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陶淵明 園田の居に帰る、子を責むる親の心持ちとは?

2020-01-03 14:03:24 | 文学・芸術

唐の詩人である陶淵明(とうえんめい)が酔って弦のない琴に触れ、
その奏でる「無絃琴」の調べが漢詩から聴こえてくる。


歸園田居 (園田の居に帰る)

其一

少無適俗韻  少くして俗韻に適すること無く 若いときから世間と調子があわず
性本愛丘山  性 本 丘山を愛す 生まれつき自然を愛する気持ちが強かった
誤落塵網中  誤って塵網の中に落ち 誤って塵にまみれた世俗の網の中に落ちて
一去三十年  一たび去ること 三十年 あっという間に三十年が経った
羈鳥戀舊林  羈鳥 旧林を恋い 籠の鳥はもと棲んでいた林を恋し
池魚思故淵  池魚 故淵を思う 池の魚は以前の淵を懐かしむ
開荒南野際  荒を南野の際に開かんと 村の南の荒れ地を開墾しようとして
守拙歸園田  拙を守って 園田に帰る 世渡り下手な性格を守り通して、田園に帰ってきた
方宅十餘畝  方宅 十余畝 宅地は十畝あまり
草屋八九間  草屋 八九間 草葺きの家は八、九室
楡柳蔭後簷  楡柳 後簷を蔭(おお)い 楡や柳が家の裏の軒先を覆い
桃李羅堂前  桃李 堂前に羅(つら)なる 桃や李が座敷の前に立ち並んでいる
曖曖遠人村  曖曖たり 遠人の村 遙か遠くにかすんでいる村には
依依墟里煙  依依たり 墟里の煙 ゆらゆらと炊事の煙が立ち上っている
狗吠深巷中  狗は吠ゆ 深巷の中 村の路地裏では犬が吠え
鶏鳴桑樹巓  鶏は鳴く 桑樹の巓 鶏が桑の木のてっぺんで鳴いている
戸庭無塵雑  戸庭 塵雑無く 我が家の門や庭には俗客の出入りはなく
虚室有餘閑  虚室 余閑有り がらんとした部屋には余裕がある
久在樊籠裏  久しく 樊籠の裏に在りしも 長い間、籠の鳥の生活を続けてきたが
復得返自然  復た自然に返るを得たり ようやく本来の自然の姿に戻ることができた


其二

野外罕人事  野外 人事罕(まれ)にして 田舎暮らしは付き合いが少ない
窮巷寡輪鞅  窮巷 輪鞅(りんおう)寡なり 更に路地の奥にある我が家には訪ねてくる馬車もない
白日掩荊扉  白日 荊扉を掩(とざ)し 昼間も柴の戸を閉ざして
虚室絶塵想  虚室 塵想を絶つ 人気のない部屋にいると雑念も起こらない
時復墟曲中  時に復た墟曲の中 時には村里の中を
被草共来往  草を被いて共に来往す 草を分けて行き来することがある
相見無雑言  相見て 雑言無く 互いに会っても余計なことは言わない
但道桑麻長  但だ道(い)う 桑麻長(の)びたりと ただ桑や麻の成長ぶりを話題にするだけだ
桑麻日已長  桑麻 日に已に長く 桑と麻は日々成長する
我土日已廣  我が土は日に已に広し 私の畑も日々広がってゆく
常恐霜霰至  常に恐る 霜霰の至りて 心配なのは霜や霰にやられること
零落同草莽  零落して草莽に同じからんことを せっかくの作物が枯れて雑草同然になってしまわないかと


其三

種豆南山下  豆を種う 南山の下 豆を南山の麓に植えたが
草盛豆苗稀  草盛んにして 豆苗稀なり 雑草ばかりで豆の苗は僅かばかり
晨興理荒穢  晨(あした)に興(お)きて 荒穢を理め 朝早くから雑草を抜き
帯月荷鋤歸  月を帯び 鋤を荷いて帰る 月の光の下、鋤を担いで帰る
道狭草木長  道狭くして草木長く 狭い道には草木が生い茂り
夕露沾我衣  夕露 我が衣を沾(ぬ)らす 夜露が衣をぐっしょりと濡らす
衣沾不足惜  衣の沾るるは惜しむに足らず 衣服の濡れるぐらいは惜しくはないが
但使願無違  但だ願をして違うこと無からしめよ 期待が裏切られることなく豆が実るのを祈るばかりだ

陶潜(陶淵明365~427)。
官吏をやめて41歳の秋、故郷に帰った時の詩。陶潜を迎えた故郷は、村人たちが静かに平和に暮らしている穏やかな田園であった。隠居暮らしを始める陶潜の心は懐かしさと安らぎに満ちていたと言われている。

一去三十年か、はたまた十三年か、気になるところだが、
敢えて三十年の表記とした。
陶淵明、五人の息子がいたそうだ。二人の子の歳は、十三歳だ。

陶淵明が菊や酒を愛しながら、子を責めるも愛情の裏返しであろう。
子年に、子への愛情、子はやはり繁栄である!

白髪両鬢(りょうびん)を被い(おおい)
肌膚(きふ)復(また)実ず(みちず)
五男児有りと雖(いえ)ども
総て(すべて)紙筆(しひつ)を好まず
阿舒(あじょ)は己(すで)に二八になるも
懶惰(らんだ)故(もと)より匹(たぐい)無し
阿宣(あせん)は行々(ゆくゆく)志学なるも
而(しか)も文術を愛せず
雍(よう)と端(たん)は年十三なるも
六と七とを識(し)らず
通子(つうし)は九齢(きゅうれい)に垂(なんな)んとして
但(ただ)梨と栗と覓(もと)む
天運苟(いや)しくも此(かく)の如くんば
且(しばら)く杯中の物を進めん

責子
白髮被兩鬢
肌膚不復實
雖有五男兒
總不好紙筆
阿舒已二八
懶惰故無匹
阿宣行志學
而不好文術
雍端年十三
不識六與七
通子垂九齡
但覓梨與栗
天運苟如此
且進杯中物

(親の私はもういい歳だから)白髪が左右の鬢をおおい、肌もたるんで張りがない。
男の子の子供が五人いるが、みんな勉強が嫌いだ。
(長男の)舒はもう*二八(十六)だが、もともと無類のなまけものだ。
(次男の)宣はやがて学に志す歳(**十五)になるというのに、学問が嫌いだ。
(三男の)雍と(四男の)端は同い年の***十三だが、六と七(を足すと十三になること)も知らない。
(末っ子の)通はもうすぐ九つになるが、梨や栗が欲しいとばかり言っている。
これが、私に与えられた運命(さだめ)なら、まあ、あきらめて酒でも飲みつづけよう。


*二八 (にはち)は、掛け算で16となる
**志学 「論語」に「吾十有五にして学に志す」は、15である。
***六と七 を足せば、13になる

陶淵明のそれぞれの息子たちの実年齢かは定かでないが、
数の掛け合わせ(掛詞)の言葉遊びが通快・愉快である。
これは責めるというよりは、まさに愛情の表れであろう!

箴言 8 章 18節
富と誉とはわたし にあり、すぐれた宝と繁栄もまたそうである。

やはり子年に、子らは宝であり繁栄である!
「丰富尊荣在我;恒久的财并公义也在我」

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