・・未来は如何あるべきか。自ら得意になる勿れ。自ら棄る勿れ。黙々として牛の如くせよ。孜々として鶏の如くせよ。内を虚にして大呼する勿れ。真面目に考えよ。誠実に語れ。摯実に行え。
汝の現今に播く種は、やがて汝の収むべき未来になって現わるべし・・・ロンドン留学中の「漱石日記」より 1901年(明治34年)3月21日
夏目漱石は、一九〇九年(明治四十二)に当時満鉄総裁の中村是公の招待で満州と韓国も訪問している。
それにいたる前提として、夏目漱石と*中村是公(よしこと)は、大学予備門の時代の19歳の頃、江東義塾の教師になり、一緒に遠慮気兼ねのない自由な共同生活を営んでいたそうです。
そのような暮らしぶりや間柄を夏目漱石の次男である夏目伸六(なつめしんろく)1908(明治41年12月17日生)-1975 その著作である「父・夏目漱石」の中でこう書いている。
・・・私は是公さん程、趣味においても性格においても、全く父とかけ離れた存在はなかった様な気がする。
そうして、それだけにそこには、他に見られぬ隔てのない感情が、二人の間を確かに結びつけて居た様に思うのである。
当時の父が何のこだわりも無く、常に駘蕩と附合い得た唯一の友は是公さんだけであり、又常に兄貴風を吹かせて、その都度失笑を買いながら、一向にそれに気のつかぬ友人は、是公さん以外にはなかった筈である。
父を取りまく多くの知友や子弟の愛情には、絶対に、父の特殊な才能と名声の裏づけが先決条件となっていた。
而もこの条件は、如何に避けようとしても、遂に避け得られぬ不可避の運命となって、常にこの両者の間を結びつけているのである。
もちろん、才能も人格の一部であるには違いないが、若しもその才能が剥奪され、無限の想像力も枯渇して、一朝名声の地に落ちることがあるとすれば、子弟の愛情もこの意味において、必然的に霧消しなければならないのである。
父は曽て、幼い末娘の突然の死に対して、「……自分の骨にはひびが入った。自分の精神にもひびが入った……如何となれば回復し難き哀愁が思い出す度に起きるからである。又子供を作れば同じぢゃないかと云う人がある。ひな子と同じ様な子が生まれても遺恨は同じ事だろう。愛はパーソナルなものである。……仕事の為に重宝がられたり、才学手腕の為に声望を負う人は此点に於て、その日と自身を敬愛される人よりも非常な損である。その人自身に対する愛はこれよりベターなものがあっても移す事の出来ないものである。……」 と云って居る。
勿論父はよく弟子を愛し導いた様である。
併し、その冷やかな理知の裏には、こうした避け難い自己の宿命を、悲哀を以て眺めていたに違いない。
森田草平さんの「誰が一番愛されていたか」の中にもある如く、小宮豊隆さんは、誰にも増して父を愛し、誰にも増して父から愛されたと、自他共に許して居た様であるが、実を云えば、彼も亦単なる才幹の心酔者にすぎぬのであって、父は寧ろ、本能的に自分を愛する者、才能と名声を度外において、唯一個の人間として自分を愛する者に、遥かに暖かい本来の愛情を感じたのではないかと思う。
父の作物がどんなものであるかさえ、全然弁えなかった是公さんにとって、父は勿論「猫」の漱石でもなければ、「草枕」の漱石でもなかった。
それは昔二畳の部屋で肩を並べて同じ釜の飯を食った、単なる「夏目金之助」に過ぎぬので、而も一個の人間「夏目」に対するこの変わらざる愛情の中に、父は初めて、余裕のある真の友情を意識したのに相違ない。
『満韓ところどころ』に「銭が無ければやるよ。」と云う記事がある。
そうしてその後に、「銭が無くなれば無論貰う気でいた。然し余っても困るから、無闇には手を出さなかった……其癖奉天を去って愈々朝鮮に移るとき、紙入の内容の充実していないのに気がついて、少々是公に無心した。もとより返す気があっての無心でないから、今以て使い放しである。」 と云う句がある。
恐らく、父を「お前お前」と呼び捨てる相手が是公さん以外には居なかった様に、父が金を無心して、平気で使い放せる相手も亦、是公さん以外には居なかった筈である。父は絶対に、他の人に対して、こんな事の出来る性質の人間ではなかったのである。・・・
このような仲であった漱石と是公が大学を出ると、両者はしばらく会う機会がなかったのだが、8~9年ぶりにロンドンの真ん中で出会った。それから七年後、四十四歳になっていた漱石は明治四十四年七月二十一日から二十二日まで、たったの二日間なのだが、鎌倉長谷の『*光則寺』入口の右手高台にあった中村是公の別荘に行き、その翌日に、人力車で小坪にも行ってタコを突いて、夕方には帰京している。
*『光則寺』は北条時頼の近臣、宿谷光則(やどやみつのり)の邸であった。日蓮は「立正安国論」を、光則の手を経て、時頼に献じた。日蓮の龍の口法難に際し、弟子日朗は、光則邸後の土牢に捕らえられた。 光則は後、日蓮に帰依し、光則寺を建立した。
光則寺は、花のお寺として名高く、四季折々の樹木や草花(特に鎌倉市の市指定天然記念物である樹齢200年と言われる海棠など)が見事である。
本堂の天井に設置されている鎌倉彫りが圧巻である。1650年に建立された本殿の格天井が改修され、そこに収まる鎌倉彫が完成、一般公開された。鎌倉彫の多くの彫り師らにより、花と孔雀の羽がデザインされた136枚もの作品が、本殿内で壁に立てかけられた。
光則寺格天井の一般公開(終了)
日時:平成28年3月27日(日)~4月7日(木)12時~16時
内容:昨年公開された長谷光則寺本堂の鎌倉彫格天井が、この度、再度期間限定で一般公開されました。
注:この本堂格天井は通常は公開されません。
夏目漱石の、大学予備門時代からの友人、中村是公の別荘が光則寺の入口右手の高い所にあり、来遊した。
夏目漱石は満鉄総裁である中村是公と会い、9月の旅行になる。後に、この旅行記は『**満韓ところどころ』として朝日新聞に連載された。この旅行で漱石は同年九月三十日から十月十三日まで京城(現在のソウル)に滞在している。
**『満韓ところどころ』
夏目漱石
一
南満鉄道会社っていったい何をするんだいと真面目に聞いたら、満鉄まんてつの総裁も少し呆れた顔をして、御前もよっぽど馬鹿だなあと云った。是公(ぜこう)から馬鹿と云われたって怖くも何ともないから黙っていた。すると是公が笑いながら、どうだ今度いっしょに連れてってやろうかと云い出した。是公の連れて行ってやろうかは久しいもので、二十四五年前、神田の小川亭の前にあった怪しげな天麩羅屋へ連れて行ってくれた以来時々連れてってやろうかを余に向って繰返す癖がある。そのくせいまだ大した所へ連れて行ってくれた試しがない。「今度いっしょに連れてってやろうか」もおおかたその格だろうと思ってただうんと答えておいた。この気のない返事を聞いた総裁は、まあ海外における日本人がどんな事をしているか、ちっと見て来るがいい。御前みたように何にも知らないで高慢な顔をしていられては傍が迷惑するからとすこぶる適切めいた事を云う。何でも是公に聞いて見ると馬関や何かで我々の不必要と認めるほどの御茶代などを宿屋へ置くんだそうだから、是公といっしょに歩いて、この尨大ぼうだいな御茶代が宿屋の主人下女下男にどんな影響を生ずるかちょっと見たくなった。そこで、じゃ君の供をしてへいへい云って歩いて見たいなと注文をつけたら、そりゃどうでも構わない、いっしょが厭いやなら別でも差支さしつかえないと云う返事であった。
それから御供をするのはいつだろうかと思って、面白半分に待っていると、八月半なかばに使が来ていつでも立てる用意ができてるかと念を押した。立てると云えば立てるような身上しんじょうだから立てると答えた。するとまた十日ほどしていつ何日いつかの船で馬関から乗るが、好いかと云う手紙が来た。それも、ちゃんと心得た。次には用事ができたから一船ひとふね延ばすがどうだと云う便たよりがあった。これも訳なく承知した。しかし承知している最中に、突然急性胃カタールでどっとやられてしまった。こうなるといかに約束を重んずる余も、出発までに全快するかしないか自分で保証し悪くなって来た。胸へ差し込みが来ると、約束どころじゃない。馬関も御茶代も、是公も大連もめちゃめちゃになってしまう。世界がただ真黒な塊かたまりに見えた。それでも御供旅行の好奇心はどこかに潜ひそんでいたと見えて、先へ行ってくれと云う事は一口も是公に云わなかった。
そのうち胃のところがガスか何かでいっぱいになった。茶碗の音などを聞くと腹が立った。人間は何の必要があって飯などを食うのか気の知れない動物だ、こうして氷さえ噛かじっていれば清浄潔白しょうじょうけっぱくで何も不足はないじゃないかと云う気になった。枕元で人が何か云うと、話をしなくっちあ生きていられないおしゃべりほど情ない下賤なものはあるまいと思った。眼を開いて本棚を見渡すと書物がぎっしり詰っている。その書物が一々違った色をしてそうしてことごとく別々な名を持っている。煩わしい事夥しい。何の酔興でこんな差別をつけたものだろう、また何の因果でそれを大事そうに列ならべ立てたものだろう。実にしち面倒臭い世の中だ。早く死んじまえと云う気になった。
禎二さんが蒲団ふとんの横へ来て、どうですと尋ねたが、返事をするのが馬鹿気ていて何とも云う了見にならない。代診が来て、これじゃ旅行は無理ですよ、医者として是非止とめなくっちゃならないと説諭したが、御尤もだとも不尤もだとも答えるのが厭だった。
そのうち日は容赦なく経った。病気は依然として元のところに逗留していた。とうとう出発の前日になって、電話で中村へ断った。中村は御大事になさいと云って先へ立ってしまった。以下省略・・・
(青空文庫より)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/781_14965.htmlより
鎌倉市の東慶寺の山門までの参道脇にある「夏目漱石参禅百年記念碑」(平成6年11月建立)には夏目漱石の「***初秋の一日」という小品の一部と説明するプレートが建てられています。
夏目漱石は円覚寺に参禅をしてから18年後の大正元年(1912年)9月11日に、満鉄(南満州鉄道)総裁である中村是公を伴って、当時、東慶寺の管長を務められていた釋禅師を再訪し、そのことが『初秋の一日』というタイトルで発表されている。
***『初秋の一日』
夏目漱石
汽車の窓から怪しい空を覗のぞいていると降り出して来た。それが細こまかい糠雨ぬかあめなので、雨としてよりはむしろ草木を濡ぬらす淋さびしい色として自分の眼に映った。三人はこの頃の天気を恐れてみんな護謨合羽ゴムがっぱを用意していた。けれどもそれがいざ役に立つとなるとけっして嬉うれしい顔はしなかった。彼らはその日の佗わびしさから推おして、二日後ふつかごに来る暗い夜よるの景色を想像したのである。
「十三日に降ったら大変だなあ」とOが独言ひとりごとのように云った。
「天気の時より病人が増えるだろう」と自分も気のなさそうに返事をした。
Yは停車場ステーション前で買った新聞に読み耽ふけったまま一口も物を云わなかった。雨はいつの間まにか強くなって、窓硝子まどガラスに、砕けた露つゆの球たまのようなものが見え始めた。自分は閑静な車輛しゃりょうのなかで、先年英国のエドワード帝を葬ほうぶった時、五千人の卒倒者を出いだした事などを思い出したりした。
汽車を下りて車に乗った時から、秋の感じはなお強くなった。幌ほろの間から見ると車の前にある山が青く濡ぬれ切っている。その青いなかの切通きりどおしへ三人の車が静かにかかって行く。車夫は草鞋わらじも足袋たびも穿はかずに素足すあしを柔かそうな土の上に踏みつけて、腰の力で車を爪先上つまさきのぼりに引き上げる。すると左右を鎖とざす一面の芒すすきの根から爽さわやかな虫の音ねが聞え出した。それが幌ほろを打つ雨の音に打ち勝つように高く自分の耳に響いた時、自分はこの果はてしもない虫の音ねに伴つれて、果しもない芒の簇むらがりを眼も及ばない遠くに想像した。そうしてそれを自分が今取り巻かれている秋の代表者のごとくに感じた。
この青い秋のなかに、三人はまた真赤まっかな鶏頭けいとうを見つけた。その鮮あざやかな色の傍そばには掛茶屋かけぢゃやめいた家があって、縁台の上に枝豆の殻からを干したまま積んであった。木槿むくげかと思われる真白な花もここかしこに見られた。
やがて車夫が梶棒かじぼうを下おろした。暗い幌の中を出ると、高い石段の上に萱葺かやぶきの山門が見えた。Oは石段を上のぼる前に、門前の稲田いなだの縁ふちに立って小便をした。自分も用心のため、すぐ彼の傍へ行って顰ひんに倣ならった。それから三人前後して濡れた石を踏ふみながら典座寮てんぞりょうと書いた懸札かけふだの眼につく庫裡くりから案内を乞こうて座敷へ上った。
老師に会うのは約二十年ぶりである。東京からわざわざ会いに来た自分には、老師の顔を見るや否や、席に着かぬ前から、すぐそれと解ったが先方では自分を全く忘れていた。私はと云って挨拶あいさつをした時老師はいやまるで御見逸おみそれ申しましたと、改めて久濶きゅうかつを叙したあとで、久しい事になりますな、もうかれこれ二十年になりますからなどと云った。けれどもその二十年後の今、自分の眼の前に現れた小作こづくりな老師は、二十年前と大して変ってはいなかった。ただ心持色が白くなったのと、年のせいか顔にどこか愛嬌あいきょうがついたのが自分の予期と少し異ことなるだけで、他は昔のままのS禅師であった。
「私ももう直じき五十二になります」
自分は老師のこの言葉を聞いた時、なるほど若く見えるはずだと合点がてんが行った。実をいうと今まで腹の中では老師の年歯としを六十ぐらいに勘定かんじょうしていた。しかし今ようやく五十一二とすると、昔自分が相見しょうけんの礼を執とった頃はまだ三十を超こえたばかりの壮年だったのである。それでも老師は知識であった。知識であったから、自分の眼には比較的老ふけて見えたのだろう。
いっしょに連れて行った二人を老師に引き合せて、巡錫じゅんしゃくの打ち合せなどを済ました後あと、しばらく雑談をしているうちに、老師から縁切寺えんきりでらの由来ゆらいやら、時頼夫人の開基かいきの事やら、どうしてそんな尼寺へ住むようになった訳やら、いろいろ聞いた。帰る時には玄関まで送ってきて、「今日は二百二十日だそうで……」と云われた。三人はその二百二十日の雨の中を、また切通きりどおし越ごえに町の方へ下くだった。
翌朝あくるあさは高い二階の上から降るでもなく晴れるでもなく、ただ夢のように煙るKの町を眼の下に見た。三人が車を並べて停車場ステーションに着いた時、プラットフォームの上には雨合羽あまがっぱを着た五六の西洋人と日本人が七時二十分の上り列車を待つべく無言のまま徘徊はいかいしていた。
御大葬と乃木大将の記事で、都下で発行するあらゆる新聞の紙面が埋うずまったのは、それから一日おいて次の朝の出来事である。
以上(青空文庫↓より)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/797_43523.html
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