組みを解明したのが本庶佑博士の功績です。

ガン細胞がブレーキを操作させないようにする物質(ニボルマブ)を作れば、免疫細胞が通常通りにガン細胞を攻撃して排除します。

マウスで実験した結果、本庶佑博士の仮説は証明されました。

有望なガンの治療法になるとして、2002年に論文を発表します。

しかし、多くの製薬企業はまったく相手にしなかったそうです。

自分の研究を信じた本庶佑博士はめげることなく、共同研究をしてくれるパートナーを根気強く探しました。

そして2005年、小野薬品工業とアメリカの企業が、本庶佑博士の思いに押されて名乗りを上げます。

研究に取り組んで9年後の2014年、「オプジーボ」として販売されることになりました。

最初は皮膚ガンの薬として販売されましたが、現在は肺ガンにも適用が広がっています。

今後も腎臓や胃など、様々なガンで使えるようになると期待されていて、世界中で臨床試験が進んでいます。

2016年ノーベル生理医学賞の発表日は?

2016年ノーベル生理医学賞の発表は、10月3日(月)18時半からとなっています。

毎年のように日本人がノーベル賞を受賞していますが、今年も受賞者が出たら嬉しいですね。

本庶佑博士に期待したいと思います。まさに同感です・・・以上

鎌倉で食べ歩き“自粛”条例

2019-03-26 03:26:06 | 地域情報
人気観光地で何が?

日本が誇る観光地、鎌倉。
その楽しみ方の1つ、「食べ歩き」の自粛を求める条例が可決され賛否の声が広がっている。
年間およそ2000万人もの観光客が訪れる人気観光地、神奈川県鎌倉市。中でも観光客が多いのがJR鎌倉駅から鶴岡八幡宮まで延びる「小町通り」だ。

ここで多くの人が楽しみにしているのが「食べ歩き」…。
イチゴがのったお団子やシラス丼。更に、焼き立てのおせんべいなどおいしそうなものがいっぱい。小町通りは食べ歩きグルメで名高い場所でもある。

しかし、その食べ歩きをめぐり3月22日、鎌倉市議会は「観光マナー向上」に関する条例を可決した。
条例では、観光客らで混雑する場所や狭い場所での食べ歩きについて、ほかの人の服を汚す恐れがある迷惑行為の1つと位置づけ“自粛”を求めている。

実際に小町通りで観察してみるとソフトクリームを片手に歩いてぶつかりそうな人などが見られた。

通りにある創業80年の老舗着物店の前には「この場所での飲食はご遠慮ください」と書かれた看板が置かれている。着物店の人は「マナーが悪いから食べたものを皆、その辺に置いていくでしょ、みんなちゃんとしたところで、食べていただきたいですね…」と話す。

このほかにも通りでは「食べ物の持ち込みはご遠慮ください」と書かれた貼り紙が、いたるところに目につく。

創業119年の酒店の人は、観光客のマナーの悪さの実態をこう語る。
「店の軒先の商品棚に、鼻紙とか例えば、食べた後の串とかを置いていく人がいらっしゃる…」

このほかにも、おもちゃ屋さんでは店内に陳列してある商品の隙間に、食べ歩きのごみを丸めて突っ込まれたりする被害に遭っているという。

鎌倉市によると衣服に食べ物がついたなどの苦情が相次いで寄せられてきたという。

飲食店は困惑

このような食べ歩き自粛の動きに困惑するのは飲食店。通りでプリンを売る店からはこんな声も。

「結構困るかな…(店の前に)食べられるスペースがないので…ここでお客さんがたまっちゃうよりかは食べ歩きでいったほうが商売はやりやすい…」

こうした中、独自の解決策をとる店もある。
店の隣の配達用のバイク置き場を改装して、販売したちまきなどを食べてもらうための場所にしたということだ。

ちまきなどを販売している東洋食肉店の店主:
基本的にうちは『食べ歩き』をご遠慮くださいと説明している。マナーが悪いというのは良くないので
何らかの規制は必要じゃないかと個人的には思います

食べ歩きを規制するマナー向上条例。地元の商店街としても頭を痛めている。

小町商店会 今 雅史 副会長:
一時は、食べ歩き“禁止”まで考えたこともあるんですけど、ただ現実的ではないということで方向修正してマナーを守っていただくような意識付けをしていただければと…


商店会はマナー向上を呼び掛ける旗をゴールデンウィークごろから街頭に掲示。さらに、お客さんにごみ袋を渡すなどの対策を検討している。


4月1日から施行されるこの「食べ歩きのマナー向上条例」。罰則はなく、飲食店側にも販売規制はない。
鎌倉市はマナーに配慮しようというのが目的で決して食べ歩き禁止ではないとしている。


長野・白馬村で過去には同じような条例が…


こうした条例は過去にもあった。
スキーリゾート地として有名な長野県白馬村では4年前、飲酒や花火ごみのポイ捨てなど外国人観光客らの迷惑行為を規制するマナー条例を制定。この条例の効果について長野県の担当者に聞くと…

白馬村役場 総務課 吉田久夫課長:
迷惑行為はどちらかというと減っているという意見が多いということなので、一定の効果が表れていると判断しています…


各地の有名観光地で問題になっている観光客と地元住民らとのトラブル。
鎌倉市の条例がマナー向上につながるのか注目される。

https://sp.fnn.jp/posts/00441330HDKより転載

(「プライムニュース イブニング」 2019年3月25日 放送分より)
内容確認、動画↙︎
https://sp.nicovideo.jp/watch/sm34850407

観光地鎌倉で食べ歩きの自粛を求める条例が可決され、賛否の声が広がっている。年間約2000万人の観光客が訪れる鎌倉。中でも観光客が多いのはJR鎌倉駅から鶴岡八幡宮に伸びる小町通りだ。ここで多くの人が楽しみにしている食べ歩きだが、先週金曜鎌倉市議会は観光マナー向上に関する条例を可決、条例では混雑する場所などで食べ歩きは迷惑行為のひとつと位置づけ自粛を求める。鎌倉市によると、衣服に食べ物がついたなどの苦情が相次いで寄せられてきたという。一方で食べ物を扱う店からは、自店に飲食スペースがない場合は食べ歩きしてもらったほうが商売上はやりやすいという声もある。商店会はマナー向上を呼びかける旗をゴールデンウィーク頃から街頭に掲示、さらに客にゴミ袋を渡すなどの対策を検討している。来月1日から施行される鎌倉市のマナー向上条例、罰則はなく飲食店に販売規制もないという。鎌倉市はマナーに配慮しようというのが目的で、決して食べ歩き禁止ではないとしている。こうした条例は過去にも長野県白馬村で4年前に、飲酒や花火、ポイ捨てなどの迷惑行為規制のマナー条例を制定した。その条例の効果として、迷惑行為は減っているとのこと。
FNNプライムニュース イブニング2019年3月25日(月)16:50~19:00フジテレビ

観光収益とゴミや迷惑行為などがもたらす環境負荷のバランスは?

補足情報⬇︎
II. 観光客がもたらす経済効果調査
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/seisaku-souzou/documents/06_25nendo_kamakurasousoujyuku_kenkyukekkahoukokusyo_2-2kankoukyaku.pdf

第3期鎌倉市観光基本計画について
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/kamakura-kankou/documents/keikakusakuteih26.pdf

鎌倉市では、平成19年2月に策定した第2期鎌倉市観光基本計画の対象期間が平成27年度で満了を迎えることから、平成27年3月に鎌倉市観光基本計画推進委員会を設置し、新たな観光基本計画の策定に向けた調査・審議を行ってまいりました。

 このたび、計画(素案)に対して寄せられたパブリックコメント及び観光基本計画推進委員会からの報告を受け、平成28年3月に第3期鎌倉市観光基本計画を策定しました。

 第3期鎌倉市観光基本計画では、第1期及び第2期の計画で掲げていた、誰もが「住んでよかった、訪れてよかった」と思えるまちづくりという基本理念を踏襲しつつ、インバウンド(訪日外国人旅行)への対応や地域活性化の側面から、目標や施策を更に充実させることにより、観光に関わるあらゆる主体による連携の下で、中核となる歴史的・文化的遺産のほか、住環境、自然環境、地域の賑わいといった多様な魅力や価値を備えた「成熟した観光都市」の実現を目指すこととしています。


ごみ発生量等の統計(鎌倉市〕
更新日:2019年1月15日
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/gomi/gomitoukei.html
年度別ごみ発生量の推移 (概要版) (詳細版)
月別ごみ焼却量の推移
家庭系ごみ質(燃やすごみ)組成調査結果
資源物とごみの処理の流れ
事業年表

第3次 鎌倉市一般廃棄物処理基本計画 (素案)
平成28年6月 鎌倉市
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/gomi/documents/dai3jiippanhaikibutusyorikihonkeikakusoan.pdf

第3次鎌倉市一般廃棄物処理基本計画 平成 29 年度ごみ処理基本計画
アクションプログラム (実績)
平成 30 年6月
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/gomi/documents/29actionprogramresults.pdf


没後100年の前島密と濱口梧陵について考える

2019-03-09 05:12:59 | 教育 子育て
"If we want everything to remain the same, must everything change?"
「Change to remain the same(変えないためにこそ、変わらなければならない)」のか?


人間は生き方を変えることができる。繰り返す毎日の行動を変えることにより、新しい習慣形成により、新しい習慣の選択を人間は決意できる。人間には選択の自由がある。そして、意志と努力により、新しい自己を形成することができる
日野原重明


今から146年前の8月、将来は郵政事業を民間の経営に委ねた方が良いと主張して、初代郵政大臣を解任された「郵政民営化の先覚者」は、「稲むらの火」の主人公「濱口梧陵」である。
http://inamuranohi.jp/library/hamaguchi-jinbutsu/より転載、一部改訂


駅遁司が属した民部省では、それまでの伊達宗城(旧宇和島藩主)に代って、大木喬任(佐賀藩士)、が卿に任じられた。
ところが、十数日にして民部省が廃され、駅逓司は大蔵省に移管されたのである。大蔵卿は大久保利通であった。
ところで七月十四日、人事大異動と符節をあわすように、天皇は在京の諸藩知事(旧藩主)を宮中に召し、藩を廃して県を置く詔書を下した。いわゆる廃藩置県は、こうしたかたちをもって断行されたのである。273の藩は、そのまま県とされ、従来の府県を加えれば、全国は三府三〇二県および開拓使(北海道)となった。中央集権は、ここに完成した。
東京から横浜までの郵便が開かれたのは、この翌日のことである。
この間に、三月一日世紀の新式郵便開始の大任を果たした駅逓権正の杉浦は、駅逓正に昇任し(三月十日)、七月、駅逓司が大蔵省に属するにともなって、いったん大蔵少丞に準ずる待遇が与えられたが、やがて太政官の正院に転じた。杉浦にかわって、駅逓正には浜口成則(儀兵衛)が任命された。こえて八月十日、駅逓正は寮に昇格した。長官の名称も、これによって頭となる。すなわち浜口は、ここに初代駅逓頭となったわけであった。
浜口は、紀州和歌山藩士の出身であった。それまて藩の権大参事(いまの副知事)として藩政の改革に当たっていたが、廃藩によって中央政府に召されたものである。浜口にとって、駅逓の行政はまったく未経験であり、新式郵便の近代国家における重要性も理解することもできなかった。そんなところへ、前島が帰朝したのである。(八月十五日)。
さっそく前島は駅逓寮を訪れて、浜口の所信をただした。しかし浜口の考えによれば、郵便のごときは、これまで飛脚屋が営んできた仕事であるから、将来は民間の経営にゆだねるのがよいという。前島は慨嘆し、駅逓のことをつかさどるべき者は自分をおいてほかにないと確信した。そして、太政官に自らの任官の希望を申しいで、帰朝から二日後の八月十七日には一駅逓頭に任じられた。

明治4年(1871)機構
7月29日 駅逓正 浜口成則、杉浦は大蔵省出仕。
8月10日 駅逓司は「寮」に昇格、浜口は駅逓頭に任命。
8月17日 駅逓頭 前嶋密、浜口は和歌山県に転出。

「郵政百年」(郵政省発行)より転載


2005/01/27 Thursday
渡辺好明さんの「濱口梧陵と前島密」論
2005/01/27
笹山登生
http://www.sasayama.or.jp/wordpress/?p=200より
まだ続いていた例の小泉メルマガに、渡辺好明(郵政民営化準備室長)さんが、「濱口梧陵と前島密」論を展開されている。
趣旨は、濱口梧陵さんを民営化推進派、前島密さんを、官営化派になぞらえ、「現在の郵政民営化は、濱口梧陵さん時代への先祖がえり」であることを強調されたいようなのだが。

で、渡辺さんが引用されている「濱口は、「郵便のごときは、これまで飛脚屋が営んできた仕事であるから、”将来は”民間の経営にゆだねるがよい」と(いった。)」との濱口梧陵の言をとらえて、「平成の今こそが、濱口の言った「将来」なのだ。」と、言いたいのだろう。

しかし、その次の「郵政百年史」からの引用として、明治4年(1871)に濱口が駅逓頭に就任して、わずか2ヶ月で、前島に駅逓頭を譲った後のことについて、(その濱口の言に慨嘆した前島が、濱口に替わって駅逓頭に任じられ)「濱口はわずか2ヶ月で和歌山県知事に転じた」とあるが、これは、本当のことなのだろうか。

濱口関係サイトを見ても、濱口は、和歌山県の大参事になったとは書いてあっても、知事になったとは、書いていないのだが。

そこで、調べてみる(といっても、出生地の広川町の教育委員会に電話で問い合わせただけの話なのだが)と、こういうことだった。

明治3年12月に濱口梧陵は、紀伊国和歌山藩の大参事になり、明治4年8月17日から、明治5年2月13日まで、和歌山県の大参事を務めたということだ。
つまり、廃藩置県以前に、大参事になっていた浜口梧陵は、和歌山県発足と同時に、これまでの和歌山藩の大参事から、新生なった和歌山県の大参事に、そのままなったということのようだ。
ちなみに、版籍奉還後も藩主が藩知事をかねていて、廃藩置県当時の和歌山藩知事は、徳川茂承であった。
「廃藩置県により藩知事廃官、大参事以下を以て県知事事務取扱被命」ということで、大参事は、県知事の事務取り扱いを命じられたのだが、決して、知事ではなかったのである。
和歌山県についてみると、明治4年(1871)年11月の第1次府県統合で、それまでの紀伊国のうち、牟婁郡が三重県に分離したほかは、移動がなく、明治4年11月22日に和歌山県が誕生した。
ちょうど、その端境期に、濱口梧陵は、和歌山藩と、和歌山県の大参事になっていたというわけである。
したがって、渡辺さんが引用された「郵政百年史」の「濱口はわずか2ヶ月で和歌山県知事に転じた。」というのは、間違いであった。

まあ、農林水産省時代に大変お世話になった渡辺さんには、ケチはつけたくなかったのだが、小泉メルマガにも、たまには、間違いがあるということだけを記しておく。
それにしても、最後の言葉、CHANGE TO REMAIN THE SAME
って、なんか聞き覚えあると思ったら、某大野党解散のときのある方のお言葉でもありました。


小泉内閣メールマガジン
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/yuseimineika/mm/050127_2mm-yusei.htmlより転載

[シリーズ郵政民営化] [2005/01/27]第173号

● 「稲むらの火」の濱口梧陵は初代の郵政大臣
(内閣総理大臣補佐官、郵政民営化準備室長 渡辺好明)

 先週号で、灘高等学校理事長の嘉納さんが「稲むらの火」とそのモデルの
濱口梧陵についてすばらしい寄稿をされているが、そこに、「濱口梧陵は、
後に初代駅逓頭(えきていのかみ/郵政大臣)に就任し、郵政民営化を唱え
て前島密(後任者)と衝突した事は余り知られていない」という興味深い記
述がある。

 何故二人は衝突したのか、おそらくは、同じ「公益」を目指しながらもそ
の達成時期、手法に関する考え方の違いがあると思う。

 江戸時代におけるわが国の郵便制度は、問屋制のもとで民間が行う飛脚便
であった。明治4年3月に新しい郵便制度が発足したが、当初は、東京と京
都・大阪の間に設けられた官営の新式郵便と、大阪以西、以南で新たに認定
を受けた民間の飛脚屋とを接続して行われた。

 その後、官営部分は拡張され、明治5年には、ほぼ全国的な官営郵便網が
完成している。また、明治4年12月には、全国の郵便取扱所に、準官吏と
しての「郵便取扱人」が地方の有力者から採用された。前島、濱口の両者が
意見を戦わせたのは、まさにわが国の郵便制度の創成期であるこの時期の話
である。

 前島密には、当時の日本がおかれていた切迫した状況への認識がある。中
央集権の実現と海外圧力に対抗する国家システムの構築は緊急を要する。加
えて、当時の郵便通信事情、「高い、届かない、遅れる、なくなる」があっ
た。手元不如意の新政府が、毎月1500両(6~7000万円?)もの大
金を飛脚屋に払うならもっと効率的な仕組みに変えられるとの確信である。
「急ぐことを第一」として「官営」の名の下での再編成、民間をも巻き込ん
だ、公益達成の追求である。

 一方、濱口梧陵(儀兵衛、成則)は、代々の大事業家として、紀州和歌山
藩の藩政改革の責任者として、また、莫大な私財を投じて津波防災堤防を建
設した者として、公益の達成は、国や藩自らが行わなくとも(長い目で見れ
ば)「私」の活動を通じて社会に貢献し、実現することができると考えてい
たのではなかろうか。

 前島から所信をただされた濱口は、「郵便のごときは、これまで飛脚屋が
営んできた仕事であるから、”将来は”民間の経営にゆだねるがよいという。
前島は慨嘆し(濱口に取って代わり)---駅逓頭に任じられた」とされ、
濱口はわずか2ヶ月で和歌山県知事に転じたのである。これが衝突のいきさ
つであろう。(郵政百年史から)

 その後、わが国の郵便通信事業は飛躍的発展を遂げ、戦費調達、経済復興、
発展のための資金調達もその目的を達成した。ネットワークも完備し、民間
の経営力も「官」より高い、安心できるものとなった。前島密の狙いは成し
遂げられ、更なる進歩のためには再び「民」が前面に出て、創意工夫、効率、
サービスを市場で実現するときがやってきた。

 「今の状況は悪くない」という方々がいる。確かにそうかもしれない。し
かし、回りは大きく変わってきている。よい状況を維持し発展させようとす
れば、「Change to remain same(変えないためにこそ、変わらなければ
ならない)」ではないのかと私は考える。


http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-3482.html?sp

「稲むらの火」 1年早ければ... 「濱口梧陵」玄孫 教科書復活にも複雑(産経新聞 2011年4月22日)

 東日本大震災で津波の恐ろしさが再認識される中、安政元(1854)年の安政南海地震による津波から紀伊国広村(現和歌山県広川町)の村人を救った物語「稲(いな)むらの火」が注目を集めている。

今年度、64年ぶりに小学校の教科書に復活したが、特別の思いを寄せるのが神戸市東灘区の私立灘中、高校理事長、嘉納毅人(かのう たけと)さん(67)だ。

主人公のモデル、濱口梧陵(ごりょう)の玄孫(やしゃご<孫の孫>)の嘉納さんは防災意識の向上のため普及に尽力してきた。「1年早く教科書に載っていれば犠牲者を減らせたかも」と悔しさをにじませる。  (佐久間史信)
稲村
「もっと救える命があったかも」と話す灘高校の嘉納毅人理事長=神戸市東灘区(甘利慈撮影)
 物語は、村の庄屋が地震の後、潮が引いて海岸が後退するのを見て津波の来襲を察知したことに始まる。刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に庄屋が火をつけると、火事と思った村人が消火に駆けつけ、その眼下で津波が村を襲う。

庄屋の機転が村人を救った史実がもとになったとされる。

 感銘を受けた文豪、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が短編集で紹介。これをもとに小学校教師が書き上げた「稲むらの火」が昭和12年から約10年間、小学校の教科書に載った。

 主人公のモデルになった梧陵の玄孫にあたる嘉納さんは、津波の教訓を広く伝えるため物語の普及に取り組んできた。平成14年には「稲むらの火」のホームページを立ち上げ、記述の大半を嘉納さんが執筆した。

 この物語が今年度から、小学校5年生の国語の教科書(光村図書)に64年ぶりに復活、「百年後のふるさとを守る」と題して掲載された。嘉納さんは「あと1年早く教科書に載っていれば救える命がもっとあったかもしれない」と話す。

 実は、物語には後日談がある。梧陵はその後、将来の津波に備え、私財を投じて全長600メートルに及ぶ大堤防を築造、建設工事には村人を雇用した。堤防完成から88年後の昭和21年に昭和南海地震が発生、再び津波が村を襲ったが、この堤防のおかげで大部分が浸水被害を免れたという。

 嘉納さんは阪神大震災で被災経験があるだけに防災への思いは人一倍で、「稲むらの火は村人に逃げるルートを示した。災害での危険箇所や避難経路を示すハザードマップがいかに大切か、ということ」と説明した。

 そして復興についてこう話す。
 「稲むらは年貢米。火をつけることは重大な犯罪行為で打ち首ものだった。でも梧陵は村を守るためにやった。東日本大震災は未曽有の非常時。こういうときこそ政治のトップは自分の首をかけて非常時の政策に臨むべきだ」

濱口梧陵(1820~85年)
醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現ヤマサ醤油)に生まれる。7代目当主として家業を守るとともに、社会福祉事業や政治活動に取り組む。中央政府に召されて初代駅逓頭(郵政大臣に相当)として近代的な郵便制度の創設にも尽力した。

追加参考
http://psycross.com/blog/?p=7324

ポストを愛すと…
2014年4月14日 ADMIN
4月20日は、日本で初めて郵便制度が始まった日ということで、逓信記念日=郵政記念日となっているようで、

「日本ハープ界の父」*ヨセフ・モルナールさん死去

2019-03-02 08:10:54 | 文学・芸術

ヨセフ・モルナールさん(ハープ奏者、声楽家、日本ハープ協会長)が平成30年11月21日、老衰で都内で死去、89歳。
 オーストリア出身、元ウィーン少年合唱団員。ウィーン音楽院を経て、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団のハープ奏者だった52年、NHK交響楽団の招きで来日。東京芸大や桐朋学園大などで多くの後進を育て、「日本ハープ界の父」と言われた。

私は20世紀後半、神奈川県の藤野芸術の家で行われたハープのコンサートに行きました。ハープの指導を受けていた麻酔科医の先生の招聘であったと記憶している。最前列で、熱心に聴き入って拍手をしていると、私のリクエストに応じてくれました。ラファエル・クーベリックのチェコフィル演奏でお気に入りの「*スメタナのわが祖国」の「モルダウ」をアンコールいたしました。
*「モルダウ~ヨセフ・モルナールの芸術 II~」ヨセフ・モルナール(ハープ)
Harp Recital: Molnar, Josef にあるようなCDも出されていて、さすが大家(マエストロ)であられると驚嘆いたします。

チェコの「ヤン・フス像」の前でヤン・フスに捧げる自作の英詩を朗読したことが思い出される!
de Veritate Sacrae Scripturae https://archive.org/details/johnwyclifsdever00buddiala/page/n4
英国のウィクリフからチェコのヤン・フス、そしてルターへと
https://blog.goo.ne.jp/tanemakuhito1921/e/56645385e6225c39056b15f1622eff35

「我が祖国Bedrich Smetana Ma'Vlast My Country by B. Smetana」は祖国の自然の精霊が、フルートやハープの音色の呼び声により神話的な世界観の中で現れてきて、さらに東欧の中世の市民革命的な運動が発動していく、まさに輪廻する交響詩(曲)である。
モルダウの部分があまりにも有名で強調されるのだが、ヴルタヴァ川☆モルダウの流れのようにうねりながら指揮するラファエル・クーベリックの解釈を聴いていくと、◎の部分第2曲『モルダウ(ヴルタヴァ)』 だけではなく全体として展開しながら、さらに回帰していく叙事詩とも感じられる。

第1曲『高い城(ヴィシェフラド)』
プラハの南、モルダウ河のほとりの崖の上に建つヴィシェフラド城は、10世紀後半に建設された中世ボヘミア王国の城で、そこではかつて伝説の吟遊詩人ルミールが、英雄や愛について歌っていました。 曲頭のハープの動機は、この吟遊詩人ルミールのハープを表したもので、以後、『わが祖国』全体を通じて変形使用されることとなり、この連作交響詩が、あたかも吟遊詩人によって歌われたボヘミアの物語であるといった様相を呈しています。
 クーベリックのアプローチは、そうした重要な意味合いを持つ動機を大きく美しく鳴らすことにより、情熱的で幻想的な物語の開始にふさわしい存在感を印象付けます。

◎第2曲『モルダウ(ヴルタヴァ)』
『わが祖国』を代表する人気作で、単独で演奏される機会の非常に多い作品でもあります。内容的には、チェコの中央部を流れる大河モルダウとその周辺の景観を描写したもので、変化に富む水の流れと、民族舞曲や月夜の水の精、聖ヨハネの急流などが描かれており、最後には循環動機でもある『高い城』の主題をモルダウの主題にかぶせて輝かしく終わります。チェコの人々や自然について大変美しく描いた音楽であり、クーベリックの祖国への熱い思いが、単なる旋律美に終わらない太く幅広い音楽の流れを感じさせてくれて素晴らしい仕上がりです。

第3曲『シャールカ』
恋人の裏切りから、なぜか全男性への復しゅうを誓ってしまった女傑シャールカ率いる女性の軍隊と、男性の軍隊との戦いを描いた作品で、同じ題材のヤナーチェクのオペラも有名です。シャールカ討伐に向かったツティラートが、色香と酒によって簡単に負かされてしまうといったストーリーが、スメタナの音楽では最後の勇猛果敢な音楽に象徴されるようにきわめてシリアスなものとして描かれています。
 クーベリックのここでの演奏は、鬼気迫るほどの激しさが備わった凄まじいもので、最後の追い込みなどまさに圧巻。大迫力ぶりをストレートに伝える音の良さも魅力です。

第4曲『ボヘミアの牧場と森から』
きらきらと輝く陽光を受けた緑の平原、収穫祭を思わせる農民たちの楽しげな踊り、森にそよぐ風や小鳥たちのさえずりがあるときは陽気に、あるときは淋しげに描かれる『モルダウ』に次ぐ人気作。
 クーベリックの演奏は、作品の牧歌的な特質を伸びやかに描きながらも随所に深い陰影を感じさせる見事なもので、チェコ・フィルのキラキラと輝く弦や、しっとりとした木管群の美しさ、語り口のうまさはさすがというほかありません。

第5曲『ターボル』
免罪符販売を非難したことによってローマ法王から破門され、やがて虐殺されることになるチェコの宗教改革運動家、ヤン・フスの衣鉢を継いだ急進的グループ「ターボル派」を中心に巻き起こったフス戦争を描いた作品。スメタナはフス教徒たちの信条を民族主義の旗印として捉え、主題に彼らの賛美歌(コラール)を用いることで、チェコの歴史上、最大の民族的盛り上がりを見せた出来事を叙事詩的壮大さをもってダイナミックに描き上げています。
 演奏は恐ろしいほどの迫力に満ちたもので、クーベリックが顔を真っ赤にして足を踏ん張り、オーケストラから強烈な音楽を引き出していた実演での様子がまざまざと思い起こされます。

第6曲『ブラニーク』
前曲からつながっているこの作品は、ボヘミアのブラニーク山に眠る救国の騎士たちの伝説を描いており、主要主題には第5曲のターボルの主題が用いられて、チェコの危機を救う英雄の存在を強く印象付けます。
 実際の戦争では、十字軍のたび重なる侵攻を撃破しながらも、結局は内部分裂によって敗戦を迎えることになる彼らの戦いぶりを考えると、スメタナの描写は少々理想主義的美化が過ぎるようにも思えてきますが、この曲集が、吟遊詩人ルミールによって語られるチェコについての幻想的な物語である点、『ターボル』と異なり、フス教徒ではなく伝説上の存在である騎士たちに戦いがシフトしている点を考慮すれば、スメタナの設定は当を得たものと言えるのではないでしょうか。
 クーベリックの演奏は、前曲に続いて何かがのり移ったかのような圧倒的な激しさをみせ、その荒れ狂う音の奔流のもたらす陶酔と、後半の美しいホルンや木管セクションとのコントラストには驚くべきものがあります。最後の『高い城』の動機がこれほど胸に迫る演奏は、クーベリックといえどもほかにはありませんでした。

・スメタナ:連作交響詩『わが祖国』全曲
 チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
 ラファエル・クーベリック(指)

参考👇スメタナ 連作交響詩 《我が祖国》 の楽曲解説
https://www.chibaphil.jp/archive/program-document/mavlast-commentary

☆DVD曲目リスト

1. 歌劇「リブシェ」~ファンファーレ(スメタナ)
2. チェコ&スロヴァキア国歌
3. 連作交響詩「わが祖国」全曲(スメタナ)
4. 連作交響詩「わが祖国」~演奏およびリハーサル風景

内容(「キネマ旬報社」データベースより)
共産主義体制に反対して西側に亡命した名指揮者・クーベリックが42年ぶりに祖国を訪れ、「プラハの春」音楽祭で「わが祖国」を全身全霊を傾けて演奏した歴史的名演を映像化。
そのリハーサルの模様を追うドキュメンタリー「祖国との再会」も併せて収録。

*ヨセフ・モルナール

プロフィール
1929年9月7日生まれ、墺・ゲンゼルンドルフ出身のハープ奏者/バリトン歌手。ウィーン少年合唱団を経て、ウィーン音楽アカデミーで学ぶ。ウィーンフィルのハープ奏者だった52年にN響の招きで来日。55年に帰国するも再来日し、東京芸術大学講師、桐朋学園大学客員教授を経て、64年に上野学園大学教授に就任。日本のハーピストの多くを育て、日本ハープ協会会長を務めるなど“日本ハープ界の父”として尽力。イスラエル国際ハープ・コンクールや仏の国際コンクールの審査員も務める。66年に墺科学・芸術名誉十字章を受章。2018年11月21日に老衰のため東京都内で死去。89歳没。

巨星落つ、吟遊詩人ルミールよ!
モルダウ(ハープ)の調べは止まずに!
2019年の今年度は、オーストリアと日本の友好交流の150周年に当たる。


World Harp Congress – Official
https://www.facebook.com/404902692960836/photos/a.406624049455367/1842812182503206/?type=3

In Memoriam: Professor Josef Molnar

Austrian harpist and long–time resident of Japan, Professor Josef Molnar passed away on 21st November 2018 in Tokyo. He was eighty-nine years old. The Japanese harp world is in unbearable sorrow in losing ‘The Father of the Harp in Japan’.

Professor Molnar was a long-time member of the Board of Directors and Corporation of the World Harp Congress and Chairman of the 3rd World Harp Congress in Vienna in 1987. He also taught many of the Japanese board members and members of the WHC.

Professor Molnar performed as a harpist and a vocalist throughout his career in Vienna. He performed with the Vienna Boys Choir, the University of Music and Performing Arts Vienna and the Vienna Philharmonic. He moved to Japan in 1952 on the invitation of the NHK Symphony Orchestra. Since then, he devoted almost all of his life to promote and improve the harp world in Japan. He established harp departments in some of the top music schools, and trained hundreds of talented harpists, as well as performing widely as a marvelous soloist. He was a founder and president of the Nippon (Japan) Harp Society, founder and chairman of the Karuizawa Music Summer School, the Soka International Harp Festival and the Nippon Harp Competition. He was decorated with the Highest Medal of Cultural and Art Honor by the Austrian Government and with the Orders of the Sacred Treasure by the Japanese Emperor for his contribution to Japan-Austria ties through music and music education.


Remembering Josef Molnar (1929–2018)
https://harpcolumn.com/blog/remembering-josef-molnar-1929-2018/

BY HARP COLUMN ON DECEMBER 5, 2018 IN MEMORIAM, JANUARY-FEBRUARY 2019
—by Sasha Boldachev

“It is painful for all the harpists to lose the father of our Japanese harp world. He came to Japan over 60 years ago and started the story of the harp, one could say. How innumerable much he has done for us, one could not express with the words. I believe he continues to send his love and support to us from the heavens.”
—Ayako Shinozaki, Vice–President of the Nippon Harp Association

The words “God” and “Father” appear on the lips of many harpists whenever the name of Josef Molnar is mentioned. Strong and charismatic, he managed to be a singer, harpist, composer, arranger, actor, and organizer of many events. He was the founder and president of the Nippon Harp Society, founder and chairman of the Karuizawa Music School, the Soka International Harp Festival, and the Nippon Harp Competition. Professor Molnar worked tirelessly without fail—his motto was, “Tired? Never…!” He worked in four schools and two orchestras, and he performed as a soloist throughout Japan. He is considered “The Father of the Harp in Japan.”

Born in Austria in 1929, his life consisted of a series of distinct memories: the Vienna Boys’ Choir, studying violin, flute, piano, and finally the harp, hiding from the Hitler invasion, “being recruited and sent to war, escaping in the very last moment, because the war was over,” “learning from the Jelinek brothers and working together with them in Vienna Philharmonie,” and leaving Vienna for Japan at the invitation of the NHK Symphony Orchestra when he was 23.

“I still cannot forget the delightful feeling of seeing the teacher who kept playing “Vienna, City of My Dreams” for his students at the Karuizawa Summer School… Everything was sparkling as if my eyes were holding tears… My teacher had many merits to admire, a lot of memories that make me happy and laugh. He was a wonderful teacher who loved you from the bottom of his heart….”
—Chizuru Kuwabara, teacher at Ginza Jujiya

The funeral was filled with former students; the students of Professor Molnar all over the world cannot be counted, and in Japan, almost all harpists were his students or the pupils of his students. He named the very first of them in his book: Junko Nobata, Yoko Nagae, Takako Shimazaki, Hiroko Shimazaki, Atsuko Yoshino, Sumire Kawajima, Kumiko Inoue. That was the beginning of almost seventy years of pedagogical work; Professor Molnar died Nov. 21, 2018 at the age of 89. In addition to teaching, Professor Molnar left us a large number of arrangements for the solo harp and harp ensemble, as well as his own works and etudes. This legacy is still being spread around the world.

“People always thought that he had no time even to breathe, but he was a true life–lover. He enjoyed every minute with people, eating and drinking, playing the pachinko game for hours. He was always inviting the people to his home, which at that time in Japan was not normal. At first people were shocked, but very soon they got used to his invitations and would cook together with him. All his students were like a family for him. The family he never had since leaving Austria.”
—Kumiko Inoue, professor at Musashino Academia Musicae

The funeral in Japan was an amazing mix of protocol, beauty, spiritual connection, and social engagement. Organized by the Japanese harp society, of which he was president until the very last day of his life, many came to pay tribute. There were more than 400 people on the first day alone.

“He was always very kind to his students. He could be impulsive and angry at lessons but immediately after very soft and pleasant. Once he told me, “You should go to Holland to study with Mrs. Berghout,” but I was really afraid. So he said that he would accompany me, and we went on a ship from Yokohama to Russian Nahodka, then to Khabarovsk, took a flight to Moscow, then another flight to Vienna, and arrived in Austria after after one week of traveling. I was 22, and he spent his time with me as father and a good friend. For me, he was just a very unique person, really unique”
—Kumiko Inoue, professor at Musashino Academia Musicae

Professor Joseph Molnar was one of the most prominent representatives of harp history, as a teacher, arranger, a diverse artist, and friend of hundreds of musicians. Save him in your memory and take comfort in a legacy that will forever live on.