豊臣秀吉が死の1年前、慶長2(1597)年、最後に築城したものとされ、その実態が今まで分かっていなかった京都新城の石垣や金箔瓦が京都市の仙洞御所で見つかった。
京都新城は、慶長2(1597)年に京都御所のすぐ近くに豊臣秀吉が築いたとされていた最後の城で、これまで文献資料が少なく、建物の跡も見つかっていなかったため、詳細な場所が分からないままでした。
しかし、去年11月から行われた京都仙洞御所での工事に伴う発掘調査で、高さ1.6メートル、幅8メートルほどの石垣が見つかり、秀吉が築城した城でしか発見されていない桐紋入りの金箔瓦が見つかったことなどから、京都新城の石垣だと特定できたということです。
今後、石垣は埋め戻されて地中で保存されるということです。
秀吉の築城🏯余談、一夜城
黒田家譜 巻之四より
「筑前國大隈の城あり。益富の城と号す。是は秋月種眞が父宗全隠居城として、是之要害よければ、笈にて又上方勢を防がんと思いし虜に、さしも頼みし岩石の城、一日の中にたやすく攻落されぬと聞て、大隈の城に在し者共、我に城を落て秋月の本城古所山に引退く。頑て秀吉公は大隈の城に入給ふ。(略)
秀吉公大隈の留り給ひしが、敵の氣を奪はん為、暮に及てわざと嘉摩穂浪の村々に、かがり火を多くたかせ給ふ。南は桑野より、北は飯塚の邊に及べり。秋月家人共、古処山の頂より東の方を見渡せば、秀吉公の軍兵両軍に充満して、諸郡の陣に燃す火は晴たる空の星のごとく、野も山も村里も皆軍兵とみえて夥し。夜明けて古所の山上より大隈の城を見れば、一夜の中に見馴れぬ白壁出来、腰板を打たれば、見る者驚きて神燮のおもひをせなり。是は敵の目を驚かし、勇気をくじかんために、播磨杉原の紙を以、夜中に城の壁をはらせ、民屋の戸板を集めて墨を塗り、腰板にさせ給けるなり。」
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